老い、誰しも避けて通れない道。
秦の始皇帝、不老不死を得るため仙人を探し求めたというが、うべなるかなと思う。
権力にしろ、富にしろ、持てる者ほど老いは耐え難いものなのだろう。
もとより、どちらにも無縁につき、実感は持てないが。
ところで、ホモ‐サピエンスなる生き物、長らえるほどに、つまり、歳とともに気が長くなるの? それとも、堪え性がなくなるの? と、考え込んでしまった。
過日の朝日新聞 「声」 欄、こんな投書があった。
題して、“ 5分、10分をなぜ待てないか ”。
曰く、“ スーパーのレジで70歳くらいの女性が大声でレジ係りに向って、『よくそんなんでレジが務まるな。さっさと計算せんかね』といい、さらにATMの前で列をなし待つ人の姿を引き合いに、人は見守る、待つということができなくなったと続け、昔はデートでさえ手紙で日時を決め、会える日を楽しみに幾日も過ごしたものだ ” と、結ぶ。
投書を読んで、デートの約束のことはいざ知らず、冷水を浴びせられたよう。
斯くいうペトロ 瞬間湯沸器が遠慮するほど気が短く、何時か知らず、この投書のような姿を晒しているのではないかと。
必ずくる老い、ならば美しく老いたいと思う。
が、それもし成らずとも、せめて傍目に惨めな姿を晒すことなく・・・と、カタリナ と戒め合う、いい歳をして・・・と、蔑みを受けないがためにも。
あらためて、「人の振り見て我が振り直せ、ということね」である。
些か手垢にまみれてはいるが、この言葉、何と示唆に富んでいることか。
徒然草の兼好風に言えば、美しく老いるも否も、「重ねた歳の質(Quality)によりて、量(Quantity)にあらず」ということだろう。となればペトロ、今からでもまだ間に合う、かな?
(写真下は、本文と関係が有りません。)
外国の方に比べると日本人は静かだと言われていますが、私の乏しい海外旅行でも、そのことは実感します。
しかし、最近確かに、堪え性がなくなってきたように思います。
先日、店の方に食ってかかる年配の方をみました。事情があるのだろうと思いますが、傍目には心すさむ様に見えました。
出来るならば、美しく老いたい、同感です[E:foot]