人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

アニメの魅力はリアリティーとは別の次元にある・・・「とらドラ」の日常と非日常

2012-02-05 17:41:00 | アニメ
 


事故で死んだ小学校の同級生の女の子の思い出に囚われたままの高校生5人が、
幽霊となって現れた彼女の願いを叶える過程で、
それぞれの止まった時計が動き出すという物語でした。

5人がそれぞれに抱えるトラウマを解決する過程で
互いの間に生まれる葛藤を正面から描いた作品でした。

ところが、私はこの作品はアニメである必要を感じませんでした。
むしろ、実写で観てみたい脚本でした。
アニメでは幽霊となった「めんま」を描かざるを得ない為に
あの話の面白さが半減してしまっている様に感じるのです。

実写の映画やドラマであの話を展開するならば、
私なら絶対に「めんま」を描く事をしません。
主人公の「やどみ」にしか見えない「めんま」が本当に幽霊として存在するのか、
それとも、「やどみ」の虚言であるのか、視聴者に判断出来ない方が、
あの素晴らしい設定がさらに引き立つと思うのです。
「めんま」の「存在の不確かさ」こそが、あの物語の面白い所です。
主人公達それぞれの見る「めんま」が異なっている方が、話に深みが増します。

どうして実写ならば「めんま」を描かなくても物語が成立するかと言えば、
それは「実写の持つ情報量」によるものが大きいと思います。
実写では俳優達は、様々な表情を持っていますし、
風景描写もアニメの情報量を凌駕します。
その圧倒的情報量で、「空気感」としての幽霊を描く事が可能です。 style="font-weight:bold">■ style="font-weight:bold">「とらドラ」</span>と答えるでしょう。

「竹宮ゆゆこ」のラノベを原作とするこの作品は、
「アニメである事の魅力」に溢れています。

小柄な女子高生「逢坂 style="font-weight:bold">■ style="font-weight:bold">■ style="font-weight:bold">■ style="font-weight:bold">■ リアリテーの対局にある世界 ■

「とらドラ」は一見するとリアリティーとは無縁に見えます。
チンチクリンで凶暴な女子高生など、世間にはそんなに居ません。
妄想が暴走して授業中に鼻血を出す女子高生も居ないでしょう。
アニメにおけるキャラ立ちとは、そんな現実からは外れた場所に成り立ちます。

では、「現実的だ無いからアニメは下らない」のでしょうか?
私は多くの大人がこの点を非常に誤解している様に思えます。

たとえば、毎週の垂れ流される実写の帯ドラマに私はあまり興味が持てません。
一年に一本程度、「コード・ブルー」の様な秀作はありますが、
多くは、「恋人同士のすれ違い」をだらだらと描くだけの作品です。

その様な停滞する実写ドラマに、多くの原作を提供しているのは「マンガ」です。
「マンガ」の読者はワガママです。
絶えず新しい物語、新しい刺激を求めています。
ですから、コンテンツの枯渇した実写ドラマは、
比較的現実的な「マンガ」を、コンテンツの宝の山と認識したのです。

ところが、多くの「マンガ原作」のドラマは、ほぼ駄作です。
「のだめカンタービレ」の様な怪作もたまには飛び出しますが、
やはり「マンガ」に存在した独特のリズムがことごとく失われています。

何が問題かと言えば、「リアリティには限界がある」という事なのかも知れません。
「のだめ」のドラマ版は、そんな実写に付きまとうリアリティーの破壊を試みましたが、
一度やられてしまえば、二度目はあり得ません。

ところがアニメは初めから「リアリティーの拘束」から解放されています。
一方で、リアリティを導入する事は簡単です。
炊飯器の蓋を開け、湯気の立つごはんを
しゃもじで茶碗に盛るだけでリアリティーは生まれます。

ですから上手いアニメの演出家は、
リアリティーから非リアリティーの振幅を最大に生かして演出します。

「あの日見た花の・・・」は比較的リアル表現に偏っています。
冒頭で述べた様に、作品自体が「実写向け」だからです。

一方「とらドラ」は、リアルと非リアルの振幅と、調合具合がとても優れた作品です。
その意味で、長岡、岡田コンビの最高傑作は「とらドラ」だという結論に達します。


「あの日見た花・・・」ファンの方々には異論もおありかと思いますが、
「とらドラ」の亜美ちゃんに免じて、お許し頂きたい。