米沢直江会に入会して早7年。この間、毎年送られてくる神前祭などの案内状には「欠席」の欄に印をつけて送っていました。
今年はたまたまこの時期に、夫が会社関係の旅行だというので(それでなくてもお許しは出たでしょうが)、それでは今回は、出席してみようか、と思い立ちました。7月に日帰りで米沢に行ってきたことが弾みになったこともあります。
18日土曜日。
気温を調べてみると、金沢より、2,3度低い気温だったので、少し肌寒いかしら?と思っていましたが、よいお天気で、日中は汗ばむくらいの陽気でした。
当日は朝5時前に出発。今回は会津若松経由で行くことに。会津若松というと、寄り道をしたくなるところですが、寄り道をせずに、まっすぐ米沢に向かいました。
同じ時期に入会した三楽堂さんの、新幹線の到着時刻にあわせて向かったつもりでしたが、一足違いですでに新幹線は到着しており、伝国の杜で待ち合わせ、無事にお会いすることができました。
お昼を軽くとった後、この日から上杉博物館で始まった特別展「上杉家家臣団」を見学。文書中心の企画展でした。会津にある兼続所用と伝わる甲冑も展示されていました。これは、会津に行ったときに見たのかもしれませんが、まったく記憶になく、今回が初めてです。
肝を抜かされたのが、「三宝荒神形(さんぽうこうじんなり)兜」。伊達家に伝来したもので、謙信所用と伝わっているものだそうです。憤怒の形相をした三面の顔を持つ三宝荒神の兜、という説明がありましたが、とにかく三面が三面ともものすごい形相で、こんな兜をかぶっていた謙信っていったい・・・、みたいな感覚とでも言ったらいいのでしょうか。他者を威嚇するに十分な兜です。
印象に残ったのは、最後のほうにあった「侍組禄席掌故」。これは米沢藩成立直後の上級家臣団の名簿で、慶長十二年の知行が記されていました。
筆頭は武田信清。信玄の六男に当たる人物です。千石とあって、次の村上義国、本庄繁長らより石高は低いですが、家格の順位で記されているようです。
冊子になっているので、1ページ目しか開かれていませんでした。後の方を見たいね、と三楽堂さんと話しをしながら、企画展を後にしました。
あとで購入した図録には、あとのページも写真版で載っていて、直江父子3人(兼続、景明、勝吉=本多政重)の名もありました。3人で7万石を与えられていました。(政重、1万石とばかり思っていましたが、3万石与えられていたんですね。)
たまたま「直江兼続が米沢に残したもの」というシンポジウムをやっていて、神前祭が始まるまでの時間つぶしに、と思っていったら、大盛況で席がなく、後ろのほうで細々と聞いているような状態でした。レジュメが立派な冊子になっていましたので、後ほどゆっくり読むことにします。
さて、肝心の直江会の行事。
神前祭は兼続を祭る松岬神社にて。初めてお堂の中に入りましたが、天井の四方には百人一首の人物と思われる絵馬が飾られていました。
神主さんの厳かな祝詞のあと、玉串奉奠、厳粛な雰囲気の中で神前祭は執り行われました。こういう場に参加できるというのも、なかなか経験できることではありませんので、こういう機会を提供してくださった直江会には感謝です。
場所を移して、総会、そのあと、懇親会と続きます。
今回は六日市の方々も参加され、遠方から参加したとして、私たちも紹介され、少々照れくさかったですが、米沢の方々、ことに兼続で結ばれた方々とお話を交わすことができたことは何物にも代えがたい宝物です。
惜しむらくは、直江会に入会する際にいろいろ教えてくださり、初めて米沢を訪問したときには本当に丁寧にさまざまな資料を送ってくださったK氏がお亡くなりになってしまったこと。生きている間にお会いしてきちんとお礼がしたかったですが、それだけが心残りです。
米沢の方々の温かい心、おもてなしに触れ、本当に来てよかったと思いました。
←夜の上杉神社
翌日は、上杉神社におまいりしたあと、一花院跡(前田慶次が埋葬されたと伝えられている)を見、極楽寺の四辻氏(定勝母)のお墓まいりをして帰途に着きました。
←一花院跡
←四辻氏他上杉家廟所
そうそう。土曜日は「米沢戦国まつり」なるイベントをやっていたらしく、博物館の前で、かねたんを目撃しました。↑(隣のお子様は当然の事ながら筆者とは関係ありません。)