ここ数日、冷たい雨模様のお天気が続いています。
今日も朝から曇り模様。重い雲が空を覆っています。
せっかく咲いたバラたちも、雨に打たれてその麗しき姿形を存分に輝かせることができずにいます。
もう5月も終わるというのに、衣替えの季節だと言うのに、衣替えもできそうにありません。
先週咲いたバラの中から。
新雪、プロスペリティー、ザ・ピルグリムです。集めてみたらホワイト系がそろいました。
話は変って・・・
今日は本多蔵品館で行われている特別展に関連の講演会に行ってきました。
「本多正信・正純・政重」という特別展が行われているのですが、「藩政初期の本多家」という演題で、長谷川孝徳先生のお話がありました。
直江家を辞して、前田家に仕えてからの政重と、父正信や兄正純との関係や、「新座者」である本多家が、加賀藩の重鎮になる過程について、大変興味深いお話をうかがいました。
正信は、家康の懐刀などとも言われ、家康の側近中の側近でありました。正信が亡くなるときにいわゆる「形見分け」をしているのですが、一族や家臣のみならず、主筋である徳川一門の人々にも遺物を献納しています。これは一般的には考えられないことで、正信が、いかに家康に近しい人物であったかということを物語っている、といった話(この形見分けの目録は特別展に出品されています。)、上杉家が関ヶ原の後、正信を介して戦後処理を行い、減封という憂き目は見たものの取り潰しにならずにすんだのは、家康の側に上杉家存続の意思があったことももちろんあるのでしょうが、上杉家(直江さん)が幕閣の中での力関係を見誤らなかったことも大いに関係しているのでしょう。
それから、本多正純の宇都宮つり天井事件に関連して。
正純は改易となりましたが、連座ということが当然であったはずなのに、政重や、そのほかの本多家の一族は連座して罪をこうむることはありませんでした。おそらくつり天井の話は作られた話で、実際のところ、正純は将軍や幕閣の連中に「嫌われた」のでは?ともおっしゃっていました。
政重は、兄正純の改易に際して、自分も罪を受けることになるのか問い合わせたようで(問い合わせたという史料は残っていないようですが)、当時の老中(酒井忠世だったか)から、「おかまいなし」とのお墨付きをもらっています。
(この書状も、同展に展示されています)
こうしてみると、政重という人は、それがいいのか悪いのかはわかりませんが、きわめてスリリングな人生を歩んだ人物であったわけです。それを歩んでのけちゃう胆力には、ただただ感心するばかり。
講演が終わり、本多家の若殿にご挨拶。
上杉博物館で「戦国大名とナンバー2」という特別展(兼続生誕450年)が昨日から行われています。(7月19日まで)7月4日に「前田家家臣団と直江勝吉」との演題で講演されるとのこと。
この特別展には、本多蔵品館からも何点か資料を出展しているそうです。
上杉家と前田家は、かつては浅からぬ関係があった、現在はそうでもないが、改めて、その架け橋になればという思いで、お話してこようと思っています、とおっしゃっていました。
米沢、行きたい・・・