12世紀末期 1192年(1185年)鎌倉に武家政権が誕生しました。天皇と公家による公家政権から将軍と武家による武家政権へ政権交代が起きました。しかし武家政権が誕生してもその後も「京には天皇と公家 朝廷」が存在していました。
武家政権が誕生して約500年後の1613年、幕府大御所徳川家康は「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し天皇と公家が守るべき法を日本史上初めて規定しました。家康は朝廷を統制し公家の官位と武家の官位を区別し天皇の権威によって武家に官位が与えられました。家康は「京の朝廷と天皇」の権威を幕府統治に利用したのです。
西洋列強諸国は日本には「江戸の幕府と将軍」と「京の朝廷と天皇」という異なる二つの政体が存在する事を知っていました。しかし幕府は西洋列強諸国に対して京に一歩たりとも立ち入ることを禁じていました。
1855年4月上旬、島津斉彬は清水寺成就院で関白 鷹司 政通と密談を行いました。
政通 「一橋やったら間違いないのやな?」
斉彬 「一橋慶喜様こそ我が国を救う貴公子!」
政通 「慶喜は私の甥やからな」
斉彬 「仰せのとおり」
政通 「なぁ薩摩の守、御上(孝明天皇こうめいてんのう)は異国との和親条約についてお怒りでしてな」
斉彬 「何と!」
政通 「異国との国交は江戸の幕府と将軍とちごうて京の朝廷と天皇が本来なら決めることやと仰せや」
斉彬 「御上は西洋列強諸国の軍備と我が国の軍備の差があることをご存じなのでしょうか?」
政通 「"幕府は異国との戦争を避けるため条約を締結しました"と私が御上に何度も説明しました」
斉彬 「御上は何と仰せですか??」
政通 「まぁ…納得しておられます」
斉彬 「…」
政通 「それより薩摩の守にお会いできて良かったわどうも斉昭(義理弟)の話しだけでは
幕府の政や江戸のことが解らへんところもあるからな」
一橋慶喜と一条美賀子とが今秋に結婚するその後に慶喜に官位を与えて幕政に参画させるそうすれば将軍擁立の布石となると政通は斉彬に説明しました。
政通 「薩摩の守今度はいつ上京するのや?」
斉彬 「来年になるかと」
政通 「またお会いしましょう…ああ!月照を通してや!」
斉彬は関白 鷹司 政通と会談して京の朝廷と天皇に対して安部正弘と徳川斉昭が円滑な意思疎通を行っている事が分かった。斉彬の「幕府と朝廷の関係が悪化」という懸念は払拭されました。こうして島津斉彬は朝廷工作を開始したのです。
『さてその頃、長州藩の野山獄は武士階級のための独房で12室ありました。南北に二棟が向かい合い一棟6室で真中に細長い広場がありました。独房の各室に畳が二条が敷かれていました。吉田寅二郎が収用されたのは北側の棟の端っこ牢でした。』『野山獄は江戸伝馬町の牢とは違い牢名主制度は無く独房だけに孤独に耐えなければなりませんでした。』①
ある日のこと、文がいつもの様に寅二郎の独房に尋ねて来ました。金子重之介が岩倉獄で獄死しました。寅二郎がそれを悔い後悔の念でひどく落ち込んでいたのを文は心配していました。けれど最近の寅二郎の様子はいつもの「寅兄ィ様」に戻っていて文は安心していました。
「寅兄ィ様が元気になられて良かった!」
と文は言いました文はこの時13歳。無邪気な女の子だった。
「話し相手が大勢できたからね」
寅二郎の隣り牢の富永 有隣(とみなが ゆうりん)と南側棟の向かい側の牢の人が話し相手だという。文は振り返り向かい側の牢を見ました。するとその牢の中から白い顔が見えました。文は好奇心旺盛な女の子ですサッと中庭を小走りで向かい側の牢に行ってしまいました。
「だめだ!文!帰っておいで!」
文の行動を牢役人は見て見ないフリをしていました。そこの牢に居たのは何と女性でしたこの人の名前は高須久子(たかすひさこ)という人でした。文は「寅兄ィ様の事をよろしくお願いします」と久子にお辞儀をし直ぐに文は寅二郎の牢に戻って来ました。
寅二郎は文を怒ることも無く少し困惑した顔で文に本のメモを渡しました。文は「お兄ィ様(民治)に伝えますね!また明日!寅兄ィ様!」と言って帰って行きました。寅二郎は妹文の気遣いに過酷な獄中生活から救われていたと思います。
『萩の野山獄に吉田寅二郎が投獄され五か月経過していました。寅二郎が獄中で読んでいた洋学書は長崎のオランダ学者が翻訳した東洋と西洋の地理、歴史、国情紹介書などを出獄する一年間で500冊以上読み続ける日々を送っていました。さらに寅二郎は読破したの本の感想や自論を書くことも行っていました。』②
『寅二郎が読破したと思われる洋学書はまず東アジア情勢を知るための書籍としてアヘン戦争の清国人の論文でイギリスの東アジア進出とアヘン戦争の詳細を紹介した翻訳論文。また清の兵学者でイギリス軍の近代兵器の装備と清軍の軍備との差異を詳細に書かれた翻訳の実戦記録。』
『次にイギリスと日本の国交問題のとして1808年に起きたイギリス船による長崎出島のオランダ商館襲撃事件「フェートン号事件」の詳細を書いた記録書。それにイギリスの歴史やイギリス人の国民性そしてイギリス人の宗教観などが書かれた長崎のオランダ学者の評論文。』
『西洋諸国で日本が唯一国交を持っていたオランダ王国の地理、歴史、国情などの紹介書。そしてフランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトのヨーロッパ征服の詳細を書いたフランス歴史書などを次々読破していたと思われます。』②
吉田寅二郎の国家構想である”近代科学を学びそして日本を近代国家にし西洋列強諸国と同等の国力を持たなければならない”。吉田寅二郎は単純な排外主義である攘夷論を否定しいました。そして吉田寅二郎は西洋列強諸国のアジア支配を警戒しつつも西洋列強諸国とアジア諸国の情勢を熟知し近代文明を積極的に学び取りそして自らの国家構想を熟成させようとしていました。
つづく
① 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(2) より 要約
② 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録 より 要約
お日様とお月様の光と影
~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
第一章 西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(13)
≪参考文献≫
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より
幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録 より
1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 より
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より
突っ込みどころ満載!
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
武家政権が誕生して約500年後の1613年、幕府大御所徳川家康は「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し天皇と公家が守るべき法を日本史上初めて規定しました。家康は朝廷を統制し公家の官位と武家の官位を区別し天皇の権威によって武家に官位が与えられました。家康は「京の朝廷と天皇」の権威を幕府統治に利用したのです。
西洋列強諸国は日本には「江戸の幕府と将軍」と「京の朝廷と天皇」という異なる二つの政体が存在する事を知っていました。しかし幕府は西洋列強諸国に対して京に一歩たりとも立ち入ることを禁じていました。
1855年4月上旬、島津斉彬は清水寺成就院で関白 鷹司 政通と密談を行いました。
政通 「一橋やったら間違いないのやな?」
斉彬 「一橋慶喜様こそ我が国を救う貴公子!」
政通 「慶喜は私の甥やからな」
斉彬 「仰せのとおり」
政通 「なぁ薩摩の守、御上(孝明天皇こうめいてんのう)は異国との和親条約についてお怒りでしてな」
斉彬 「何と!」
政通 「異国との国交は江戸の幕府と将軍とちごうて京の朝廷と天皇が本来なら決めることやと仰せや」
斉彬 「御上は西洋列強諸国の軍備と我が国の軍備の差があることをご存じなのでしょうか?」
政通 「"幕府は異国との戦争を避けるため条約を締結しました"と私が御上に何度も説明しました」
斉彬 「御上は何と仰せですか??」
政通 「まぁ…納得しておられます」
斉彬 「…」
政通 「それより薩摩の守にお会いできて良かったわどうも斉昭(義理弟)の話しだけでは
幕府の政や江戸のことが解らへんところもあるからな」
一橋慶喜と一条美賀子とが今秋に結婚するその後に慶喜に官位を与えて幕政に参画させるそうすれば将軍擁立の布石となると政通は斉彬に説明しました。
政通 「薩摩の守今度はいつ上京するのや?」
斉彬 「来年になるかと」
政通 「またお会いしましょう…ああ!月照を通してや!」
斉彬は関白 鷹司 政通と会談して京の朝廷と天皇に対して安部正弘と徳川斉昭が円滑な意思疎通を行っている事が分かった。斉彬の「幕府と朝廷の関係が悪化」という懸念は払拭されました。こうして島津斉彬は朝廷工作を開始したのです。
『さてその頃、長州藩の野山獄は武士階級のための独房で12室ありました。南北に二棟が向かい合い一棟6室で真中に細長い広場がありました。独房の各室に畳が二条が敷かれていました。吉田寅二郎が収用されたのは北側の棟の端っこ牢でした。』『野山獄は江戸伝馬町の牢とは違い牢名主制度は無く独房だけに孤独に耐えなければなりませんでした。』①
ある日のこと、文がいつもの様に寅二郎の独房に尋ねて来ました。金子重之介が岩倉獄で獄死しました。寅二郎がそれを悔い後悔の念でひどく落ち込んでいたのを文は心配していました。けれど最近の寅二郎の様子はいつもの「寅兄ィ様」に戻っていて文は安心していました。
「寅兄ィ様が元気になられて良かった!」
と文は言いました文はこの時13歳。無邪気な女の子だった。
「話し相手が大勢できたからね」
寅二郎の隣り牢の富永 有隣(とみなが ゆうりん)と南側棟の向かい側の牢の人が話し相手だという。文は振り返り向かい側の牢を見ました。するとその牢の中から白い顔が見えました。文は好奇心旺盛な女の子ですサッと中庭を小走りで向かい側の牢に行ってしまいました。
「だめだ!文!帰っておいで!」
文の行動を牢役人は見て見ないフリをしていました。そこの牢に居たのは何と女性でしたこの人の名前は高須久子(たかすひさこ)という人でした。文は「寅兄ィ様の事をよろしくお願いします」と久子にお辞儀をし直ぐに文は寅二郎の牢に戻って来ました。
寅二郎は文を怒ることも無く少し困惑した顔で文に本のメモを渡しました。文は「お兄ィ様(民治)に伝えますね!また明日!寅兄ィ様!」と言って帰って行きました。寅二郎は妹文の気遣いに過酷な獄中生活から救われていたと思います。
『萩の野山獄に吉田寅二郎が投獄され五か月経過していました。寅二郎が獄中で読んでいた洋学書は長崎のオランダ学者が翻訳した東洋と西洋の地理、歴史、国情紹介書などを出獄する一年間で500冊以上読み続ける日々を送っていました。さらに寅二郎は読破したの本の感想や自論を書くことも行っていました。』②
『寅二郎が読破したと思われる洋学書はまず東アジア情勢を知るための書籍としてアヘン戦争の清国人の論文でイギリスの東アジア進出とアヘン戦争の詳細を紹介した翻訳論文。また清の兵学者でイギリス軍の近代兵器の装備と清軍の軍備との差異を詳細に書かれた翻訳の実戦記録。』
『次にイギリスと日本の国交問題のとして1808年に起きたイギリス船による長崎出島のオランダ商館襲撃事件「フェートン号事件」の詳細を書いた記録書。それにイギリスの歴史やイギリス人の国民性そしてイギリス人の宗教観などが書かれた長崎のオランダ学者の評論文。』
『西洋諸国で日本が唯一国交を持っていたオランダ王国の地理、歴史、国情などの紹介書。そしてフランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトのヨーロッパ征服の詳細を書いたフランス歴史書などを次々読破していたと思われます。』②
吉田寅二郎の国家構想である”近代科学を学びそして日本を近代国家にし西洋列強諸国と同等の国力を持たなければならない”。吉田寅二郎は単純な排外主義である攘夷論を否定しいました。そして吉田寅二郎は西洋列強諸国のアジア支配を警戒しつつも西洋列強諸国とアジア諸国の情勢を熟知し近代文明を積極的に学び取りそして自らの国家構想を熟成させようとしていました。
つづく
① 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(2) より 要約
② 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録 より 要約
お日様とお月様の光と影
~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
第一章 西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(13)
≪参考文献≫
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より
幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録 より
1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 より
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より
突っ込みどころ満載!
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。