ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

人の振り見て ‐ 言葉

2010年05月14日 | 本/図書館/言葉

 老い、誰しも避けて通れない道。
 秦の始皇帝、不老不死を得るため仙人を探し求めたというが、うべなるかなと思う。

 権力にしろ、富にしろ、持てる者ほど老いえ難いものなのだろう。
 もとより、どちらにも無縁につき、実感は持てないが。

 Photoところで、ホモ‐サピエンスなる生き物、長らえるほどに、つまり、歳とともに気が長くなるの? それとも、堪え性がなくなるの? と、考え込んでしまった。

 過日の朝日新聞 「声」 欄、こんな投書があった。
 題して、“
5分、10分をなぜ待てないか ”

 曰く、“ スーパーのレジで70歳くらいの女性大声でレジ係りに向って、『よくそんなんでレジが務まるな。さっさと計算せんかね』といい、さらにATMの前で列をなし待つ人の姿を引き合いに、人は見守る、待つということができなくなったと続け、昔はデートでさえ手紙で日時を決め、会える日を楽しみに幾日も過ごしたものだ ” と、結ぶ。

 Photo_2投書を読んで、デートの約束のことはいざ知らず、冷水を浴びせられたよう。
 斯くいうペトロ 瞬間湯沸器が遠慮するほど気が短く、何時か知らず、この投書のような姿を晒しているのではないかと。

 必ずくる老い、ならば美しく老いたいと思う。
 が、それもし成らずとも、せめて傍目に惨めな姿を晒すことなく・・・と、カタリナ と戒め合う、
いい歳をして・・・と、蔑みを受けないがためにも。

 あらためて、「人の振り見て我が振り直せ、ということね」である。
 些か手垢にまみれてはいるが
、この言葉、何と示唆に富んでいることか。

 徒然草の兼好風に言えば、美しく老いるも否も、「重ねた歳の質(Quality)によりて、量(Quantity)にあらず」ということだろう。となればペトロ、今からでもまだ間に合う、かな? 
 (写真下は、本文と関係が有りません。)

コメント (1)
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