華語り

心に華を!!

高岡史跡巡り

2012-06-03 18:41:03 | 道々之記

古文書の講座に参加して10年近く、その間、ずっとお世話になった先生が2年ほど前から体調を崩され、今は違う先生が担当されていますが、今日は前の先生の案内で、古文書のお仲間20数名と高岡の史跡めぐりに行ってきました。

瑞龍寺、繁久寺(前田利長の墓の墓守寺)、利長墓所、高岡大仏(加賀藩士寺島蔵人の作った時鐘)、勝興寺と見学しました。

まずは国宝の瑞龍寺。
一般には3代藩主前田利常が、兄である利長の恩に報いようと、その御霊を祀るために建立した寺、と言われているお寺です。
それももちろんあるのですが、実は、利長が、自分が帰依していた越前の宝円寺の僧のために建立したのが始まりだということです。 宝円寺は前田家の菩提寺で、越前、金沢と、前田家がその領地を移動するにしたがって寺もともに移されました。利長が富山、高岡に移ると、それにしたがって宝円寺も移り、富山では「法円寺」と称されていました。(金沢の宝円寺と区別するためでしょうか。)これが、利長の死後、利常によって整えられ、利長の院号から「瑞龍寺」と称されるようになったというのが由緒のようです。

 

山門から仏殿を撮る。山門が額縁のようになって仏殿を写し出すはずなのですが、仏殿が真ん中におさまりませんでした。

国宝だけあって、堂々たる禅寺です。芝生の緑が目にやさしく映ります。
伽藍のほかの建物は、桧皮葺ですが、仏殿だけは金沢城と同じ鉛が使われています。
金沢城の解説などには、有事の際に鉄砲の弾に作りかえるため、などとありますが、鉛が余ったから、というのが真相らしい。もとは仏殿の屋根も桧皮葺だったそう。
お寺の方は、戦の武器の材料となる鉛を仏様のいらっしゃる屋根に上げることで、再び戦にならぬようにした、と解釈されていましたが、そういう優なる解釈も私的には好きです。


こちらは庫裏(台所)をお守りする韋駄天像。いいお顔をされていたので思わず見ほれてしまいました。

前田家と織田家の分骨廟がお寺の脇にあります。利家、利長、信長、信長の側室の宝きょう印塔が並んでいます。利長をお祀りするお寺とあって、利長のものが、御廟の細工からして一番手が込んでいました。

思えば昨日6月2日は本能寺の変の日(旧暦ですが)。その翌日に分骨廟とはいえ、信長に参ることになるとはなんとなくいわくを感じてしまいます。
本能寺といえば、今日3日は、魚津城落城の日。景勝が辛酸を舐めた日でもあります。本来ならば、魚津城に向かって手を合わせるべきなのでしょうが、信長廟に手を合わせてきました。
それでも思いは魚津城に。合掌。

 

利長の墓所は、瑞龍寺からまっすぐに伸びた八丁道の先にあります。何度か訪れていますが、大きなお墓です。武将の中では最大級のお墓。利長の墓所は、金沢の野田山にもありますが、そちらは形だけ。遺骨(遺体)は高岡の墓所に眠っています。

高岡伏木の勝興寺のある場所は、万葉の時代に国府が置かれていた所。大伴家持が国司として派遣されてきたときに、そこで執務を執った場所でもあります。

一向宗の拠点ともなった寺ですが、江戸時代には、前田家から手厚い保護を受けました。城郭寺院の様相を呈していて、堀や土塁の跡が残されています。

現在、改修工事中で、約20年はかかるらしいです。古文書の類も貴重な物を多数所持しているということで、虫干しとして、一般に公開することもあるそうなので、機会があったら是非見たいものです。

帰り、木舟城跡によりましたが、土砂降りで、バスの中からの見学。木舟城は、天正の大地震の時に崩れ落ち、城主だった利家の弟の秀継は圧死。9メートルも陥没したということです。
このお城は一度来てみたいと思っていた城跡です。場所がわかったので、いつかまた行ってみようと思います。なんということのない平城ですが。

帰りに雨に降られましたが、金沢まで来るとぜんぜん雨の降った気配もなく、一瞬の豪雨だったようです。

自分で計画立てて出かける史跡めぐりもまたそれはそれでいいのですが、たまには誰かに連れていってもらうのもいいものですね。同好のお仲間がいるとまた楽しみも倍増します。

 

 


米沢へ~小さな旅の記2

2011-09-30 19:00:46 | 道々之記

米沢行きから2週間がたち、まったくブログにも手をかけずに早季節は10月に突入しようとしています。

さて、前回の続き。18日日曜日は、川中島合戦が行われましたが、2時のスタートまで間がありましたので、三楽堂さんと合流し、街中のスポットは、お互いにほぼ見尽くしてしまっていることもあり、郊外のスポットへ、地図を頼りに訪ねました。

まずは塩野毘沙門堂。
奈良時代、徳一上人という方が謹刻したと伝えられる毘沙門天を祀ってあるとのこと。境内にはちょっとした庭園もあり、水辺がなんともすがすがしい雰囲気。
ただ、本堂の前で、両側にろうそくをともし、熱心に祈祷をしている方がいらっしゃったので、本堂には近寄りがたく、少しはなれたところから本堂を眺め、早々に退散しました。

次に向かったのは上杉家の重臣である色部氏の菩提寺である千眼寺。色部氏といえば、兼続の妹が色部光長の室になっています。
境内には、色部長真が、秋田・大森の検地の折、保呂羽山の羽宇志別神社を分霊した保呂羽堂があります。もともと越後・平林上にあった千眼寺を米沢に移す際、境内に遷座したものと言うことです。
古びたお堂に秋の陽射しが(というか、残暑の陽射しでした)まぶしかったです。

それから成島八幡神社へ。地図で近くまで行けたことは行けたのですが、線路がそばを通っていたりして、どの道をどういったらよいのかわからない。しばらく車で逡巡した挙句、道行くおばちゃんに行き方を尋ねてようやくたどり着くことができました。
4代綱勝が、承応3年(1664)に、本殿を造営したとのこと。仙台に大崎八幡というのがあるらしいですが、そちらは正宗がこの成島社を分霊したもの。大崎八幡のほうは国宝に指定されているそうですが、本家本元はというと・・・。堂々とした本殿は、時の流れをずっしりと感じさせるに十分な風格。分社が国宝であるのと比べると、やや寂しい気もしますが、山中に威容を呈してゆったりと時の流れの中にあるといった趣でした。

正宗が、中国霊山より勧請したと伝えられる虚空蔵菩薩が祀られている舘山寺を見、ちょうどお昼時になったので、お昼を済ませ、直江会の方が用意してくださっていた日朝寺の駐車場へ車を置きに行く。

日朝寺は千坂氏の菩提寺。
車を置き、周辺のお寺を巡り歩く。というか、墓所の徘徊(笑)。

そうこうしているうちに、川中島合戦の時間も近づいてきたので、松川の河川敷へ向かう。


米沢へ~小さな旅の記

2011-09-19 21:35:06 | 道々之記

松岬神社での神前祭、直江会行事に参加するために、片道6時間の行程を、この土日は米沢へ行ってきました。上杉まつりともちょうど重なったこともあり、よい機会だったので、まつりの見学もすることにして。

出発の朝。そぼ降る雨の中を出発。富山に入った頃から雨は土砂降りになり、行く先の天候がものすごく心配になる。それでも越後を北上するにつれ、雨も小やみになり、高速を下りる頃には雨は上がっていました。(というか、まだ雨雲が来ていない状態だったのでしょう。)

米沢入りして真っ先に向かった先は宮坂考古館。U氏から、前田慶次の遺品展を開催しているとの情報をいただいたので。しかも初公開の慶次自筆の書状が展示されているというので、これはもう、見ないわけには行きません。宮坂考古館へは、はじめ米沢を訪れたとき以来の来訪です。

お目当ての書状は、入ってすぐ、よく知られた慶次所用の甲冑の隣に展示されていました。
病気を患っていたらしく、所望していたみかんをいただいたお礼の書状。腰も立たないくらいひどい病状だったようです。『道中日記』に見られる繊細な文字が印象的でした。

 

←考古館の外にある「組外」の石碑。

静かな印象のある博物館ですが、この日は子供づれの家族が来ていました。子どもたちには少々退屈だったかもしれません。

まだ、神前祭までには時間があったので、やはり米沢に来たからにはあの方のもとへ・・・。
というわけで、林泉寺へ。本堂の中は、去年入って説明もしていただいたので、今回は割愛。お墓だけを参拝することに。
相変わらず仲良く寄り添うようにたたずむ兼続とお船の墓所の前で、心を空っぽにして静かに手を合わせる。

それから城址公園へ行き、上杉神社で、先立つ戦のため(笑)、戦勝祈願をする。「勝ち守」も買い、戦に向けて、準備を進める(・・・何の戦か、詳細は今は説明できませんが、戦が終った頃に、いずれ・・・)。

頃合を見て、ホテルに行って車を置き、再び城址公園へ。
松岬神社での神前祭は、厳かに行われました。正座しているのが少々しんどかったですが・・・。

直江会の総会、懇親会と、昨年に引き続き、出席させていただきました。
直江会の方々は本当にお優しく、暖かく接してくださるのが何より嬉しい。
懇親会のあと、上杉まつりの武てい式を観覧するため、魚沼から来られた上田史談会の方々と御いっしょさせていただく。上杉まつりの様子は、翌日の川中島合戦の様子とあわせて、後日まとめて記載したいと思います。

 

 


美ヶ原温泉

2011-07-02 21:53:34 | 道々之記

先週土・日は母と母の姉妹(つまり叔母たち)と、信州松本の美ヶ原温泉に行ってきました。

「美ヶ原」とはいっても美ヶ原高原にあるわけではなく、松本の市街地から比較的近くにある温泉です。
泊まったお宿は「割烹の宿 桃山」
長男に聞いたら、行ったことはないが宿の名前だけは知っているといっていました。長男が知ってるくらいだから、結構有名なお宿なのかもしれません。

そこは庭園の美しいお宿でした。有名な枝垂桜があるそうですが、時期はとっくに過ぎていましたし、つつじも盛りを過ぎ、なんだかくたびれたような花が最後の力を振り絞って咲いているといった風情で、花こそ見ごろではなかったですが、薄曇の空に木々の緑が美しく、一雨来ればそれはそれで風情のある庭の光景でした。

お湯はしっとりと柔らかく、お料理も美味しく、気心の知れた叔母たちと久しぶりにのんびりゆったりした時を過ごすことができました。


武家地巡り

2011-05-09 22:55:10 | 道々之記

日曜日は毎年恒例になっている、本多蔵品館主宰の城下町武家地巡りのイベントに参加しました。講師は例によって北陸大の長谷川先生。長谷川先生の人を引き込むトークは毎度のことながら、うっとりしてしまいます。

さて、今回は、加賀八家の一つである横山家の宅地中心の町巡り。横山家は長隆に始まる加賀藩の重鎮ですが、初代長隆は賤ケ岳の戦いで戦死しており、金沢にはやってきていない。来ているのは2代目の長知から。横山長知といえば、関ヶ原前夜、前田家に謀反の疑いがかけられたとき、家康との折衝に周旋した人物として知られています。そのときは、芳春院を人質に出すことで、話がまとまったのでした。

写真は横山家の菩提寺である松山寺。すぐ近くにこれもまた八家の一つ奥村家の菩提寺である永福寺があります。

こちらの写真は、八家ではありませんが、加賀藩の重臣であった成瀬家の門のあったあたりの写真。石垣あとが見られます。左手の用水は、今でこそ小さな用水となっていますが、かつては屋敷の周りにめぐらされ、堀の役目を担っていたとのこと。説明を受けなければ、ただの用水で片付けてしまいそうですが・・・。

こちらは木曽坂。金沢には、このような坂がいくつもあります。まさに坂の町でもあるのです。

横山家の家中町(下屋敷、横山家の家臣たちが住んでいたところ)中心の町めぐりでしたが、複雑にめぐらされた路地を通って行ったので、おそらくは二度と一人では歩けそうにないです。

路地を抜けるとふっと広い空間が。
金沢には「広見」と呼ばれる、おそらくは火よけ地として機能していたのであろう場所が多々ありますが、ここは広見ではなく、馬場のあとだとのこと。

何も知らなければただの狭い路地でとおり過ごしてしまいそうな所ですが、歴史談義を聞きながら町歩きをすると、かつての風景がそこここに現れるような、不思議な感覚が襲ってきたりもします。

心配していたお天気も、何とか持ってくれて、2時間ほどの有意義な歴史散歩でした。

 

 


長野へ

2011-05-08 09:14:30 | 道々之記

GWの後半3連休は、実家の長野へ行ってきました。
3日、朝バイトを終えた後、家に帰って出かける用意をして出発。
天気も上々、よきドライブ日和でした。
ところが、春日山トンネルのあたりから渋滞。普段なら3時間ほどで行かれる道程5、6時間ほどもかかってようやく到着。これだけ時間があれば、米沢まで行かれる、と思ったり・・・。

二日目は家でまったりして過ごす。慌しい日が続いたので、久しぶりにゆっくりできた感じです。

写真は、実家にあった山芍薬。アイボリーのしっとりとした花ですが、花が開いても1日ほどで落ちてしまうそう。ですが、3日間、花持ちしてくれました。

5日の日は東山魁夷美術館へ。「京都の記憶」というテーマの企画展が行われていました。
東山魁夷は、外国の風景も描いていますが、個人的には和の風景画が好き。
満開の桜の木の上に満月を描いた「月明かり」は何度見ても心がときめきます。

こちらは帰りの国道18号線の道の途中の風景。のどやかな日本の春の風景が目を楽しませてくれます。帰りも高速で、再び渋滞に巻き込まれてしまいましたが・・・

 

さて、帰ってきてみると、我が家の庭では新たな花たちが咲き始めておりました。

ニワウメはしばらく前の画像ですが、ハナミズキは四年ぶりにしてようやく花開きました。緑色の地味な花ですが・・・

そして、バス通り側のトレリスに誘引したモンタナ“ピンク・パーフェクション”がいい感じに満開の時期を迎えていました。
花たちはそれぞれ自分の時期を知っていて、いつの間にか花開き、こちらを驚かせてくれます。


直江会行事に参加して

2010-09-20 21:13:55 | 道々之記

米沢直江会に入会して早7年。この間、毎年送られてくる神前祭などの案内状には「欠席」の欄に印をつけて送っていました。
今年はたまたまこの時期に、夫が会社関係の旅行だというので(それでなくてもお許しは出たでしょうが)、それでは今回は、出席してみようか、と思い立ちました。7月に日帰りで米沢に行ってきたことが弾みになったこともあります。

18日土曜日。
気温を調べてみると、金沢より、2,3度低い気温だったので、少し肌寒いかしら?と思っていましたが、よいお天気で、日中は汗ばむくらいの陽気でした。
当日は朝5時前に出発。今回は会津若松経由で行くことに。会津若松というと、寄り道をしたくなるところですが、寄り道をせずに、まっすぐ米沢に向かいました。
同じ時期に入会した三楽堂さんの、新幹線の到着時刻にあわせて向かったつもりでしたが、一足違いですでに新幹線は到着しており、伝国の杜で待ち合わせ、無事にお会いすることができました。

お昼を軽くとった後、この日から上杉博物館で始まった特別展「上杉家家臣団」を見学。文書中心の企画展でした。会津にある兼続所用と伝わる甲冑も展示されていました。これは、会津に行ったときに見たのかもしれませんが、まったく記憶になく、今回が初めてです。
肝を抜かされたのが、「三宝荒神形(さんぽうこうじんなり)兜」。伊達家に伝来したもので、謙信所用と伝わっているものだそうです。憤怒の形相をした三面の顔を持つ三宝荒神の兜、という説明がありましたが、とにかく三面が三面ともものすごい形相で、こんな兜をかぶっていた謙信っていったい・・・、みたいな感覚とでも言ったらいいのでしょうか。他者を威嚇するに十分な兜です。

印象に残ったのは、最後のほうにあった「侍組禄席掌故」。これは米沢藩成立直後の上級家臣団の名簿で、慶長十二年の知行が記されていました。
筆頭は武田信清。信玄の六男に当たる人物です。千石とあって、次の村上義国、本庄繁長らより石高は低いですが、家格の順位で記されているようです。
冊子になっているので、1ページ目しか開かれていませんでした。後の方を見たいね、と三楽堂さんと話しをしながら、企画展を後にしました。
あとで購入した図録には、あとのページも写真版で載っていて、直江父子3人(兼続、景明、勝吉=本多政重)の名もありました。3人で7万石を与えられていました。(政重、1万石とばかり思っていましたが、3万石与えられていたんですね。)

たまたま「直江兼続が米沢に残したもの」というシンポジウムをやっていて、神前祭が始まるまでの時間つぶしに、と思っていったら、大盛況で席がなく、後ろのほうで細々と聞いているような状態でした。レジュメが立派な冊子になっていましたので、後ほどゆっくり読むことにします。

さて、肝心の直江会の行事。
神前祭は兼続を祭る松岬神社にて。初めてお堂の中に入りましたが、天井の四方には百人一首の人物と思われる絵馬が飾られていました。
神主さんの厳かな祝詞のあと、玉串奉奠、厳粛な雰囲気の中で神前祭は執り行われました。こういう場に参加できるというのも、なかなか経験できることではありませんので、こういう機会を提供してくださった直江会には感謝です。

場所を移して、総会、そのあと、懇親会と続きます。
今回は六日市の方々も参加され、遠方から参加したとして、私たちも紹介され、少々照れくさかったですが、米沢の方々、ことに兼続で結ばれた方々とお話を交わすことができたことは何物にも代えがたい宝物です。
惜しむらくは、直江会に入会する際にいろいろ教えてくださり、初めて米沢を訪問したときには本当に丁寧にさまざまな資料を送ってくださったK氏がお亡くなりになってしまったこと。生きている間にお会いしてきちんとお礼がしたかったですが、それだけが心残りです。
米沢の方々の温かい心、おもてなしに触れ、本当に来てよかったと思いました。

←夜の上杉神社

翌日は、上杉神社におまいりしたあと、一花院跡(前田慶次が埋葬されたと伝えられている)を見、極楽寺の四辻氏(定勝母)のお墓まいりをして帰途に着きました。

 ←一花院跡

←四辻氏他上杉家廟所

 


そうそう。土曜日は「米沢戦国まつり」なるイベントをやっていたらしく、博物館の前で、かねたんを目撃しました。↑(隣のお子様は当然の事ながら筆者とは関係ありません。)


Gackt謙信 見参!

2010-08-23 23:04:33 | 道々之記

最近また、元気がなくなることが多くなって、土曜日などは仕事から帰ってくるのに体調がひどく悪くて、よく、車を運転して帰ってこれたと思うような状態でした。
元気だったら行こうと思っていた謙信公祭。土曜日の状態が続いていたら無理かな?と思っていましたが、日曜日には少し元気になって、遠出のドライブも大丈夫そうだったので、上越へ行ってきました。

夕方からのパレードなので、昼過ぎにうちを出発。
駐車場を探すのに少々手間取りましたが、ちょうどよい時間にパレードの行われる場所に到着することができました。

『RETURNER~闇の終焉』の曲が鳴り響き、いよいよGackt謙信登場!?
沿道に歓声が響き渡る。
いつ来るか、と思ってカメラを構えて待っていると、Gackt謙信公、目の前を馬に乗って疾風のごとく走っていってしまわれた。
まさか、それだけ?
「あれで終わりじゃないよね?」周りからも異口同音に声が聞こえます。誰かが警備員の人に聞いたところによると、また戻ってくるとのこと。
しばし、その場で待機。

暑いことは暑かったですが、時折吹く風が涼を運んできてくれました。

米沢の稲富流の鉄砲隊の方々も来て、演武をされたようですが、時間の関係でこちらは割愛しました。(川中島古戦場での演武が思い出されます。)

遠くで御屋形様らしき人の声がする。
「いざ、出陣!」
今度はゆったりとした足取りで歩を進め、御屋形様は目の前を通り過ぎていかれました。
TVで見るのと同じく、なんとも凛々しいお姿。
『源氏物語』の中で、北山の僧都が光源氏のことを「いみじう世の憂へ忘れ、齢延ぶる人の御有様なり」ということを言っていますが、まさにGackt謙信がそれ。
しばらくはテンションが上がっていられそう。

 

色部隊、柿崎隊、本庄隊など、上杉家の錚々たる家臣団が御屋形様の後に続きます。殿の方になぜか直江隊と景勝隊も・・・。(本当の殿は景虎隊だったでしょうか。)

そのあと、真田幸隆隊を先頭に、武田軍の軍行。
武将に扮しているのは一般公募の方々と聞きますが、立ち止まっては勝鬨を上げたり、パフォーマンスをしてみせたりと、暑い中、お疲れ様でした。

こじんまりとしたお祭という印象でしたが、温かみのあるお祭でした。
百万石祭りは規模は大きいですが、焦点がどこかぼやけてしまっているようで、どうしても比べてしまいます。

町のあちこちに、「祝 謙信公祭」の旗がはためき、町全体が謙信公を顕彰している様子が伝わってきました。そこにGackt謙信が、大輪の花を添えている。
謙信だからこそ、なのでしょうが、一人の武将を町を上げて何年も顕彰し続けるというのはすごいことだなあと上越の人々の心の熱さに頭が下がる思いです。


さて、こちらは戦利品(というか、ただ単に購入してきただけなのですが。)。愛車用のキーホルダーです。


小さな旅の記~彦根篇~

2010-08-18 23:02:37 | 道々之記

17日は彦根方面へ。

途中近江八幡へ寄り道。あいにく月曜日で、博物館関係はことごとく休館。
町並みだけの散策になりましたが、蝉時雨の降り注ぐ中、古の時代にタイムスリップしたような錯覚にとらわれます。

水郷を行く屋形船が涼を運んで、ゆったりと下ってゆきます。

日牟禮八幡にお参りし、汗だくになりながら、駐車場に戻ります。
途中の町屋の民家の前に、朝顔の鉢が3つ、仲良く並んでいました。
こういう町並みに朝顔って、とてもよく似合います。左端の朝顔は、ことに青地に白い縦筋が入っていて、なんだか風車のようでとてもかわいらしかった。
よそのお宅とは知りながら、写真に収めさせていただきました。

彦根へ向かう途中、安土城跡の横を通りました。
安土城は見たいことは見たいけれど、もし、春日山城が隣にあれば、間違いなく春日山城に行く私。こと、安土城に関しては、それほど固執しているわけでもないので、今回は「安土城跡」とかかれた大きな看板を横目に見て、素通り。

彦根に向かったのは、ひこにゃんに会うためではなく、彦根城内に「玄宮園」という庭園があるのですが、そこにある料理旅館にお昼を予約していたためなのです。

八景亭」というその旅館は、もちろん宿泊もできるのですが、お泊りするには少々値が張る。食事くらいなら、うちの近所のフレンチレストランで食べるより多少は安いかも・・・?と言うわけで、プチ贅沢を決行した次第です。実は、今年、夫の勤続25年の年であり、私からのささやかなお祝いの気持ちもあったのです(本人には、そのことを伝えていなかったかな。)

通されたのは「浮見堂」と呼ばれるお部屋。もう一つ、広い部屋があるのですが、ひょっとして、一番いい部屋に通されたのかも。何でも殿様の御座所だったお部屋だと言うことですから。

床の間の横に3尺ほどの幅の「武者隠しの間」があります。
床の間の右手の柱の一部が黒ずんでいて、そこは殿様が寄りかかって、頭が触れていた所だと言うことです。

涼を感じさせるガラスの器に美しく盛られた料理の数々は、上品なお味で絶品ですが、殿様と同じ風景を眺めながらいただく食事という付加価値付きで、更にその美味しさが増すというもの。まさに至福の時を過ごすことができました。

 

食事を終えて、玄宮園を散策。水が近いせいか、猛暑の中でも幾分涼しさが感じられた気がします。
食事をいただいたのは写真左正面の建物。

上の写真にも写っていますが、一羽の鷺が妙なポーズを決めていたので、思わずカメラに収めました。
ちょうど人間が手のひらを上に向けて日を受けているような格好で、翼をだらりとたらし、その先だけをちょっと上に向けて、岩の上に立っているのです。あまりに奇妙な格好なので、銅像?と思ったのですが、頭が動く。濡れた翼を日に当てて甲羅干しならぬ翼干しでもしていたのでしょうか。

 

最初、玄宮園と彦根城内の見学だけの予定だったのですが、正門から中に入ると

「激動の佐和山城 石田三成の時代」

なるポスターが目に入りました。博物館で行われている企画展です。

見たい・・・

彦根城の天守閣などにも登りましたが、博物館の企画展がどうも気になる。
やはり、見たい・・・

「見ないで帰ったら、一生恨まれそうだから。」
夫は、自分はお土産見てるから、博物館見てきていいよ、と言ってくれました。喜び勇んで行ったのは言うまでもありません。

チケット売り場のおじさんが、
「博物館だけ?」と、少々怪訝そうな顔をされていましたが(すでに城内は見学済みでしたので)そんなことは気に留めず、三成展を見に行く。

展示は文書関係中心でしたが、中でも印象に残っているのは、、年貢のことは嶋左近らに任せる、と記された、三成が家臣に当てた判物。文書で左近の名を見るのはおそらく初めてだったので、妙に感激しました。

井伊家の宝物の数々は、さっと飛ばしながら見学。

ひこにゃんには会えなかったけれど、行ってよかったです、彦根城。

私の実家に電話したら、その日は母も家にいるというので、急遽実家へ行くことに。お盆だし、父のお墓まいりのために実家に向かう。
名神から中央道を通って長野道にはいる。以前、岐阜に住んでいた頃、しばしば使った高速道路なので、懐かしい思いで車を走らせました。(運転はもっぱら夫がしてくれましたけれど。)


小さな旅の記~大津篇~

2010-08-18 00:07:04 | 道々之記

16、17日と夫が休みを取ったというので、私も無理に塾の先生にお願いして、休みをいただきました。

「どこへ行く?」との夫の質問に、迷わず「滋賀。大津に行きたい美術館がある。」と私。

日曜日に出発し、一泊二日の小さな旅に出る。

以前から行きたいと思っていたのは、35歳で夭折した女流画家三橋節子の美術館。ある冊子に載っていた『三井の晩鐘』の絵に、鳥肌が立つくらいの感動を覚えて以来、本物を見たいとずっと思っていました。
彼女は利き腕の右手に悪性の腫瘍ができ、右肩を切断。その後、さまざまな試練を乗り越えて、左手に絵筆を持ち替えて、作品を仕上げていきました。
梅原猛さんが、三橋さんのことを書いていらっしゃいます。詳細はコチラに。
まだ幼い子どもたちを残し、自らの命の短さを知っている彼女の心の闇は想像を絶するものがあります。その中で、絵筆を握り続けた彼女の強さに、少しでもあやかりたいもの。

彼女の絵は、生まれ故郷の滋賀の地の昔話を題材にしたものが多い。『三井の晩鐘』もそのひとつ。彼女の絵の多くは、テーマは母と子に集約されているような気がします。自身の運命を、昔話の中にオーバーラップさせていたのかもしれません。暗さの中にもどこか温かみのある彼女の絵が、私にはひどく心地いい。多分一人だったら、『三井の晩鐘』の前で、ぽろぽろ涙を流していたかもしれません。

記念に求めたのは、『三井の晩鐘」ではなく、『花折峠』の複製画。これも昔話を題材にした絵で、川に沈み行く娘を中央に配置し、素材的には哀しい絵のはずなのですが、さまざまな野の花に囲まれ、色彩も明るく、笑みまで浮かべている娘は、川の流れにたゆとうているだけのようにも見えなくもない。実際、娘は死んではいなかったようで、心優しい娘のために、野の花が身代わりになったもののようでもあります。

 

 

美術館のあとは、これもまた、以前から行きたいと思っていた義仲寺へ向かう。
門の前に車一台がようやく 止めることのできるスペースがあるだけのこじんまりしたお寺です。
義仲は、信州で育った私には、ちょっとしたヒーローのような存在。おまけに彼の家臣の一人が直江さんの祖先であると言われているからには、やはり・・・^^;

お盆でもありますので、義仲のお墓にお参り。隣にこじんまりと巴塚も並んでいます。巴塚は小矢部にもありましたが、彼女はさまざまな伝承が残っているのですね。
松尾芭蕉もこの場所をしばしば訪れており、境内には芭蕉の句碑がいくつもあります。芭蕉は大坂で亡くなっていますが、「骸は木曽塚に送るべし」との遺言から、この地にもお墓があるようです。

古池には「蛙」ならぬ、亀がたくさん泳いでいました。

  古池や 亀の飛び込む 水の音・・・?

 

義仲寺を出て、石山寺に向かう。途中、膳所城址の前を通過。現在は公園になっているようです。
膳所といえば、兼続の息子景明が、膳所藩の戸田氏鉄の娘と結婚していますね。そんなことを思い出したので、車窓から、公園入り口の門を写してみました。↓

 

石山寺は、説明するまでもなく、有名ですね。
紫式部が『源氏物語』の着想をしたという言い伝えも残っているお寺です。
ことに平安時代には、さまざまな人が石山寺に参篭しています。
古典の中にはしばしば出てきますね。

石山寺は、その名のごとく、奇岩とまでは行かないまでも、巨大な岩石の上に伽藍が建てられているといった趣の寺です。岩石マニアの長男がいたら、大喜びしそうな場所でもあります。

この時期、どこへ行っても百日紅の花がきれいですが、このお寺も例外ではなく、百日紅がいたることろで咲いていました。伽藍の屋根と百日紅の花の色がまた美しいコントラストを織り成していました。

 

この日の最後は三井寺(園城寺)へ。
途中、見たことのある道を通るなあ、と思ったら、三橋節子美術館のごく近くでした。
すでに拝観終了時間20分前で、受付に行くと、
「時間も時間なので、拝観料は、結構です。」
とのこと。お言葉に甘え、時間の許す限り、三井寺を散策。本堂までの階段が、かなりきつかったです。
写真は、本堂の屋根の向こうの大津の町並み。

一日目の行程はここまで。
宿泊は湖を少しだけ北に走った所にある雄琴温泉。
温泉三昧をして、日ごろの鬱屈も、少しは取れた・・・かな・・・?

翌日は彦根方面へ。続く・・・