「父と暮せば」を観る

2015年08月16日 | 健康・病気

 
 

今日、私と女房は茨城の私の実家を午前9時過ぎに出た。
埼玉県久喜市の久喜総合文化会館小ホールの駐車場に着いたのは12時ちょうどだった。
施設の中に入って休んでいると、懐かしい水無月の人たちと出会った。
あらためて午後1時30分に入場となった。
私と女房は、入場料999円を払って客席の最前列に坐った。
この入場料を999円にしたのは、“協力 九条の会・久喜”ということなのかなと思った。
これはあくまでも私のぼんやり考えたことです。
会場のデジタル時計の表示が「14:00」に芝居は始まった。
終わったのは午後3時40分、最高の出来の芝居だった。
ところどころにあった“間”がこの芝居の説得力を増幅させた。
この“間”は、ちょっとやそっとでは生まれない。
演劇集団「水無月」は、劇団として最高の域に達したといっても過言ではないと思う。
私は何度か涙をにじませてしまった。
美津江役の琴美ちゃんも竹造役の前東さんも活きいき演技していた。
私はこの2人の「父と暮せば」を5回か6回は観てきた。
これまでやってきた演技の最高のものを出していた。
2人はどんな気持ちで舞台に立っているのかな、と想像した。
長いこと水無月を観てきた数々の舞台のシーンが私の頭の中を駆け巡った。
私は、水無月が創立される前まで大宮で演劇をやっていた。
私が芝居から離れたときに(1979)、それまで一緒にやっていた仲間たちが演劇集団「水無月」を立ち上げた。
最後の役者紹介のときの2人が、「やりきった」というような表情をしてたのが印象的だった。

………以下は、チラシの裏に書いてあった文章です………

◆あらすじ◆
 原爆投下から3年後の広島を舞台にした名作戯曲「父と暮せば」が上演された。
上演したのは演劇集団「水無月」、井上ひさし原作、菅谷弘演出。
 愛するものを原爆で失った娘・美津江。一人生き残った負い目から、恋のときめ
きからも身を引こうとする。図書館の受付にいる美津江の前に現れた誠実な好青年。
そんな娘を思いやるあまり、原爆で死んだ父・竹造が幽霊となって美津江の前に姿
を現し「恋の応援団長」を買ってでる・・・。
 舞台では美津江役の渡辺琴美さんと竹造役の前東誠が迫真の演技を見せた。圧巻
なのは、女学生の同級生たちが次々に死んでいった思い出を語る美津江や、原爆の
高熱で針のようになった原爆瓦について語る竹造の場面。「わしの分まで生きてち
ょんだいよぉー」家の下敷きになって焼死した父は、自分を助け出そうとする娘に
そう語りかける。原爆の恐ろしさ、父親の愛情の深さ、生きることの素晴らしさが
鮮やかに描かれ、観客の涙を誘った。
              2005年8月20日掲載「さいたま新聞」観劇記事から

◆演劇集団「水無月」紹介◆
 演劇集団「水無月」は1980年に結成し、さいたま市大宮地区にあった倉庫を改修
した「水無月」稽古場で主に上演活動を続けていました。昨年2月からは、久喜市
の中央公民館で稽古しています。過去、清水邦夫・つかこうへい・唐十郎・北村想・
竹内銃一郎・井上ひさし諸氏の作品を上演してきましたが、最近は別役実氏の作品
が中心になっています。
 この10年ほどは主に長野県で上演活動をしていました。
 今回の上演作品「父と暮せば」は過去大宮市で4回、吉見町で1回、長野県佐久市
で2回、軽井沢町で昨年1回上演した作品です。東日本大震災と福島原発の事故を井
上ひさしさんが生きていたらどんなご意見を持ち、その後の活動をされていたかを
考えながら上演していきたいと思っています。

コメント
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