イーストウッドの新作である。齢80を過ぎてここまで旺盛に映画を作り続ける。しかも、いつも挑戦である。同じような映画はない。でも、どの映画もイーストウッド魂が込められた力作ばかりだ。そういう意味では同じ映画だ。枯れることなく、若々しい。しかも、まるで無理していない。どういうことか、と思う。モンスターだ。
僕たちはこれからもまだまだ彼の映画を見ることができるという幸福を信じられる。ありえないことではない。昨年の『ジャージー・ボーイズ』からまだ1年も経っていないというのに、もうこんなにも大変な映画をしゃーしゃーと作っている。ありえない。こんなのも重い映画を自然体で見せていく。そのフットワークの軽さは何なんだろう。若さの秘訣を教えて欲しい。常人ではない。
それにしてもあの予告編が素晴らしかった。あそこはきっとクライマックスなのだろうと、思った。だが、映画を見て驚いた。なんとあの予告編は映画の冒頭シーンそのままなのだ。そこから映画は始まる。彼がそこに至るまで、そこからどこにたどりつくのか。それを淡々と描いていく。ある男の生涯の物語になっている。少年時代から、死ぬまでである。戦争映画でもある。まるで、別の映画だが、先日見た大沢たかお主演の三池崇史監督作品『風に立つライオン』がまるで同じタイプの映画で驚いた。(この映画についてはこの項を書き終えたなら書くつもりだが、どうして僕は同じ時期によく似たタイプの映画を続けて見ることになるのだろうか。映画は続いているな、なんて秘かに思うのであった。)
戦場に行くことで、彼はどんどん病んでくる。そういう意味では昔よくあったベトナムからの帰還兵の映画群に連なる映画だ、とも言える。ありきたりな映画だと言われても仕方ない。だが、そうじゃないことも明白だ。戦場で人を殺す。正義のため、仲間を守るため、理屈ではわかる。でも、心を疲弊させる。英雄のお話なのに、こんなにも寂しい。それは彼の行為が家族を守らないからだ。一番大切な家族から彼を突き放していく。心を壊した彼はもうもとには戻れない。
丁寧に彼の足取りを追うことで見えてくるものを、その意味を、観客である僕たちが自分で考えればいい。イーストウッドはメッセージ映画なんか作らない。自分が確かめるために映画と旅をする。だから、彼の映画は、どの映画を見ても、いつも新鮮なのだ。いきなりのラストに唖然としながらも、それもまたある、と思う。
僕たちはこれからもまだまだ彼の映画を見ることができるという幸福を信じられる。ありえないことではない。昨年の『ジャージー・ボーイズ』からまだ1年も経っていないというのに、もうこんなにも大変な映画をしゃーしゃーと作っている。ありえない。こんなのも重い映画を自然体で見せていく。そのフットワークの軽さは何なんだろう。若さの秘訣を教えて欲しい。常人ではない。
それにしてもあの予告編が素晴らしかった。あそこはきっとクライマックスなのだろうと、思った。だが、映画を見て驚いた。なんとあの予告編は映画の冒頭シーンそのままなのだ。そこから映画は始まる。彼がそこに至るまで、そこからどこにたどりつくのか。それを淡々と描いていく。ある男の生涯の物語になっている。少年時代から、死ぬまでである。戦争映画でもある。まるで、別の映画だが、先日見た大沢たかお主演の三池崇史監督作品『風に立つライオン』がまるで同じタイプの映画で驚いた。(この映画についてはこの項を書き終えたなら書くつもりだが、どうして僕は同じ時期によく似たタイプの映画を続けて見ることになるのだろうか。映画は続いているな、なんて秘かに思うのであった。)
戦場に行くことで、彼はどんどん病んでくる。そういう意味では昔よくあったベトナムからの帰還兵の映画群に連なる映画だ、とも言える。ありきたりな映画だと言われても仕方ない。だが、そうじゃないことも明白だ。戦場で人を殺す。正義のため、仲間を守るため、理屈ではわかる。でも、心を疲弊させる。英雄のお話なのに、こんなにも寂しい。それは彼の行為が家族を守らないからだ。一番大切な家族から彼を突き放していく。心を壊した彼はもうもとには戻れない。
丁寧に彼の足取りを追うことで見えてくるものを、その意味を、観客である僕たちが自分で考えればいい。イーストウッドはメッセージ映画なんか作らない。自分が確かめるために映画と旅をする。だから、彼の映画は、どの映画を見ても、いつも新鮮なのだ。いきなりのラストに唖然としながらも、それもまたある、と思う。