2019年4月28日(日) 14:00 開演 @上七軒歌舞練場
上京区140周年記念事業 / 上京区文化振興会
* * * * *
【上京区の歴史】
● 織田信長は「上京」の自治を行う町衆とは仲が悪く、京都に滞在する時は、「上京」では泊まれるところがなく、もっぱら「下京」の方で宿泊していた。(下京の)本能寺で討死するのも、さもありなんといったところ。
● 徳川家の失敗は、京都御所から離れたところに二条城を築き、所司代屋敷などを固めたところにあると考えられる。個人的(磯田さん)には、御所のすぐ北側、相国寺のあたりに造営し、御所を含めて周りを城郭(要塞)化すると共に、将軍家の庇護の下に天皇家が存在するよう権威付けに利用するべきと、将軍に進言したい。
【改元・新元号について】
● 新元号が発表される前、その考案者と目される中西進氏(日文研名誉教授)と会食する機会がありましたが、そのときに「万葉集」のことが話題に上り、私(磯田さん)が歌人の中では大伴旅人が好きだと言うと、中西さんは大いに喜んでおられたという。
● 新元号「令和」の典拠となる宴が催されたとき、(万葉集の編纂者の一人とされる)大伴家持はまだ幼く、父の旅人の赴任と共に、九州の大宰府に移り住んでいた。当時、大宰府には万葉歌人の山上憶良(渡来系か?)も滞在しており、家持は憶良の子どもとも仲がよく、梅の和歌が詠まれた宴席の中で楽しく遊びまわっていたことが想像できる。
● 今回の改元をめぐって、中国では「令和」というお酒の銘柄が、すでに商標登録済みらしい。
【天皇家・皇統について】
● 天皇家の祖先とされる初代「神武」以降の9代の天皇は存在したかもしれないが、その確証はない。10代「崇神」天皇になってはじめて、その陵墓と在位期間との一致が確かめられる。権力の中心が大和から大阪の移った際の天皇「応神」にも、「神」という字が当てられている。
● 日本史史上、唯一の皇位簒奪(王朝交代)の機会があったとすれば、菅原道真の登場のときだけ。それほどまで、道真の博識ぶりや霊験(梅の枯枝に花を咲かせたという逸話が残る)に、周囲の人たちは畏敬の念を抱いていた。
● 江戸時代に譲位を行った後桜町天皇(女帝)は、自らを「中継ぎ」と自認し、後の後桃園天皇が成長されるまでの期間、限定的に在位されていた。歌会始の儀で若き皇子(後の後桃園天皇)が立派に歌を披露されたことをきっかけに、譲位を決断されたという。
● 秋篠宮さまが、70代(高齢)になっていれば天皇の職を継ぐことはできないと、ご発言されたように(会場内に苦笑が起こる)、後継の問題は大変切実。側室を置くことが許されない現状では、しかるべき宮家の男性皇族を養子にお迎えして、皇統が絶えないようにするのもひとつの考え方。
上京区140周年記念事業 / 上京区文化振興会
* * * * *
【上京区の歴史】
● 織田信長は「上京」の自治を行う町衆とは仲が悪く、京都に滞在する時は、「上京」では泊まれるところがなく、もっぱら「下京」の方で宿泊していた。(下京の)本能寺で討死するのも、さもありなんといったところ。
● 徳川家の失敗は、京都御所から離れたところに二条城を築き、所司代屋敷などを固めたところにあると考えられる。個人的(磯田さん)には、御所のすぐ北側、相国寺のあたりに造営し、御所を含めて周りを城郭(要塞)化すると共に、将軍家の庇護の下に天皇家が存在するよう権威付けに利用するべきと、将軍に進言したい。
【改元・新元号について】
● 新元号が発表される前、その考案者と目される中西進氏(日文研名誉教授)と会食する機会がありましたが、そのときに「万葉集」のことが話題に上り、私(磯田さん)が歌人の中では大伴旅人が好きだと言うと、中西さんは大いに喜んでおられたという。
● 新元号「令和」の典拠となる宴が催されたとき、(万葉集の編纂者の一人とされる)大伴家持はまだ幼く、父の旅人の赴任と共に、九州の大宰府に移り住んでいた。当時、大宰府には万葉歌人の山上憶良(渡来系か?)も滞在しており、家持は憶良の子どもとも仲がよく、梅の和歌が詠まれた宴席の中で楽しく遊びまわっていたことが想像できる。
● 今回の改元をめぐって、中国では「令和」というお酒の銘柄が、すでに商標登録済みらしい。
【天皇家・皇統について】
● 天皇家の祖先とされる初代「神武」以降の9代の天皇は存在したかもしれないが、その確証はない。10代「崇神」天皇になってはじめて、その陵墓と在位期間との一致が確かめられる。権力の中心が大和から大阪の移った際の天皇「応神」にも、「神」という字が当てられている。
● 日本史史上、唯一の皇位簒奪(王朝交代)の機会があったとすれば、菅原道真の登場のときだけ。それほどまで、道真の博識ぶりや霊験(梅の枯枝に花を咲かせたという逸話が残る)に、周囲の人たちは畏敬の念を抱いていた。
● 江戸時代に譲位を行った後桜町天皇(女帝)は、自らを「中継ぎ」と自認し、後の後桃園天皇が成長されるまでの期間、限定的に在位されていた。歌会始の儀で若き皇子(後の後桃園天皇)が立派に歌を披露されたことをきっかけに、譲位を決断されたという。
● 秋篠宮さまが、70代(高齢)になっていれば天皇の職を継ぐことはできないと、ご発言されたように(会場内に苦笑が起こる)、後継の問題は大変切実。側室を置くことが許されない現状では、しかるべき宮家の男性皇族を養子にお迎えして、皇統が絶えないようにするのもひとつの考え方。