3月はじめの日曜日・・・
北陸も朝から青空が広がっていました。この日は古文書の講座の方々と名古屋の荒子方面へ、前田利家関連史跡を巡ってきました。
北陸道から東海北陸道を通って一路名古屋へ。途中北陸道の小矢部付近で大型トラック2台と乗用車が巻き込まれた事故の跡を目撃してしまいました。一台のトラックは道をふさぐ形で停車、もう一台は前方がぐちゃぐちゃに壊れているようでした。反対側の車線だったので、こちらはスムーズに進むことができましたが、改めて事故の恐ろしさを目の当たりにした旅の始まりでした。
東海北陸道は、去年開通したばかりの新しい道路で、10数年前、岐阜に住んでいた頃、出来上がるのを切望していた道路でもあります。
この高速道路は、日本で一番標高の高いところを走る道路だと聞きましたが、今年は何処も雪が少ないようでした。
お昼前に名古屋に到着。
最初に訪ねたのは桶狭間の古戦場。
現在では土地開発が進んで、宅地や道路が整備されているので、当時の面影を残すところはみられません。
道路が整備された現在でも、起伏が結構激しく、わずかながらに当時の地形の片鱗を感じることはできました。
古戦場跡とされている箇所を二ヶ所訪れました。
最初にいったのが「桶狭間古戦場公園」。義元の本陣があったとされる地です。
住宅街の中の普通の公園で、いかめしい公園の名称とは裏腹に、子供たちがのどかに遊んでいました。
今川義元の本陣跡と伝えられているところで、義元が馬を繋いだとされる「ねず塚」(写真左下)、近くを流れる鞍流瀬川(くらながせがわ)から発見されたという「桶狭間古戦場」の文字を刻んだ石碑(写真右下、この石碑には正面に「桶狭間古戦場」、裏面に「文化十三年丙子五月建」の文字が刻まれ、ほかにも刻まれているようですが、すでに風化して読めなくなっているそうです。)などの「状況証拠」が残されています。
←桶狭間古戦場公園
こちらは二つ目の桶狭間古戦場跡。
こちらもこじんまりとした公園になっていて、今川義元のお墓があります。(写真左下)
道路を挟んで向かい側に高徳院というお寺があります。
高徳院というと前田利家の院号ですが、利家がこのお寺に出世のお礼にいろいろ寄進したことにより、彼の院号を寺号にしたということです。
桶狭間合戦当時、利家は信長の同朋衆の拾阿弥を殺害し、信長の勘気を被って出仕を停止されていました。
この戦で武功を挙げて、信長の許しを請おうとして、敵の首をいくつも取ってきますが、結局この戦ではその戦功を認めてもらえませんでした。
桶狭間のあたりには「2010年桶狭間合戦 450周年」と記された幟旗がはためいていました。
桶狭間合戦というと1560年。この年は、直江兼続が生誕した年でもあります。個人的には桶狭間より兼続生誕年の方がしっくりきたりします。
ということは、来年、兼続生誕450年ということになります。
米沢市、直江会あたりで、生誕イベントを何か企画するでしょうか。どうか大河で燃え尽きてしまうことがありませんように・・・
名古屋港のレストランで昼食をとったあと、熱田神宮へ。こちらは「信長塀」を見学しただけで次の目的地(今回のメインの目的地)である荒子へ移動。
写真右上は荒子駅まえにある若き日の利家像。かなりのイケメンでした。
それから前田氏の菩提寺であった荒子観音へ。
地元の町おこしボランティアの方と合流して、荒子観音→荒子城跡→前田速念寺を見学。
《荒子観音寺》
白山信仰とかかわりの深い泰澄の開基。尾張四観音の一つ。
写真左上が山門と多宝塔。多宝塔は名古屋市内最古の木造建築だそうで、2層の塔はとてもどっしりとした印象を受けました。
山門には円空作の高さ約3メートルの仁王像が安置されています。暗くて本物の仁王像のお顔は見ることはできませんでしたが、写真を見る限りにおいて、いかめしい表情の中に、どこか温もりと親しみやすさの感じられるお顔をしていたように思います。
このほかにも、このお寺には多くの円空仏が安置されています。
荒子地区は、名古屋市の中でも空襲にあわなかった地域だったということで、路地を歩くと昔の面影をしのぶことができます。
ここが名古屋という都会であることを忘れてしまうような、ほっとする陽だまりのような土地です。
《荒子城址》
荒子観音から路地を通って200メートルほど歩くと、前田氏の居城であった荒子城跡に着きました。
ここには写真右下の「前田利家卿誕生之遺址」の碑が建っています。現在は富士権現天満宮の境内になっています。(写真左下)
前田氏といえば梅鉢の紋所。境内には紅梅、白梅が植えられていて、青い空に梅の白がよく映えていました。(写真左中)
前田氏の家督といえば、本来ならば長兄利久の養子である慶次郎が継ぐはずのところ、信長の鶴の一声で利家が継ぐことになりました。上杉家の御館の乱のような争いこそありませんでしたが、それでも一波乱あっての家督相続だったことには違いありません。
『乙酉集録』にある「荒子御屋舗構之図」には「前田殿御城」(荒子城)の南東に「慶次殿御屋敷」も記されており、前田慶次がこのあたりに住んでいたことを思うと感慨も一入です。今回は表向き「利家を訪ねる旅」でありましたが、私の中では「慶次の面影に触れる旅」でもあったのです。
《前田速念寺》
最後に訪ねたのは、前田氏発祥の地である前田城がかつてあった、前田速念寺。
利家の生誕の地は、先に訪れた荒子城と、ここ速念寺と2説あって、どちらとも定めがたいようです。
山門は「梅廼寺」と書かれた額が掲げられ、歴史を感じさせる重厚な造りですが、一歩門の中に足を踏み入れると、目の前に現れるのは、一風変わったモダンな建物。(写真上)これが本堂なのですが、信々深い人には合掌している様に見えるそうですが、凡人の私にはどうみても兜の形にしか見えません。本尊は利家が寄進した聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来です。この阿弥陀仏の台座のところに利家が寄進した旨の記録が残っています。
速念寺のご住職のお話を聞き、境内にある前田氏のお墓にお参りして本日の予定は終了。
帰りは米原経由で金沢へ。
途中松任のあたりから雨になりました。
今回のイベントの目的は、利家史跡を訪ねることもありましたが、荒子のある名古屋市中川区の方々との交流が大きな目的でした。
荒子観音、荒子城跡では大変詳しく解説をしていただきました。
中でも利家がこの地を去るときに残していったという「ばどん」という馬飾りの風習を現在も脈々と伝えられていることを知り、郷土出身の人物を大切に思う気持ちを強く感じました。
「町おこし」ということ以上に自分の住む町を大切に思っている、その気持ちの温かさに、頭の下がる思いでした。