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まい・ふーりっしゅ・はーと

京都発。演奏会や展覧会、読書の感想などを綴っています。ブログタイトルは、ビル・エヴァンス・トリオの名演奏から採りました。

京都市交響楽団 第703回定期演奏会

2025-09-04 19:29:47 | kyokyo
2025年8月30日(土)14:30開演、@京都コンサートホール・大ホール
指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント(首席客演指揮者)/管弦楽:京都市交響楽団


独奏:HIMARI(ヴァイオリン)
独唱:石橋栄美(ソプラノ)・中島郁子(メゾ・ソプラノ)・山本泰寛(テノール)・平野和(バス)
合唱:京響コーラス


            *  *  *  *  *

●ドヴォルザーク:ロマンス、ヘ単調、作品.11
●ヴィエニャフスキ:ファウスト幻想曲、作品.20

前半は、ソリストに話題のHIMARIさんを迎えてのステージ。彼女は現在14歳、日本の「学制」風にいえば、中学2年生。今年3月、ベルリン・フィルの定期公演にソリストとしてのデビューを果たされた逸材で、「一世代に一人の才能」という、高い評価を受けられています。

期待に胸を膨らませつつ待つうちに、いよいよ、HIMARIさんの登場。長身のデ・フリーントさんと比べると、小柄で華奢なスタイルがいっそう際立ちます。その所作は、まるでヴァイオリンの「お稽古」に通うお嬢さんを思わせる愛らしさ。舞台中央で深々と頭を下げて、丁寧なお辞儀。こちらも、自然な動作の流れで美しい。そして、静かに始まるドヴォルザークの「ロマンス」。最初の音から僅か数小節のフレーズだけで、満員の聴衆を魅了したことが、ホール全体の空気から伝わってきます。純真無垢な美しい音色の中にも、侵しがたい気品のようなものが感じられます。

仮に、ブラインド(テスト)の状態で、この演奏を聴いたとして、誰が14歳の少女のものだと、言い当てることが出来るでしょうか!? しかしながら、あえて評論家風に言わせてもらうならば、先述したビジュアル的要素や、先入観、予備知識の類いを取り除いて、その演奏を評価する必要もあります。これまで京響に客演された、国内外の著名なヴァイオリニストの演奏と比較して、その中から、今日のHIMARIさんの演奏をピックアップ出来るかというと、それはちょっと「別物」の話のような気がします。

それでも、HIMARIさんのパフォーマンスからは、華やかな音楽界(音楽メディア)の誘惑に毒されることのない、毅然として、かつ真摯で謙虚な生活態度のようなものが感じられ、今後の精進、研鑽による成長、飛躍の大いなる可能性を強く感じました。音楽界に限らず、「早熟の天才」ともてはやされた才能が潰されていった(或いは、自ら潰れていった)例は、枚挙に暇がありません。そうならないことを、切に願う次第であります。

●モーツァルト:レクイエム、ニ短調K.626(ジュスマイヤー版)

京響によるこの曲の演奏を聴くのは、今回が2回目のことになります。最初は、広上淳一さんの指揮で、国際的にも評価の高いスウェーデン放送合唱団を迎えての「京響スーパーコンサート」(2019年11月)でした。また一方、指揮のデ・フリーントさんは、京響デビューとなった2022年5月の第667回定期から、「首席客演指揮者」の就任披露演奏会(2024年5月、第689回定期)を含めて、過去3回の客演のステージには、欠かさず通っているという、私のお気に入りの指揮者のお一人です。、

古楽畑の指揮者として学究的であり、尚且つ革新的でもあるデ・フリーントさんの音楽作り(指揮)は、軽快なテンポ設定と、やや軽めに重心を置いた響きで、推進力と躍動感に満ちた音楽を展開され、飽かせる暇すら与えません。私が個人的に苦手としていたシューベルトの「グレート」(667回定期)や、シューマンの交響曲(2025年1月、第696回定期)の指揮でも、その個性は遺憾なく発揮され、今回のモーツァルトの「レクイエム」でも、期待に違わぬ充実した演奏を聴かせてくれました。また、オペラの分野でも活躍されているキャリアが示すとおり、オーケストラ、独唱陣、合唱団をバランスよくまとめ上げ統率する手腕は、名匠の熟達した技を見るようで、強い感銘を受けました。

京響コーラスの高い水準で安定したパフォーマンスについては、これまでの京響定期や第9コンサートで既に実証済みで、多くの言葉を要する必要もないでしょう。今回も、実に頼もしく安心して聴かせてもらいました。4人の独唱陣も「ユニット」としてのまとまりもよく、好感の持てるものした。ただ、テノールの方の歌唱が、やや埋没しているように感じました。あくまでも個人的な好みの域を出ませんが、もう少し張りのある、突き抜けたような声量、美声が欲しいように思いました。(名盤、名演のそれと比較される宿命は、辛いところもありますか…)。

やはり、私にとっては、大規模な声楽の編成を伴った宗教曲は、敷居の高いジャンルの一つでした(そもそも、敬虔な信仰心が足りない…)。それでも、映画「アマデウス」の中の鬼気(死期?)迫る作曲シーンの記憶や、上手く簡潔にまとめられたプログラムノートの助けを借りて、何とか前回の演奏会よりは、しっかりと聴き通すことが出来たようで、感激、興奮の面持ちで家路につきました。

            *  *  *  *  *

今日の演奏会に先立って、デ・フリーントさんの「首席客演指揮者」の任期が、2028年の3月末日まで延長されるという、ニュース・リリースがありました。常任指揮者の沖澤のどかさん共々、京都市並びに京響楽団員の皆様からの信頼、人望の厚さが窺えるようで、相互の「蜜月」関係の深化、発展が大いに期待されるところです。


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京都市交響楽団 第702回定期演奏会

2025-07-24 19:22:44 | kyokyo
2025年7月19日(土)14:30開演 @京都コンサートホール・大ホール
指揮:高関健 / 独奏:中山航介(ティンパニ)/ 管弦楽:京都市交響楽団


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●カーゲル:ティンパニとオーケストラのための協奏曲
カーゲルはアルゼンチン生まれの現代作曲家で、ドイツ(ケルン)を主な活動の拠点として、音楽だけでなく諸々の芸術分野で活躍された方だそうです。この作品は、元々、オーケストラのために書かれた管弦楽曲に、独奏ティンパニのパートが加筆され、ティンパニ協奏曲となったものだそうです。

聴いている(観ている?)と、モダンジャズを代表する名ドラマー、マックス・ローチのリーダー・アルバム「Drums Unlimited」(邦題は「限りなきドラム」)のことを思い出しました。こちらは、オーケストラの花形楽器の一つであるティンパニの演奏技法や表現の可能性を追求したもので、作曲者の細かな指示の下、いろいろな特殊奏法が試みられています。

独奏の中山航介さんは、言わずと知れた、京響の首席打楽器奏者で、オーケストラの「顔」とも言える花形プレーヤーのお一人です。「ティンパニに上半身を突っ込む」というパフォーマンスを含めて、その実力の程をいかんなく発揮された、大熱演と呼ぶに相応しいものでした。

●マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
まるで、あの有名な「結婚行進曲」のメロディーを裏返しにしたような、印象的なトランペットのソロに始まる「第5番」のシンフォニー。マーラーの交響曲の中でも屈指の人気曲となっており、京響の演奏会でも、これまで、下野竜也さん(2011年4月、大阪特別公演)、ユージン・ツィガーンさん(2016年7月、第603回定期)、広上淳一さん(2023年9月、京都の秋音楽祭)という、3人の指揮者による演奏を聴いています。

今回の高関健さんは、京響の「常任首席客演指揮者」在任時には、ほぼ毎年のようにお聴きする機会がありましたが、ここ数年はすっかりご無沙汰といった感じで、定期演奏会でいうと、2019年7月の第636回定期で、スメタナの連作交響詩「わが祖国」全曲を指揮された時、以来のこと(?)になるようです。

マーラー音楽の研究者としても、国際的にも高い評価を得られている高関さんは、常に最新の研究成果、知見を自らの解釈、指揮に採り入れることに、意欲的にチャレンジされています。今回も、どんな新しい「気づき」に出会えるのでしょうか、とても楽しみにしています。もちろん、素人レベルでの話のことで、もっぱら高関さんの指揮(演奏)に全幅の信頼を置いて、聴かせていただきます、というのが実際のところです。

但し、私とマーラーの交響曲との相性は決していいとは言えず、演奏時間が70分、80分にも及ぶ大曲ともなると、とてものこと集中力が保てません。案の定、今回も第3楽章・スケルツォの辺りで、敢えなくダウン…。頭がぼうっとなってしまったあげく、いろんな雑念が入り込んでくるという始末。どうにか、第4楽章・アダージェットから仕切り直して、「ああ、充実した演奏会だった!」と、落ち着くところに落ち着くことができました。

このブログ記事を書くにあたって、「プログラム・ノート」を読み返してみると、私の「鬼門」とも言えるスケルツォは、「暗から明への変化が起こる転換点」とか、「大きな感情の振幅のある交響詩のような音楽」とかの記述が載っていました。さらには、「脇役だった楽章を交響曲全体の要とした」とあるように、とても重要な役割を担っている楽章だと解説されていました。何とも、痛恨の極み…。今度聴く機会に恵まれたときには、もっと気合を入れて、しっかりと覚悟を持って、聴き込みたいと思います。

全体の感想としては、鍛え抜かれた高関=京響のアンサンブル能力の強靭さには舌を巻くばかりでした。その前提となるフィジカル、メンタル両面のタフネスぶりは、まるでアスリートの如く。また、オーケストラをリードしていく、ソロコンサートマスターの石田泰尚さんのダイナミックなパフォーマンスにも、すっかり魅了されてしまいました。あの弦楽合奏ユニットの「石田組」の人気も、「なるほどなあ!」と納得した次第です。


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京都市交響楽団 第699回定期演奏会

2025-04-26 19:13:33 | kyokyo
2025年4月19日(土)14:30 開演 @京都コンサートホール・大ホール
指揮 : ジョン・アクセルロッド / 独唱 : 森 麻季(ソプラノ)/ 管弦楽 : 京都市交響楽団


            *  *  *  *  *

● チャイコフスキー : 幻想序曲「ハムレット」作品.67a
オープニングは「序曲」と言いながらも、演奏時間に20分近くを要するスケールと、ドラマ性を持った作品からスタート。「試運転」というよりは、早くもエンジン全開といった感じの、アクセルロッド=京響の演奏でした。

もちろん、シェークスピアとかハムレットという名前は知っていましたが、物語のストーリーや人物設定、キャラクターなどは、ほとんど知らないと言っていいのが実際のところです。曲想の「どの部分が何を表しているか」などはわかりませんので、純粋の管弦楽曲として聴くに留まりました。題材がシェークスピアを代表する「悲劇」なので、チャイコフスキー特有の蕩けるような甘美な旋律も少々陰を潜め(「幻想」というタイトルにちょっと期待した向きはありますが…)、全体的に重々しく激しさのある音楽が展開していきました。

京響の演奏では、やはり、ティンパニーの中山航介さんが素晴らしく、躍動感があり、エキサイティングなパフォーマンスを披露。作品や指揮者の指示によっては、軽めのタッチで音量控えめということもありますが、さすがに今回は京響の誇る花形プレーヤーのお一人として、奮闘されていました。

● R.シュトラウス : 4つの最後の歌
R.シュトラウスの作品は、京響を問わず国内外のオーケストラにとっての主要レパートリーとして、幅広く演奏されています。しかしながら、私個人にとっては苦手な部類の作曲家の一人であり、どちらかと言うと、避けて通ってきたという経緯があります。但しそんな私でも、R.シュトラウス最晩年のこの歌曲は別格で、しみじみとした情感がひしひしと心に響いてきます。

今回独唱される森麻季さんは、ご存じの通り、日本を代表するオペラ歌手であり、京響の演奏会では、2019年9月の「第23回 京都の秋音楽祭」の開会記念コンサートに登場。飯守泰次郎さんの指揮で、モーツァルト、マスカーニ、ビゼー、ヴェルディ、プッチーニの歌劇の中から、有名なアリアを聴かせてくださいました。

今回の歌唱については、私の座席(三階席の正面後方)の影響があったのかもしれませんが、森麻季さんの美声がオーケストラの演奏に埋没してしまっているかのようで、声質・声量ともにやや物足りなさを感じました。フルトヴェングラー指揮の初演の際には、作曲者自身が有名なワーグナー歌手の起用を希望したように、オーケストラの演奏に負けない力強さ、深み、厚みのある声質・声量の方が適任だったように思われます。

オーケストラのサウンドについても、やや開放的な感じがしないでもありません。それぞれの歌曲が終わる(消える)までの微細な音色の重なり、移ろいや、それを慈しむかのような情感が、私にはいまいち感じ取ることが出来ませんでした。(過度に期待しすぎた向きもありますが…)。その中では、第3曲「眠りにつくとき」のヴァイオリン・ソロ(豊嶋泰嗣さん)が秀逸。心に染み渡っていくような美しさでした。

● チャイコフスキー : 交響曲第6番 ロ短調 作品.74「悲愴」
チャイコフスキー最後の交響曲であり、生涯最後の作品となった名曲。京響の演奏会でも度々採り上げられ、広上淳一さん(2009年4月、大阪公演。2021年4月、スプリング・コンサート)、ユージン・ツィガーンさん(2013年6月、第569回定期)、リオ・クオクマンさん(2018年6月、第624回定期)の指揮で聴いています。

指揮のアクセルロッドさんは、2023年3月までの3シーズン、京響の首席客演指揮者を務められました。新型コロナウイルス禍という不遇の時代とも重なりましたが、数々の印象に残る名演、熱演を残してくださいました。そのポストから外れたとはいえ、京響との良好な関係は今なお健在で、旋律の歌わせ方、テンポの動かし方、強弱の付け方など、相互の信頼関係が感じられる「雄弁」な演奏となりました。

広上淳一さんが、「京響は、日本のトップ・オーケストラの一つになった」とか、「世界水準の演奏力を有する」とか、事あるごとに、その実力をアピールされていましたが、今日のこの演奏を聴けば、それも納得。おそらく、世界中のどこに出しても恥ずかしくないという内容で、京響もついにこのレベルまで到達したか!と思わせる、充実のステージとなりました。

あと、個人的に危惧していたところが2つ。第3楽章のラスト、破滅的とも言える高揚の果てに、思わず起こってしまいがちな拍手と、終楽章の本当のラスト(まるで心臓の鼓動が弱まって消え入るかのよう)で、ついに訪れた静寂(余韻)の時をぶち壊してしまう、フライングの拍手。その二つも私の杞憂に終わり、ほっとした次第。ほぼ満員の聴衆の方々の鑑賞態度、マナーも、良好だったようで、いい定期演奏会となりました。



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京都市交響楽団 スプリング・コンサート

2025-04-16 19:08:44 | kyokyo
2025年4月13日(日)14:00 開演 @京都コンサートホール・大ホール
指揮 : 大友 直人(桂冠指揮者)/ 独奏 : 鳥羽 咲音(チェロ)/ 管弦楽 : 京都市交響楽団


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● ドヴォルザーク : チェロ協奏曲 ロ短調 作品.104
京響の演奏会で、この名曲を聴くのは、これで3回目になります。最初に聴いたのは「かんでんクラシック」というコンサート(2011年11月)で、独奏は加藤文枝さん、指揮は三ツ橋敬子さんという、フレッシュな女性コンビでの演奏でした。続いて、「京響スーパーコンサート」と銘打たれた演奏会(2018年9月)で、独奏は世界的名手のミッシャ・マイスキーさん、指揮は当時の常任指揮者だった広上淳一さん。

そして今回は、独奏は鳥羽咲音(とば・さくら)さん、指揮は桂冠指揮者の大友直人さん。プロフィールを読むと、咲音さんは2005年のお生まれということで、今年二十歳の女性奏者です。指揮の大友さんとは、親子ほどの年齢差がある組み合わせになります。

弱冠二十歳とはいえ、演奏はとても落ち着いたもので、妙な気負いや高ぶりもなく、実に堂々としたものでした。まだ十代の頃からコンクールやリサイタルで、着実な歩みを刻まれてきた実績と経験が、彼女の演奏を支えているのでしょう。独奏チェロと呼応する大友=京響も、優しく包容力を感じさせる対応ぶりで、素晴らしい「協奏」と言えるものでした。

● ドヴォルザーク : 交響曲第9番 ホ短調 作品.95「新世界から」
京響のみならず、オーケストラの主要レパートリーとして、演奏機会の多い名曲中の名曲。京響の演奏会でも、2016年10月の第606回定期でのラドミル・エリシュカさんを始めとして、幾多の指揮者による演奏を聴いてきました。口の悪い愛好家の方などは、「耳タコ」とか「通俗名曲」とか仰いますが、こういう曲にこそクラシックを聴く楽しみがあるわけで、演奏の中に現れる微細な変化(解釈の違いや指揮者の個性など)を聴きとるのも、とても楽しいものです。

大友さんの音楽づくりというと、その風貌や所作から察せられるように、端正でスマート、かつエレガントなもの。ただ、2016年2月の第598回定期での、ドヴォルザークの交響曲第8番では、私が抱いていた大友さんのイメージを上回る、それはそれはエネルギッシュで、熱量がほとばしるような演奏を聴かせてもらいました。今回の「新世界から」では、どのような演奏になるのだろうか、自ずと期待が高まります。

ここ最近の京響定期では、ドヴォルザークの渡米前の作品、チェコ組曲(2024年9月、第693回定期。指揮は阪哲朗さん)、交響曲第6番(2024年11月、第695回定期。指揮は鈴木雅明さん)、交響曲第7番(2021年3月、第654回定期。指揮は広上淳一さん)が採り上げられてきたこともあり、その分、ドヴォルザークの最後の交響曲となっ同曲の、圧倒的なスケール感、魅惑的な旋律とリズムを体感することができ、名曲の名曲たる魅力を改めて認識した次第です。それぞれアンコールも披露され、楽しく充実した演奏会となりました。



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京都市交響楽団 第696回定期演奏会

2025-01-21 09:47:32 | kyokyo
2025年1月18日(土)14:30 開演 @京都コンサートホール・大ホール
指揮 : ヤン・ヴィレム・デ・フリーント(首席客演指揮者)/ 管弦楽 : 京都市交響楽団


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● メンデルスゾーン ; 「夏の夜の夢」の音楽から序曲
オープニングは、シェークスピアの戯曲に基づく劇音楽から、演奏会用(付随音楽ではない)序曲。この曲が作曲されたのは、メンデルスゾーン17歳の頃だったというから驚きです。何という早熟の天才でしょうか!

この定期のチラシには、「古典と現代の融合と調和」というコピーが記されています。「オランダの鬼才」とも称されるデ・フリーントさんが、どういう解釈をして、どんな斬新なアイデアを用意されているのか、期待に胸が高鳴るような京響の演奏でした。

● ペルト : ヴァイオリン、弦楽と打楽器のためのフラトレス
ペルトは1935年生まれのエストニアの作曲家。氏が国際的に知られる以前の作品だそうですが、演奏機会も多い代表作とのこと。作曲者自身による様々なバージョンがある中で、デ・フリーントさんが選んだのは、ヴァイオリン独奏(京響特別客演コンサートマスター、会田莉凡さん)付きのもの。

神秘的な打楽器の音色に導かれ、シンプルながらも厳粛な感じがする旋律が繰り返されます。何やら原初的な宗教的儀式のような印象を受けますが、標題の「フラトレス」は「仲間、兄弟」を意味するラテン語だそう。そこから推察すると、エストニア人の団結、独立の思いが込められているようにも思えます。プレトークやプログラムノートにも、その辺りの言及がありませんでしたが、作曲者自身も堅く口を閉ざされているのかもしれません。

まだ、バルト三国がソ連から独立する以前の時代であり、ナチスの支配から続く、抑圧されてきたエストニアの歴史に思いを巡らすと、終末部のヴァイオリン独奏の響きは、民衆の悲痛な叫び、慟哭のように聴こえなくもありません。

● ダウランド : 弦楽合奏のための「あふれよ、涙」
ダウランドは、イングランドで活動していたリュート奏者。日本の元号でいうと、安土桃山から江戸へと続く「慶長」の初期の頃に書かれた作品。これも、器楽版とか歌曲版とか、いろいろな編曲があるそうです。今回は、弦楽五部の編成です。

歌曲版の歌詞によると、「地獄にいる者たちは(まだ)幸せです」というほどの絶望感、悲嘆が歌われています。しみじみとした情緒の旋律が胸を打ちます。現代、世界各地で起こっている痛ましい戦争、テロ行為、自然災害などの被害者、罹災者の方たちの心情と重ねて聴いていました。オリジナルの素朴なリュートの演奏でも、是非聴いてみたいと思いました。

曲は切れ目なく、シューマンの交響曲第2番の金管パートの序奏へと引き継がれていきます。デ・フリーントさんのプレトークによれば、シューマンはダウランドの楽曲を、こよなく愛していたそうです。

● シューマン : 交響曲第2番ハ短調 作品61
シューマンの4つの交響曲のうち、3番目に完成されて作品(作曲順と番号は一致していない)。標題の付いている第1番「春」や第3番「ライン」は、比較的、耳にすることも多いですが、この第2番は、2013年11月の京響第574回定期(指揮は、広上淳一さん)以来のことになります。

当時のシューマンは、重篤な精神疾患に悩まされていたことが、自身によって書き残されています。彼の内面には、性格の異なる二つの人格が存在し、代わる代わる現れては、シューマンの内面を支配したとされています。曲想にも、その精神状態が反映され、一見(一聴)、表情の異なる掴みどころのない音楽が展開されていきます。

かたや、デ・フリーント=京響の演奏は明快で、躍動感、推進力に満ちたものでした。この作品のスケール、内容からすると、大いに盛り上がったものになりました。ともすれば、いかにも奇を衒った演奏になりかねないところを、整然とまとめ上げられたところは、氏の高い音楽性と見識、品格によるものに他なりません。

            *  *  *  *  *

思い起こせば、デ・フリーントさんの京響デビューとなった、2022年5月の第667回定期における、シューベルトの「ザ・グレート」と同様、私にとっては苦手意識のある作品でも、集中力を途切れさせることなく聴かせていただきました。その点からすると、誠に僭越な言い方ですが、私の音楽的な好みに合う、相性のいい指揮者さん!という思いを、再認識いたしました。



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