習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』

2024-07-02 18:15:00 | 映画

まさか今頃ここまであからさまにきれいごとだらけの「正統派純愛青春映画」を作るなんて。嘘くささが充満して恥ずかしくて目を覆いたくなる。どうかしてる。呆れてしまった。三木孝浩は大丈夫か?と心配になる。

これには何か理由がある。Netflix映画だから手を抜いたのか? いや、そんなことするわけはない。美男美女によるラブストーリーの王道。余命半年に1年のダブル。藤井道人の傑作『余命10年』の向こうを張ったようなタイトルとか。始まって30分経つけど、噴飯もの。まるで意図がわからないまま(仕方がないから)見続けるしかない。

 そして、1時間経ってもまるで動じない。恥ずかしいくらいに王道を行く。突っ込みどころは満載。あり得ないくらいに定番展開から一瞬だってぶれない。大人の豪華共演陣は芝居のしどころもなく、ひっそりとそこに佇むばかり。松雪泰子のヒロインの母親、仲村トオル、大塚寧々の主人公の両親。木村文乃の花屋のお姉さん。彼らがしっかり芝居をする必要がない役で登場する。これはいったいどういうことか?
 
ラスト30分で、彼女が死ぬ。唖然とする。あっけない。最初は死んだのは彼の方だったか、と思った。そういうまさかの大逆転が仕掛けだったのか、と。しかし、そんな安易な仕掛けではなかった。彼女の死後の彼の人生が続く。残された余命半年を(ふたりで過ごした半年は過ぎた)どう生きたか、が描かれる。ここから映画はフルスロットで本題に突入する。夢のような人生を生き抜いたふたりのその後。これか三木監督の描きたかったことだったのだ。
 
もちろんこれは正統派ラブストーリーである。死と向き合うふたりの恋がまず描かれる。だが、その後の空白とどう向き合い生きるのか。退場した彼女が遺してくれたもの。その彼女の秘密を知った時、この映画の意図は明確になる。三木孝浩は敢えてこういう危険な賭けに挑んだのだ。誤解されるのも承知での挑戦である。綺麗ごとの限界まで平然と描いて、そこから、だから可能なギリギリの究極の恋を立ち上げる。

永瀬廉と出口夏希というふたりのキラキラ輝く17歳をほぼ病室の中に閉じ込めてそこで演じさせた。だが、ここがふたりの天国になる。広くて明るくて奇麗な部屋だ。そしてここはふたりだけの世界である。好きだとは一言も言わないけど、ずっと一緒にいる。毎日学校の後ガーベラの花を持ってやって来る。あり得ない設定をやり抜く。普通なら恥ずかしくて見てられないけど、永瀬廉ならできる。
 
仲村トオルの初期作品『ラブストーリーを君に』を思い出してしまった。あれもあり得ないような王道すぎるラブストーリーで、仲村トオルと後藤久美子だったから出来た映画だった。もちろんあれも澤井信一郎監督だったから可能になった映画だ。同じようにこれは三木孝浩だから可能だった映画なのである。とことんきれいごとを並べて、それを成立させてしまう力技。凄い難病ラブストーリーが出来上がった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 角田光代他『いつかアジアの... | トップ | 芥川龍之介『文豪死す』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。