2003年11月に行った北海道の旅での史跡巡り編です。
札幌~長万部~江差~松前~函館を巡ってきました。(2003年11月撮影)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《札幌・小樽》
◆琴似神社(札幌市西区琴似一条7丁目)
旧亘理藩(宮城県)藩祖伊達成美を祀った神社。屯田兵として入植した旧亘理藩士が藩祖の遺徳を敬慕して創建したもの。平成6年に、土津霊神(旧会津藩祖・保科正之)が増祀された。土津公が合祀されていることを聞き及び、こちらの神社を訪ねました。境内は落ち葉が敷き詰められ、ひっそりと静まりかえっていました。 初詣でもない限り、かようなところにカメラ持参で訪れる人は皆無に等しいでしょう。(笑)
【屯田小屋(琴似神社内】
琴似神社境内にある琴似屯田兵小屋跡
屯田小屋の内部
◆旧青山別邸(小樽市祝津3丁目)
小樽・祝津の網元で、明治・大正期を通じて鰊漁で巨万の富を築いた青山家の別邸。敷地は約1500坪。山形県酒田市から宮大工を呼び寄せ、ケヤキ、桧など、山形から運ばれた建材を使って作られたそうです。
調度品の数々も目を見張るものばかりですが、中に加賀前田家が高田藩主に贈ったという衣装棚(?)がありました。おそらく明治期になって経済的に困窮した旧高田藩大名家から買い取ったものなのでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《長万部》
◆東蝦夷地ヲシャマンベ陣屋跡
予定にはなかったのですが、たまたま寄った長万部で見つけた陣屋跡。飯生神社という神社の境内にあります。安政3年(1856)幕府の命で蝦夷地警備の任についた南部藩が、南部室蘭陣屋の分屯所として設置した陣屋。濠や土塁の跡が今でもくっきりと残っています。こういう場所って、何故か和みます…
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《江差》
◆開陽丸
開陽丸は徳川幕府がオランダに製造を依頼した、幕末最新鋭の軍艦で、戊辰戦争中、榎本武明らを乗せて活躍しました。江差沖停泊中、暴風雨にあって座礁。この船の喪失はその後の旧幕軍に大きな痛手となりました。
現在江差港に停泊(?)しているのは当時の設計図を元に復元したもの。船の正面には「葵の御紋」が入っています。
隣接して「開陽丸青少年センター」という遺物などを展示している施設があるのだが、休館日で中を見ることは叶いませんでした。(T_T)
◆鴎島
かもめ島は江差港の先端に、ちょうどかもめが翼を広げたような形で突き出た半島。かつて徳川幕府の砲台が置かれていた場所です。また、義経伝説の残る場所でもあります。
写真は幕府の砲台が置かれていた辺り(?)現在はただの草原。
弁慶の足跡(黒いワクで囲った部分)だそうです。
確かに草鞋状にくぼんではいたが、ゆうに5~6メートルはありそうでした・・・
◆法華寺(江差町本町)
もと上ノ国にあったのを寛文5年(1665)に江差に移転した日蓮宗の寺院。
本堂の天井に描かれた「八方にらみの龍」は、池大雅作と伝えられていいます。天井が低いせいか、龍が迫ってくるような迫力がありました。
実はこのお寺、拝観料300円なんですが、拝観しようと玄関を入って呼び鈴を鳴らしても誰も出てこない。仕方ないので2人分の拝観料600円を玄関のあがりかまちに置いて、中を拝見させていただきました。
写真は法華寺の正門。元檜山奉行所の正門だったのを、明治になって当寺に払い下げられたものだそうです。
また、この寺は江差の高台にあり、正門からの眺めもすばらしかったです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《上ノ国》
◆上ノ国勝山館跡
松前家の始祖といわれる武田信広が長禄元年(1457)に築いたもの。夷王山という山を利用して築かれた城館跡で、壮大な丘の上からは日本海が一望でき、天下を取ったような(?)気分に。
館神八幡宮から日本海を望む
墳墓群
草地に白く立っているのが全てお墓。
仏教式の埋葬がされているそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《松前》
◆松前城
福山城とも言われています。
安政5年(1854)に築城された、国内最後の日本式城郭。戊辰戦争後、天守と本丸御門を残して取り壊され、現在、当時の姿を残すのは本丸御門(写真左側)のみで、天守閣は昭和36年に再建されたもの。天守閣の内部は資料館になっています。
◆松前藩藩屋敷
江戸時代の松前の町を再現したものだそうですが、すでに年内の営業が終了しており、入れませんでした。(T_T)
堅く閉ざされた藩屋敷の門が、頑なに人を拒んでいるようで・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《函館》
◆称名寺(函館市船見町)
函館に渡った新選組が屯所としたとされるお寺。土方歳三の死後、慰霊碑が立てられたとされるが、明治の大火で焼失。また、かつて、新選組隊士野村利三郎らの墓もあったと言われ、昭和47年に新たに供養塔が建てられた。
写真はその供養塔。正門を入って正面本堂の左手にある。
境内には高田屋嘉兵衛(寛政年間に江戸~箱館航路を開いた豪商)の顕彰碑などもあるが、それらには目もくれず(スミマセン)、土方さんらの供養塔にお参りしてお寺をあとにしました。
◆碧血碑(函館市谷地頭)
函館山山麓に建つ旧幕府軍死者慰霊の碑。数百名の遺体が埋葬されており、土方歳三ら新選組隊士も、遺体は不明であるが一緒に祀られています。
最初場所がわからず、付近まで来てうろうろしていたのですが、たまたま道路工事をしている人がいたので場所を訪ねたところ、すぐ近く、とのこと。時刻はすでに黄昏時であたりは闇に包まれつつありました。
工事の方いわく、「今から行くの?」(暗にやめたほうがいいよ、と言ってるようにも聞こえました。)
工事の方にお礼を言って、教えられたとおりに坂道を上がって行き、それ以上は車で進めない所まで来て車を止め、約数十メートル歩いて登ったところにそれはありました。
夕闇の中にひっそりと屹立する碧血碑。シチュエーションが妙にマッチしていて、工事の方の言葉の意味が今更ながら思い出されてしまいました。
近辺には石川啄木一族の墓もあるとか・・・。
「聖域」という言葉がぴったりな雰囲気を漂わせた場所でありました。
長居は無用と、碑に手を合わせ、車に戻りました。
◆南部藩士の墓
外国人墓地界隈を車で走っているときに見つけた南部藩士のお墓。蝦夷地警備中に病死した藩士お墓のようです。
◆土方歳三最期の地碑(函館市若松町)
明治2年(1869)5月11日、新選組副長土方歳三が銃弾に撃たれその生涯を閉じたとされる一本木関門跡の地に建つ碑。(若松緑地公園内にある。)
碑前には、土方さんの写真が飾られ、たくさんの花が手向けられていました。合掌。
足を伸ばして・・・
【土方歳三函館記念館(土方・啄木浪漫館)】(函館市日之出町)
函館市内から湯の川温泉に向かうR278沿いにあります。
土方歳三記念館は、今年(2003年)オープンしたばかりの記念館で、映像などを駆使して、彼の生涯や新選組、函館戦争などがわかりやすく紹介されています。土方の愛刀・兼定のレプリカはともかく、沖田総司の愛刀(といわれる)菊一文字や、近藤勇の愛刀虎徹のレプリカまで展示されていたのはオ少々オドロキでした。(爆)
同じ建物に函館ゆかりの歌人石川啄木の記念館も併設されていて、こちらでは啄木ゆかりの品々をはじめ、啄木の生涯をカラクリ人形と映像で見ることができます。
同じ函館の地で、これからの生きる指針を手に入れた啄木と、壮絶な最期を遂げた土方と、その対比があはれでした。
◆五稜郭
函館、といえば五稜郭。あまりにも有名なので、説明は省きます。
写真は五稜郭タワーから見た五稜郭(の一部)。
正確な星型を確認することはできませんが、おおよその形状を見ることができます。
【市立函館博物館分館】
函館奉行所の玄関です。