フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

湯島の白梅 [047]

2006年02月28日 | 四季折々



           湯島の白梅

 

         
               [湯島の白梅] 


 「梅は、観るというより嗅ぐものですね」

 尊敬する後輩にそう教えてもらったのは十余年前のことだ。

 およそひと月後に絢爛豪華に咲き乱れる桜に比べ、梅というのはいかにも地味だなと思っていた私は、早速それをクンクン嗅いでみたところ、その香りのあまりのすばらしさに思わず驚嘆したことをつい十余年前のことのように思い出す。

 「いや、まったく、梅はかぐもんだー!」

 天然の恵みとも云うべきその芳香は、人工のいわゆる香水的なものとは対極にある自然さで、私たちの嗅覚に淡い快感をもたらす。淡きがゆえに胸に染みいる。まるで初恋のように。

 その香りの真髄にめざめてこそ、控えめで楚々とした梅のたたずまいの本質的な美しさが見えてくる。そんな仕組みだったわけだ。
 以来私の年中行事ベスト10に、この“梅見嗅ぎ”は見事上位ランクインを果たしたのであった。


    


 さて江戸っ子の場合、とりあえずは湯島の白梅である。

 家からは千代田線で一本、30分もあれば到着する。
 仕事は土日に片づけて、空いてる平日に出掛けるのが常だ。いっぱいの人混みの中で、いいオヤジが梅をくんくん嗅いでる光景はやはりちょっと怖い。

 昨晩(渋谷オーチャード)のエバの余韻はまだ消えていない。そのせいもあるのだろう。満開はおそらく来週あたりだろうが、待ち切れずにやってきた。
 ちなみにゴールデン・ハーフが復活したわけではない。


       


 

 朝一番でここ湯島天神に駆けつけ、たっぷり二時間、超ゴージャスなひとときを過ごす。


   


 湯島天神の梅の本数は約300本、うち九割が白梅だ。
 う~ん、今年もがんばってるなー。いー香りだ。

 今季梅を見たり嗅いだりするご予定のない方には、せめてものピンボケ写真をお届けしたい。
 梅酒でも飲みながら見てもらうと、意外とそれなりだぞ。


      
                 [名高いしだれ梅]

      
      
                    [ん、犬みてーだ]

 

 湯島の白梅には、意外にもモーツァルトがよく似合う。
 そんなわけで、今日のBGMは発売されたばかりのミハイル・プレトニョフ(ピアニスト/指揮者/作曲家)によるピアノソナタ集だ。モーツァルト・イヤー(生誕250年)にふさわしいチョー絶品である。

                       
  『ミハイル・プレトニョフ/モーツァルト:ピアノソナタ集』
               (ユニバーサル/2005年録音)


 かなり以前に録音したピアノ協奏曲は、知的な構築性を求めて完璧なテクニックで押しまくるような感があったが、このピアノソロではまろやかにして自由奔放な歌心が前面に出て、まるで春の到来に先んじる湯島の白梅の心意気にベストマッチするような風情じゃないか、と云ったら絶対に過言であろう。
 みんな知ってるK.331のトルコ行進曲も、誰もやらなかった(やれなかった?)大胆かつリリカルな歌いまわしで、ほろ酔い気分にさせてくれるような名演であることだけは断言しよう。


 さてと。ここらで朝も早よから一杯やりてえところだが、午後からは大仕事が待っている。
 ま、仕事あっての花見である。花見あっての仕事である。どっちかよくわからんが、お名残惜しくも本日はここまでだ。
 そのかわりと云っちゃなんだが、後日もっとタップリしたスケジュールで、あの華麗なる池上梅園に出掛ける予定だ。



          

 「梅酔いのひいてどーする恋みくじ」

 


 

 

 


僕を見つめて [046]

2006年02月26日 | パセオ周辺



    
   僕を見つめて


 キングレコードのプロデューサーから久々に電話があり、「相当いいセン行ってるんで、よろしく応援頼むよ」と云う。
 信頼できる彼の、その気合いの入りようは、何かわからんが私に楽しそうな予感をもたらした。

 さあ、その翌日届いたサンプル盤である。


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 実にその日から今日に至るまで、そのCDが会社で流れない日は一日としてない。パセオにおいては、まるでカマロンばりの人気ディスクなのである。
 私も思わず個人購入し、今では散歩用必携アイテムの一枚となっている。少なくとも200回は聴いた計算になるわけで、これだけ飽きのこないディスクも珍しい。

 40年前に大ヒットした『星のフラメンコ』。
 その20年後にやはり大ヒットしたジプシーキングス。
 それから更に20年後、同じようなポテンシャルを確実にもったCDがここに在る。


            
     『大渕博光/エステ・アモール』
       (キングレコード/2005年)


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 昨年秋にメジャーCDデビューを果たした、フラメンコ界で活躍するカンタオール、ブッチーこと大渕博光さんである。
 このフラメンコ系ポップスのタイトル曲『エステ・アモール』は、テレビ東京系『美の巨人たち』のエンディングテーマとして全国にオンエアされた。

 私としては、リリカルな哀感にときめきが交差する曲目の『ミラ・メ(僕を見つめて)』を、「二十年周期で出現するテリトリー拡大の名曲」の本命と見ている。

 たくさんの音楽関係者が詰めかけた、ブッチーの昨年10月のメジャー進出ライブ(渋谷のパルコ劇場)は期待にたがわぬものだった。
 思ったより高音域も伸びる人で、その熱いファンタジーに年甲斐もなく私はシビれた。

 純粋に音楽だけで勝負できる人だな、と思った。
 だから曲間のしゃべりなどのサービスが、むしろその力や流れを妨げたのは惜しいと感じたが、余分な要素だけで成り立っているこの私にそれを云う資格はないだろう。


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 そんなこんなで、来たるべきものは20年振りに、いよいよ登場したのである。
 果たして名曲『ミラ・メ』が「永遠の名曲」として羽ばたいてゆけるのかどうか?
 多くの名曲の成り立ちがそうであったように、息の長い名曲に育ててゆくのは私たち聴き手の務めだ。

 その大半は私たち聴き手の感性にかかってくるのであるが、ジプキンでシクじったこの俺にそれを云う資格はねえだろう。





 


ジプキン(2)[045]

2006年02月25日 | パセオ周辺



                    ジプキン ② 



 幸いにも、私の予想は悲しいくらいにハズれ、輝けるジプシーキングス時代は到来する。


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 その後も、ジプキンを契機にフラメンコ一直線となったマノロ・カラコール派の中年女性や、同じくジプキン出身でフェルナンダ・デ・ウトレーラ派の20OLらの話を直接聞くうちに、それらが不思議でも何でもなく、ごく普通の現象であることを、ようやく私は理解したのだった。
 考えてみれば、どこかで聞いたような話ではないか。

 そう、この俺こそも『星のフラメンコ』県出身パコ・デ・ルシア部屋のただのデブであったのじゃねえか

 まったくもって、てめえのことだけ棚に上げるヤツほどマヌケな者はない。
 「日本におけるフラメンコ拡大の音波」はここ二十年来、『星のフラメンコ』からジプシーキングスへと移行していた、という単純明快な世代交代だったわけである。


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 「あたしもフラメンコ大好きなんです」  

 行きつけの店で飲んでると、私のシノギを聞きつけたお客さんから、こんな風に声をかけられることも多い。

 「へえ、どんなの好きなの?」
 「やっぱジプキンかな。それ以外あまり知らないしー」

 いまだにジプキン強しである。
 こうした場合、アレはちょっとフラメンコとは違う、みたいなヤボは御法度で、私はすかさずこう返す。

 「それさえ知ってりゃ、勝ったも同然だあ」

 それでもさらにフラメンコに対して突っ込んでくる人には、パセオのURLの入った私の名刺に、カマロンの『生きよう』または『時の伝説』と書き、相手に渡しながらこう云う。

 「ジプキンを理解するほどの優れたセンスを持つ君だ。あんたの場合、次の到達点はここでしょう!」


           
        『カマロン/時の伝説』
        (POLYGRAM1979年)


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 さて、昨日書いたジプキン日本デビューにまつわる私的悲話は、私の輝かしいキャリアを汚す数少ない失敗のひとつである。
 こうした小規模な失敗の他、目を覆うような大失敗が約800件ほどあるのだが、そのことはくれぐれも他言無用である。

 

 

 


ジプキン(1)[044]

2006年02月24日 | パセオ周辺



         ジプキン ①  

 

 「発売する新譜について、専門筋の意見を聞かせて欲しい」。

 二十年ほど前、そう私に依頼してきたのは、ジプシーキングスの日本デビューを担当することになった有力レコード会社ディレクターの某氏だ。

 専門筋というほどの者でもないし、だいいち、それってフラメンコじゃねえんじゃねえのと思いつつも、私は早速そのサンプルCDを聴いてみることにした。

 「う~ん。ノリは絶好調だけどねえ。このガシャガシャ感はどうかなあ」。

 当時のフラメンコのコア層にウケることはあり得なかったし、また、一般的にウケるとも到底思えなかった私(一般社会のことを何も知らないくせに)には、どうしてもネガティブな感想しか出てこなかったのである。


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 だがしかし、フラメンコの真髄を歌うフェルナンダ・デ・ウトレーラの魂が乗り移っていた当時の私の、ぽろっともらした先のネガティブな感想が命取りとなる。
 無責任な批判というのは、結局はブーメランのように自分に戻ってくるのだ。西城秀樹さんもそんな風に嘆いていたような気もする。

 とりあえず、ライナー翻訳の仕事だけは引き受けて仲間内に回したのだが、その数ヵ月後にあのまさかの大ブレイクである。
 日本テレビの人気深夜番組『11PM』への出演を皮切りとするアッという間の全国制覇。
 ジプシーキングス時代の到来だった。

 もちろんその後、ディレクター氏から連絡はない。
 当時の音楽業界において、私の目と耳はすでに「節穴(ふしあな)」の異名をとっていた可能性は高い。


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 それから数年が経ち、高円寺のタブラオで偶然隣り合わせになった好青年。
 聞けばマヌエル・トーレ(伝説の大フラメンコ歌手)に夢中であると云う。
 そのきっかけは、何とたまたま行ったジプキンのライブだったと云うのだから私はたまげた。ジプキン経由で、このフラメンコの核心部分にわずか三年でたどり着いたと云うのだ。

 私は彼に学び、ジプキン関連のCDをすべて買い集めた。
                     (つづく)

 


          
       『マヌエル・トーレ/カンテの伝説』
         (SONIFOLK2000年)


 

 


星のフラメンコ(3)[043]

2006年02月22日 | パセオ周辺



          星のフラメンコ ③ 


 小松原庸子さんをはじめとする草分け世代の大活躍なくしてはあり得なかったこの日本のフラメンコの隆盛。

 そして、その普及発展プロセスには、こうした通奏低音(『星のフラメンコ』大ヒットによる“フラメンコ”の国民的認知)の恩恵をこうむっていた側面も確かにあったのである。

 そんな大恩人とも云うべき西郷輝彦さんには、ずっと以前、本誌パセオで逢坂剛さんがホストを務めるフラメンコ対談の打ち上げでお会いした。

 業界やパセオのもろもろ含めて、ぜひ一度御礼したいと考えていた私は、当時この対談企画をプロデュースするキリコ(西脇美絵子/当時のパセオ編集長)と、西郷さんが所属するレコード会社である日本クラウンの氏の両雄に拝み込み、結果そのブッキングは実現したのだった。


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 「エッー!うっそでしょ~?!」


 意表を突いたらしいその業界秘話に、西郷さんはびっくりしつつも「いや、光栄です」を連発しながら大喜びしてくださった。
 その大きなリアクションには、苦労人スターの貫禄とやさしい思いやりが見えた。


           
       [フラメンコ界の大恩人]   


 そんなこんなで、今でもカラオケとくれば、フラメンコ普及史上に燦然と輝く『星のフラメンコ』とわきまえるこの私だ。
 コンパス・歌唱力はともかく、爆唱する私に西郷輝彦の「どてらい魂」が乗り移っていることはほぼ確実である。


 


 


星のフラメンコ(2)[042]

2006年02月21日 | パセオ周辺



     星のフラメンコ ② 



         
    『西郷輝彦/ゴールデン★ベスト』
    
     (日本クラウン/2004年)


 「たかが『星のフラメンコ』、されど『星のフラメンコ』なのである」


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 現代フラメンコの潮流について明晰な解説を加える一方、加部さんは日本のフラメンコ界全体を俯瞰(ふかん)する作業を忘れてはいなかった。
 冒頭の指摘は、『星のフラメンコ』が日本中に及ぼした「三つ子の魂百まで」的なその影響力の大きさを、私たちに思い起こさせたのである。

 ジャックナイフのようなこの鋭い洞察は、当時の関係者たちの盲点でもあった。
 また同じく、急所を突かれてギクリとする私のスカスカ頭脳はその刹那、『星のフラメンコ』の影響下にあった頃の情景を映し出す走馬灯と化していた。…………が、ガビ~ン。

 されど『星のフラメンコ』だったのである。


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 ちなみに、当時のNHK歌番組で、西郷輝彦さんが歌う『星のフラメンコ』に合わせて踊った本間三郎さん(私の人生の師匠)と長嶺ヤスコさんのきわめて印象的なパレハは、いまだに私の脳裏に焼きついている。


                  
       [われらが本間三郎師匠]


 果たして、そうしたプロセスを抜きにして、
「おめーはパコ・デ・ルシアに自力一発でたどり着けたのか?」

「お、俺の場合、か、かなり怪しい」
 と、私は思った。

 この夏創刊23年目を迎える月刊パセオフラメンコが、『星のフラメンコ』の落とし子であった可能性は、か、かなり高い。
                       (つづく)





星のフラメンコ(1)[041]

2006年02月20日 | パセオ周辺



      星のフラメンコ ①  

 

 「好きーなんだけどおー
                     
(チャッチャッチャッ)
           離れてるうのさー」


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 いきなり歌い始めたのでびっくりされたかもしれないが昭和41年(1966年)に日本中で大ヒットした歌謡曲『星のフラメンコ』の冒頭部分である。


                
        『西郷輝彦/星のフラメンコ』
            (日本クラウン/1966年)


 現45歳以上の日本人なら、ほとんど口ずさめるはずのおなじみ曲で、歌っていたのは当時、橋幸夫さん、舟木一夫さんと並ぶ歌謡界の御三家の一人であり、現在は俳優としても活躍する西郷輝彦さんだ。
 『君だけを』や『十七歳のこの胸に』などの忘れがたい大ヒット曲もたくさんある。

 『星のフラメンコ』の作詞作曲は大ヒットメーカーのハマクラ(浜口庫之助)さんであり、同名タイトル映画(1966年日活)の脚本は何とあの倉本聡さんであった。


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 なんてカッコいい歌なんだ!

 生涯初めてのこのフラメンコ(と思ってた)をマスターした当時小学五年の私は、斜めに構えてパルマを打つ西郷さんの振りを交えながら、周囲の人たちを完璧にゲンナリさせるまで歌って叩いて歌いまくったものだ。

 こうした迷惑行為はのちに想えば、五年後に迫るパコ・デ・ルシアとの出逢いと十七年後のパセオ創刊を準備する、きわめて重要なファクターでもあったわけだが、時とともにそうした記憶は忘却の彼方へと去ってゆく。


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 さて、「フラメンコ界の小林秀雄」と称される我らがインテリ理論家、ギターの加部洋さん(アクースティカ代表)が、かつてお隣りの『現代ギター』誌にフラメンコ物の連載をしていたことがある。

 その冴えた知性がしなうような名文を、私たちは喰らいつくように読んだものだが、その中に以下のような一節があって、私の目からはウロコがぽとぽと落ちた。

 

  たかが『星のフラメンコ』、

 されど『星のフラメンコ』

             なのである。

                        (つづく)





楽園の微笑み(2)[040]

2006年02月19日 | 散歩の迷人



     楽園の微笑み ②


     


 たくさんの文人・風流人たちにこよなく愛されたここ向島の百花園は、今も散歩の達人のパラダイスとして変わらぬ光彩を放ちつづけている。


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 外出好きな母に連れられ、都電とトロリーバスを乗り継いで、はじめて私がここを訪れたのは45年も昔のことである。
 歳の私は「ふつーの庭じゃん」と思ったものだが、立派な老人の域に達しようとする昨今では「普通の庭じゃん」とやはり思う。

 なのにどういう訳か、ついつい足が向いてしまう。
 今年に入ってからすでに二度目である。もしかして、人はこれを徘徊と呼ぶのか。


           
          [ふつーの庭じゃん]


 ところで、こうした渋い名所にやってくる達人たちの平均年齢はものすごく高い。
 その中での私はバリバリの若手ホープと云っていいだろう。社内やフラメンコ界の中では決して味わえない新鮮な開放感がある。

 彼ら七十歳を越える達人たちの目には、私の姿はホアキン・グリロのごとくに映っているのかも知れない。あるいはまた、ニーニャ・パストーリのごとくに映っているのかも知れない。




                   
       『ニーニャ・パストーリ/ひかり』
           (BMG1998年)


 この楽園の中であるならば、いつものように何か大失敗をやらかしたとしても、「若気の至り」として、やわらかな微笑みをもって許してもらえそうな気がする。



                


 

 


楽園の微笑み(1)[039]

2006年02月18日 | 散歩の迷人

 


      
楽園の微笑み ①


 隅田川の東に、向島というめっぽう粋な下町がある。

 かつてご近所の健さんが修業した、高級料亭や芸者さんで有名な花街である。
 そのむかし、西側の浅草から隅田川を隔てて見ると「向こうにある島」のようだったのでそう名付けられたらしい。


          
          [浅草から眺める向島方面


 向こうにある島だから「向島」か……。
 そのあまりにも安易に過ぎるネーミング技法は、私の作文技法に一脈通ずるところもあって、私の心は共感と憐れみでいっぱいになる。


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 さて、ここ向島・百花園は、江戸の昔から草花をもって聞こえた名園である。
 今でも散歩の達人たちの憩いの場として、ほとんど年中無休で開放されている。


     


 明治の文豪、田山花袋もこの小さな庭園をことのほかお気に入りだったようで、彼が大正半ばに執筆した『東京近郊・一日の行楽』というガイドブックには、百花園の魅力がたっぷりと語られている。

 ちなみに百年近くも前に書かれたこの紀行文付ガイド本は、現代でも立派に実用に耐えうる名書である。
 私の散歩用リュックにも、もちろんその復刻文庫本が常備されている。

 百年を生きる花袋の文章は、日常生活のホコリを洗い流してくれるような生命力にあふれている。
 『フラメンコの大家たちCD』が発散する、時代を超える共感みたいなパワーがあって、その行間からはフアン・タレーガの歌声がもれ聞こえてくるようだ。

 このような幻聴をしっかり聴きとれるようになった私は、立派に老人として通用するレベルに達しつつあるのかもしれない。 
                      (つづく)


          
    [田山花袋のガイド本とフアン・タレーガのCD






完璧な画面 [038]

2006年02月17日 | 超緩色系

  
                      完璧な画面 

 


  「フラメンコ超緩色系/ブログ文章の添削」


 ちょっと前に高田馬場で飲んだライターのから、こんなメールが届く。
 ヒマがあったらやっとくれと、そう期待もせずに軽く頼んでおいたのだが……あれでなかなか義理堅い奴じゃねえか。

 メールを開けてみると、ワードで送信しておいた掲載済みの幾つかの文章に、赤や青の色文字でなんだか本格的な添削(てんさく)が施されている。…………へえ~。

 カブるような箇所を全体に二割がたカットし、そのかわり肝心なところでしっかりタメとパンチを効かしてある。文章全体がスッキリして、かつ彫りが深くなっているのだ。

 ふ~ん、こうやるもんかあ。
 おいおい、さすがにプロだぜ。
 ダテに食えてるわけじゃねえんだ。
 これで女にモテりゃあ、おめーも完璧だよなあ。

 早速プリントアウトしようとすると、その下に「追伸」とある。
 見れば『さらに完璧を期す方法』とあるではないか。
 何だよオイ、もっといい手があんのかよ?
 思わず身を乗り出して読み進める。


 お前の文章は稚拙すぎるが、何となく行間に味わいがある。
 ここではその長所を伸ばす秘技を教える。


 へー、うれしいじゃねえか。そんな技があんのか?


 心をこめて文章を書き終えたら、やや置いてから、まず文章全体を指定選択し、次に「削除」を押し、最後に「投稿」することを忘れるな。
 これで、「行間の味わい」のみをたっぷり残して、お前のブログ画面は完璧なものとなる。


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 試しにの云うとおりにやってみると、洗練されて真っ白になった画面には「行間の味わい」がたっぷりと残されていた。
 確かに私の文章がでれでれ書かれた画面よりも気品があり、はるかに完璧な画面であった。

 

           
        [洗練されて完璧になった画面]

 


 


前人未踏 [037]

2006年02月16日 | パセオ周辺


                   前人未踏   



 「観に来ていただけませんかー、私の発表会っ」

 2階のベランダで一服する私に、食事から戻りドタバタと階段を駆けあがった編集部(匿名希望の水野暁さん)は息せき切りながらも、いきなりこう倒置法で迫った。


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 22年間のパセオ社長生活の中で、自分の発表会(フラメンコの踊り)を観に来いと社員に迫られたのは、私にとって初めての経験であった。
 そのあまりの衝撃に、私は一瞬ゲシュタルト崩壊(全体性を失い個別のみを認識するようになること)を起こしていた。

 そんなことにはお構いなしに30歳・型・既婚女性)はこう続ける。
 パセオ社員がほとんど全員やはり発表会に来ること、社長だけ仲間ハズレにするのは忍びないとか、自分の出番が多いので多分社長を飽きさせることはないでしょうとか、何かそのようなことを一所懸命に力説していたことが、ちょうど三週間前の昼下がりのことのように懐かしく想い出されます。

 さて、このような勧誘をかける場合、私が彼女の立場なら、まず間違いなく以下のように段取るはずである。

 ロールスロイスによる送迎は当然として、最低でも松花堂弁当(特等)ハマグリのお吸い物付の食事付き、そしてこれもトーゼンだが、社長の座席の両脇には絶世の美女を最低二名配置し、とにかく失礼のないように、心地よくそのまずいタコ踊りをご覧いただくことを心掛け、お帰りには虎屋の羊かんの詰め合わせと共に、もちろん美女二名はお持ち帰りである。
 こういう段取りを周到に整えつつも、謙虚のかたまりのような私は結局それを社長に切り出すことが出来ずに、準備にかけた百万円は水泡に帰す。
 ま、私の場合はたぶんこのような結果となるだろう。

 だがしかし、(北海道旭川出身・野村部屋所属の色白美人)の場合は、その理念やヴィジョンが根本から異なっていたのである。じゃあ、ヒマだったら行ってやるからチラシと招待券を俺の机に置いておけ、みたいな雰囲気でないことはすでに明らかである。
 案の定、彼女はズバリこう切り出した。

 「あのー、一応みんなにも買っていただきました。一枚2100円です」。きっぱり。

 な、何たることをぬかすのかっ、こ、この俺さまに向かって。
 思わず倒置法になってしまうような迫力である。
 これは「恥知らずの厚顔無知」ではない。
 これはまさしく「命知らずの信号無視」である。
 「前代未聞」などでは決してない。

          「前人未到」 であった。

 破竹の勢いに押されながらも、社長業トータル25周年を迎える私は威厳と冷静さだけは十分にキープしながらこう云った。

 「う、え、じゃ、お、おとな一枚お願いします」

 おずおずと5000円札を差し出しながらお釣りをお願いする私に対し、こーゆー場合「ツリはいらん」とゆーもんだろうが、という感じのアイレが、炎のバイラオーラ水野暁の両眼にうっすら浮かんでいたことを、私は生涯の想い出にしようと思った。
 このことはまた、永い間の私の帝政が、リベラリスト水野の民主主義革命によってその終焉を迎えた瞬間でもあったことを、パセオ社史上に深く刻んでおくべきであろう。


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 さて、迎えた快晴の当日である。
 実り多い一日であったことを最初にご報告しておきたい。

 編集部はオール群舞で全五曲を踊った。セビジャーナス、ファンダンゴ、タンゴ、グァヒーラ、ブレリアである。
 それらは、全身全霊でフルに行ってみようという明るい気合いに充ちあふれており、群舞の交差における“かわし”の技術は見事であり、また、カンテやギターに飛び込んでゆこうとする意識がサパテアードの音質に確かに反映されていた、と思いたい。
 よって水野バイレの本質は、

「フル行けや かわす飛び込む 水野 音」

 にあると、その日私は確信したのだった。

 水野と云えば、取材先で「あなた、ちょっと踊ってみて」というアーティスト(例えばあの大沼由紀さんとか)の冗談に、迷わずいきなり踊り出してしまうほどの潔い根性の持ち主である。
 これでもかーみたいに何度も何度も登場する水野のその潔い踊りっぷりに、私はある種の感動を覚えつつ、「潔い」ということの本当の意味、そしてその意義を再認識したのだった。

 それにしても、それなりに緊張はしてるのだろうが、踊るのがうれしくて楽しくて仕方がないという、周囲までウキウキさせてしまうようなあの明るいアイレは一体なんなのだろう。
 天性なのか、天然なのか、単なるアホなのか

 ………いや、そうではあるまい。
 ついつい一人暗く生まじめになってしまうレベルから、もう一歩踏み出して、仲間とともに明るく何かを成し遂げたい。「人生楽しく」というヴィジョンは実際楽じゃないけど、そのチャレンジそのものに人生の醍醐味を感じてみたい。
 水野が放つオーラからは、そんなあっぱれスタンスが見えてくるのだ。あの豪快なチケット営業もそうだが、今日の水野はそんな爽やかな生き様を胸を張って私たちの前にさらしたようでもあった。……ま、単なるアホの線も捨てがたいが。


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 さて、技術面・コンパス面のレポートについては「農耕民族の意地を立派に貫いた」みたいな行でご理解いただきたい。その日の水野バイレはコンパス・技術を超越していた、ということでサラッと流すべきである。だから、それはどういう意味か?みたいな突っ込みを入れてはいけない。あなたも私も命だけは大切にすべきだからだ。
 また、今後の課題の大きさは、そのポテンシャルに比例するのである。

 それにしても改めて思うが、“フラメンコ”というジャンルの実力はまさに底なしである。発表会と云えども、このような感動の嵐を巻き起こすことがあるからだ。
 この日の出演者たち(シルバー世代も大活躍)が、そうしたフラメンコの実力をものの見事に引き出して魅せたことだけは嘘ではないのである。

 100年にいっぺんくらいはこんなことがあっていい、とさえ私は思った。ちょうど今年がその100年目に当たることを知らずにいたこの私の方にこそ油断はあったのだ。
 何事かをやり遂げた者にだけに許される会心の笑顔を浮かべる今日の水野は、いつもの十倍ぐらい飛び切り上等に素敵だった。
 
強制的に来場させられた優しいご主人も、さぞや惚れ直されたことであろう。



            
「極度の緊張から開放された安堵から今にも泣き出しそうなパセオ全社員と、羽衣えるさんや濱田吾愛さん(ハレオ係)ほか有名執筆者たちに祝福され、一人うれしそうな水野。ふ、ふるえる手で筆者撮影」


  


 


           


粋な九平次 [036]

2006年02月15日 | フラメンコ


               粋な九平次


 
ここ数日また少しアクセスが伸びてるなあと、ブログの[アクセス元URL]をチェックしてみると「YANOYOSHIO」というサイトからの来訪者数が妙に目立つ。

 見習いの矢野君に調味料を持ってくるよう命じることの多いコックさんによる『矢野よ塩』というブログなのだろうと当たりをつけたが、そんな変なコックさんを俺は知らんぞ。
 いや待てよ……。矢野よ塩、矢野よしお……ん、あの矢野吉峰じゃねーのか。
 で、クリックした行き先はやはり、あの矢野吉峰であった。


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 1999年に日本フラメンコ協会新人公演で奨励賞を受賞した矢野吉峰さんは、注目の新進気鋭バイラオールである。
 何年か前の彼の初リサイタル(こまばエミナース)は、その年に私が観た全フラメンコ公演の中でもベストに入るものだったが、その彼の“超シャープ”な感性と技術からガツンと喰らった衝撃と快感は、今でも鮮明に思い起こすことができる。
 さらに彼は、そう、ご存知『曽根崎心中』の本格派ヒール、人気爆発のあの悪名高き“九平次”でもあるのだ。


               
  矢野吉峰も出演する日本フラメンコ協会15周年記念公演のチラシ
                 
16日なかのゼロ大ホール]


 下から二段目、右から三人目の色男が矢野吉峰さんである。
 ………ん、見えねーか。んじゃ、ど~んと拡大してみよう。




           
       
         [舞踊家モードの矢野吉峰]


 先週の金曜日、ある企画の写真撮影に立ち会うために私は井の頭線・池ノ上の“アルテ・イ・ソレラ”に出向いたのだが、そこでまず、とっくに死んだと思ってた九平次に出喰わし、さらに、彼のために心中に追い込まれたお初(鍵田真由美さん)と徳兵衛(佐藤浩希さん)が、その九平次と三人で仲良くジャレ合ってる光景には、いや驚いた。
 あの事件(1703年)からもう三百年近くも経っているのだから、ま、そんなこともあり得て不思議はないのかもしれない。

 さてその折、矢野さんとブログの話をしたような気がする。
 
彼はご自身でも人気サイトを運営されてることは私にひと言ももらさず、一方で私のブログをそこで御紹介・応援くださったのだということを、先ほどから彼のブログを観ながらやっとのことで呑みこめた私であった。おいおい、なかなか粋なことをやってくれるじゃねーか。


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 さあ、こりゃ強そーなのとめぐりあったぞと、つらつら読んでゆくと、なんと、矢野ブログは実に緩(ゆる)い。はっきり云って私以上だ。
 私のブロ愚は何だかんだと云っても、「真な姿勢」「謙な態度」「欠く調高さ」という三拍子そろったクオリティを特長とするわけだが、彼のそれはただひたすら緩い。
 ま、しかし『一日一笑』を標榜するあたりは、フラメンコの未来を担ってゆく人物にふさわしい大局観を感じさせ、そこらへんはチョー心強いぞ。ユーモアなくして豊かさなし。“笑い”は人類随一の必勝法則だ。だがしかし、ブログはチョーゆるい。

 よって私の場合は愛のムチとゆーか、その見せしめとして以下にそのURLを記す。

  サイト名Diario de Salaito/矢野吉峰のブログ』
 
        http://blog.livedoor.jp/yanoyoshio/


 そのキャッチコピーには、
 「日々の事をそれなりに投げやりに書き綴っています。」
 とある。
 ちょいとでも覗いてみるとわかるが、彼をご存知ない方は、こんな奴にほんとにフラメンコが踊れるのか、と必ずそう思われることだろう。
 そして、そういう先入観を十二分に培った上で彼のステージをご覧になることをお薦めしたい。
 その物凄すぎるギャップにガツンと一喝喰らうのは“近来稀に見る快感”のはずである。

 

 


本質の見極め(2)[035]

2006年02月14日 | パセオ周辺


     
    本質の見極め ②



 目映いばかりのパセオ最新号なのだが、そこには「期待」と「恐怖」が共存している。


                      
     『月刊パセオフラメンコ2006月号』


 もちろん、いきなりガバッと頁を広げるような無謀なマネは禁物だ。
 あくまでも、体は半身に構えて、両眼はウス目にして、いつでも現実逃避できるような万全の体制を整えた上で、そっと、あくまでもそっとめくる必要がある。

 もし、中身が真っ白だったら心臓が飛び出してしまうではないか。
 そうでなくても私の心臓はノミの心臓なので、口から飛び出しやすいのだ。


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 とまあ、こういうスリリングな局面があればこそ、ふだんの地道な積み上げにも自然と気合いが入ろうというものである。

 してみると「恐怖」というのは、怖そうに見えて案外、「努力の友」や「上達の母」だったり「持続の素」だったりするのかもしれない。

 同じように社長というのも、怖そうに見えるかもしれないが、実際には友や母や素(?)だったりする可能性が高い。
 おまけにここんちの社長はノミの心臓だぞ。
 よおっく本質を見極めて、くれぐれも普段から大切にあつかうことが肝心である。


 ところで、今日が何の日かおわかりか

 私のバッグにはまだ若干の余裕があるぞ。
 また私の場合、その手のモノは年中無休で受け付ける悲壮な覚悟があることも、どうか憶えておいてほしいものである。

 

 


               
      [自分で買ってどこが悪いっ?]



 


本質の見極め(1)[034]

2006年02月13日 | パセオ周辺


       本質の見極め ①

 

 「来たかあ……」。

 万感の想いでそうつぶやく。
 プレジデント・デスクに置かれた、目映いばかりのパセオフラメンコ最新号。

 アントニオ・マレーナ“エル・マレン”の熱唱を舞う、われらが鍵田真由美。

 「心に歌が、しみこむように」…か。
 ……いいコピーじゃないか。


    


 二十二年の歳月。
 パセオはわが子のようであり、わが師のようでもある。

 月にいちど、それを手にとる瞬間のために、この仕事を続けているのかもしれない。
 あるいは、他にこれといった用もないので、この仕事を続けているのかもしれない。


 午後になって、パセオ月号の見本が印刷所から届く。
 20日に全国書店で発売となる号だ。
 この段階で何か大きなミスが見つかったとしてももう遅い。
 作り直して刷り直せばウン百万がふっ飛び、しかも発売は遅れるわの大パニックだ。

 最新号のページを開く期待の瞬間というのは、同時に恐怖の瞬間でもあるのだ。
                      (つづく)


 


代々木公園のフィクサー [033]

2006年02月11日 | あしたのジェー


    代々木公園のフィクサー


 四季の変貌を、そのあたたかなタッチと美しい色彩感覚で描きわける、渋谷区代々木神園町在住のルノアール派巨匠。

 その高名なマエストロの名を、代々木公園という。

 戦前は陸軍の練兵場、一転して戦後はアメリカ進駐軍の将校住宅、東京オリンピック(昭和39年)の選手村を経て、公園として一般開放されたのは昭和42年のことで、現在ではその一帯がわが家の愛犬ジェーのナワ張りとなっていることはあまり広く知られていない。


    


 休日の朝か夕暮れどきに、ジェーのナワ張りを共に散歩がてら見巡ることは、彼との約束事になっている。
 私の通勤路でもあるここ代々木公園とは、もはやわが家の庭と云っても差しさえないくらいに親密な間柄なのである。

 地べたの土や、草や葉っぱの感触を楽しむかのごとく、ロンデーニャみたいなコンパスでゆったり歩むジェーの後ろ姿は、普段よりも頼もしく感じられる。

 道々、同じくらいの大きさの美形を見つけちゃあ、うれしげに相手とジャレ合ったりもする。
 たぶん、ペディグリーチャムの新作や人間関係などについて、意見を交換し合うようなフリをしてナンパしてるのだろう。


        
   [勤務中のフィクサー。無料開放中の自宅の庭にて]


 たそがれ時分だというのに、噴水近くのマジョールに人々はごった返し、至るところで思い思いの楽器を楽しそうに演奏する光景が目から耳へと抜ける。

 下手クソな素人ミュージシャンどもめ。てめーら、ぜんぜん俺よりうめーじゃねえか。
 嫉妬全開の毒づきも、もはやルーティンと化している。


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 「そろそろ帰るか」という問いかけに、名ごり惜しそうな眼差しを私に向けながらも、ナワ張り内の平和を確認したその安堵からか、その場で、普段より大きめなうんこを惜しみもなくたれる名犬ジェーであった。