今日は急に仕事がオフになりました。
昨日までの雨も上がって天気もそこそこ。家の中でくすぶっているのもなんだかもったいない。そうだ。七尾へ行こう!
七尾美術館で『能登畠山氏と能登の美術』という企画展が今月26日まで開催されているのですが、どうも土・日は見に行かれそうにない。そこで急遽、本日行くことにしました。
行きは無難に能登有料道路を通って。料金所が細切れにあるのが気に入らない。せめてETCが使えるようになって欲しいといつも思う。
約1時間半で七尾に到着。
駐車場に車を止めて、数十メートルほどの小道を通って美術館へ行くのですが、両脇に植えられた木々、うっすらと紅葉していました。
能登畠山氏は、室町幕府の管領職に就いていた畠山氏の庶流で、1408年に能登守護となって以来、能登国を統治してきた一族です。今年能登畠山氏が創立されてちょうど600年になるのだとか。その記念事業で、畠山氏に関する文書や、能登の美術では長谷川等伯を中心とした絵画が展示されていました。
長齢寺所蔵の前田一族の画像(前田利春、安勝、利家、利政の画像)、これらは以前、長齢寺で見ましたが、一堂に展示されており、今、長齢寺の宝物館は空っぽな状態ですね(笑)
畠山氏関係では、第7代当主の畠山義総が主催した百韻連歌が目を引きました。
ひとしきり美術館を見たあと、「第二会場」である七尾城史資料館へ。
七尾城の城山の麓にある資料館です。こちらは畠山氏の文芸関係と七尾城や城下の遺跡からの出土品を中心とした展示。
「畠山義総関係文書」10通は紙背文書(一度使用された紙の裏を再び利用した場合の、もとの表側に記されたもの)として伝来したものだそうで、「伊勢物語」などの借用の依頼などを記した書状などです。
また、畠山氏滅亡後、重臣だった遊佐氏は上杉謙信のもとに身を寄せますが、能登に残った十松が、天正六年の正月に年賀の品として海鼠腸を謙信に贈ります。それに対する謙信の礼状も展示されていました。
こちらは以前、歴博でも見たものですが、二月八日付の書状で、この約1ヶ月後には、謙信は帰らぬ人となるのですね。
本当に普通にお礼状なだけに、その後の謙信の死を思うと、人の命の儚さのようなものが切なく感じられもします。
この資料館は七尾城跡の麓にあるのですが、七尾城、行こうかどうか迷いましたが、一人で山城を歩くのは、あまり楽しくないので、今回はパス。七尾城は好きなお城の一つなんですが・・・
帰りはR159を走ることにして、途中にある能登国分寺跡を訪ねました。
ここも前に一度訪れたことがあるところ。
能登国分寺は、国分寺建立の詔が出てから約100年後にできたもの。それまであった大興寺というお寺を格上げして国分寺にしたということです。
能登の国分寺がなぜ100年もあとになってできたかというと、もともと加賀・能登は越中・越前(能登は越中)に属していて、その後分離して能登国、加賀国が出来上がった経緯があるからなのです。
ちなみに国分寺は正確には「金光明四天王護国之寺」というのだそうです。
田んぼの中にあったおかげで、発掘も比較的スムーズに行なわれ、昭和49年に国の史跡指定を受けたのだそうです。
発掘のきっかけになったのは、写真下の通称「エボ石」。実は塔の礎石だったものなのですが、かつて、この中にたまった水をできものにつけるとよくなるという言い伝えがあったといいます。また、近くの小川から和同開珎が見つかるなどして、発掘の機運が高まったという経緯もあったそうです。
現在南門が復原されて当時を偲ぶよすがとなっています。
出土品などを展示した展示館もあるのですが、客は私一人。
私一人のために、館長さんがビデオをつけてくれ、また、簡単に展示品の解説もしてくださいました。
ビデオの中で、大きな古墳が出てきて、とても気になったので尋ねたところ、近くにあるというので、帰り道、そこに寄って帰ることにしました。
その古墳がこちら。
「院内勅使塚古墳」という7世紀初め頃の古墳。だれのものかは不明ですが、当時この地を支配していた能登臣のものといわれています。
1辺が約23メートル、高さ約4メートルの方墳で、周囲に周豪(堀)を巡らせていたらしいことがわかります。
石室内部は盗掘されてしまっていて、石棺や副葬品などは残っていないとのこと。
ただし、石室はかなり立派で、飛鳥の石舞台を髣髴させるものがあります。
石室内部をのぞいてみましたが、中はひんやりとした異空間といった趣で、奥まで入るのははばかられ、入口近くで内部を撮影。
古墳をあとにして、帰路につく。
途中あちこちにコスモスの群生が風に揺れていました。
信号待ちの車窓から一枚。