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2014年4月30日(水)その1619◇不条理
持つべきものは友である。
仏語だけは達者だったナカタケは、まんまとそれ関連の商社にもぐり込んだが、
三年にいっぺんくらいの周期でふいに連絡を寄こし、
懐かしのキャンパス近くの赤提灯で昔話に興じたりする。
バクダンとの異名をとった中武は、
綺麗な女性を口説かぬのは犯罪であるという思想の持ち主で、
その一貫した戦闘力には畏敬の念を払ったものだ。
彼との比較の上なら、この私は品行方正なよゐ子のお手本と断言できよう。
ツルんだのはサルトル・ゼミの二年ほどだったが、
その間、多い時で日に三度、彼の自爆や不発の現場をいやというほど目撃した。
悲惨だったのは先方の彼氏を甘く見た誤爆であり、
その結果ボコボコにされた顔面で「俺は不条理に負けない」と酎ハイをあおる
奴の不屈の魂は、のちのパセオ運営上大いに参考になった。
だが今となっても、不条理なのはおめえの方だと私は想う。
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2014年4月29日(火)その1618◇絶賛在庫中
日曜晩の相棒劇場版『Ⅹデー』に触発され、
丸山健二さんの傑作『虹よ、冒瀆の虹よ』のポイントを読み返した。
ある一面からではあるが、主人公・銀次を媒介に
時空を超えるフラメンコのグローバルな本質を抽出してみた。
まんま載っけたウェブの反応からすると、
それは例によって私の独りよがりであったらしく、
この三十年月刊パセオフラメンコが爆発的に売れたことが一度もなかった原因が
おぼろげながら推測できた。(@_@;)
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2014年4月28日(月)その1617◇銀次について
鋭角的な渡世。
寸法の狂った人生。
前途有望な極道者。
純粋過ぎて有害なもの。
不敵な面魂と人並み外れた胆力。
走るための走りを楽しんでいる。
人生の醍醐味は深入りと突入しかあり得ない。
彼は若くして"自由"を発見していた。
その自由は光に充ちていた。
その光の前では、どんな苦難も何ほどのことはなかった。
迷ったことなど一度もなかった。
迷えば倒れることも本能的に知っていた。
その光源に向かって、自主自立の道をひたすら突き進めばよかった。
この世に生きるための行為は何もかも善であり、
同時に悪であるという、
さもなければ善と悪のどちらでもないという、
生まれながらにして銀次の魂の根幹にどっしりと横たわる基本の尺度。
銀次は常に銀次自身に帰依している。
丸山健二『虹よ、冒瀆の虹よ』(新潮文庫)より、主人公・銀次の私的スケッチ。
フラメンコ的と云えば正確さを欠くが、若い頃に読んでいたら、
ちょっと危なかったかもしれない。
今のところ本棚の銀次はおとなしくしている。
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2014年4月27日(日)その1616◇愛するがゆえに
例えば現場でピンチに陥るとき、突然鳴り出す「パコ・デ・ルシアのアルモライマ」。
例えば厄介ごとに巻き込まれたとき、突然語り出す「桂枝雀の寝床」。
例えば一から仕切り直しを迫られたとき、突然聞こえる「藤沢周平の用心棒日月抄」
愛する死者は、愛するがゆえに、常に我が身を救う。
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2014年4月26日(土)その1615◇暮らしの中に
「今でもバッハやパコ・デ・ルシアなんかを聴いてるとね、
アートは常に明快なヴィジョンを予言してくれるものだって確信できるんだよ」
そんな風に吠ざいた3月号の発行から間もない2月26日、
パコ・デ・ルシア急逝の報が入った。
パコは不死身だと迂闊にも錯覚していたので、
あれから数週間経っても未だピンとこない。
むしろ私という薄情者が、
生者と死者をほとんど区別しないタイプの人であることに改めて気づく。
これまで同様、パコは暮らしの中にある。
42年前、将棋のプロテストに失格したころ、
授業をフケて御茶ノ水界隈を徘徊中に偶然見つけたパコの輸入盤。
結果で云えば、あの一枚のレコードが私の人生を決めた。
その12年後、28歳の私はパセオフラメンコを創刊する。
彼のフラメンコギターは常に私の推進力であり続けてくれたし、
それはきっとこれからも変わらない。
パコ・デ・ルシアに授けられた知恵と勇気をどう世の中に還元してゆくか。
負け犬だった私を負けにくい犬に成長させたその壮大なテーマもきっと生涯変わらない。・・・
(『パコ・デ・ルシア追悼~小山雄二』月刊パセオフラメンコ5月号より)
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2014年4月25日(金)その1614◇美しいフラメンコは
月刊パセオフラメンコ5月号。
月々732円(+税)。
費用対効果は、そのおよそ百倍である。
表紙は関西のドン、トンチューこと東仲一矩(ひがしなか・かずのり)。
ドスの利いた超カッコええフラメンコを踊るバイラオール。
本号では『ラ・フォルマ(美しい立ち姿の謎)』に堂々の登場。
観て読んで、身体を動かしながら、ちょっとだけ考える。
フラメンコな上達がきっと保証できる内容。
以下は続きが読みたくなる締めの一部。
「だから練習を物凄くしました。
地味な練習だって無心に続けました。
普通の人にとっての悲劇だって、喜んで受け入れました(笑)。
アーティストのカタルシスやナルシシズムなどは
一般の人よりも振り幅が大きいでしょう。
それも芸の肥やしです。
好きと、才能があることは違うのだと、
スタートの時に教えてもらえたことに今も感謝しています。
さて、美しいフラメンコは皆、自分に嘘をついていません。だから・・・」
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2014年4月25日(金)その1613◇原点回帰
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今でも年に一度はビデオを観る。
そう、だいたいはピンチの時だ。
うっかりブレそうになる自分の中の無意識が、
もしくは美意識が〝原点回帰〟を渇望しているのだろう。
ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの黄金コンビ。
映画『スティング』を初めて観たのは、
仕事と女と麻雀とギターに熱中した十代最後のころ。
脚本、キャスト、演出、音楽、美術、衣裳などが、すべてパーフェクトに思える。
『ショーシャンクの空に』『ひまわり』と並ぶマイベスト3スクリーン。
あの映画は確かに、私の人生のコンセプトを決定した。
レッドフォードの恩師の復讐を命懸けで応援するニューマンは、
「何故そこまでやってくれる?」という後輩レッドフォードの疑問に淡々と応える。
「遊びだよ」
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2014年4月25日(金)その1612◇
美貌の女性は、トゲもしくは〝天然〟を有すことが多い。
トゲは早々に見抜けるが、天然の方は少し時間がかかる。
美貌ではないが、ステージで動作する瞬間から
ミューズの領域に溶け込むロシオ・モリーナ。
彼女はどんな人だろうかと想像してみる。
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渋谷オーチャードの不思議な余韻は、むしろ響きを強めるばかりだ。
次々と一流プロ棋士を破るスーパー・コンピューターのようにも見えた。
フラメンコに新たな地平を切り拓くジャンヌ・ダルクのようにも見えた。
「天才をいくら分析しても、そのデータは参考にはならない」
ふと、司馬遼太郎さんの声が天から聞こえてくる。
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2014年4月24日(木)その1611◇ハリマオ
おっ、タモリっ!・・・じゃねーんだ、
こりゃ正義の味方・快傑ハリマオなんだなっ!
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実在のモデルは、太平洋戦争の直前、
マレー半島で大日本帝国陸軍に協力した谷豊さん(=泥棒の親分)。
1960年(昭和35年)から日テレ系列で放映。
戦後15年、5歳の私は超カッコいい生き様のハリマオ(マレーの虎)を毎週欠かさず観ていた。
手塚治虫~石ノ森章太郎の漫画ヴァージョンもお懐かしい。
1989年の映画『ハリマオ』(松竹)は和田勉監督・陣内孝則主演で、
こちらは谷さんのトホホな実像に近い。
あのころは谷豊さん関連の書籍を読み漁ったものだが、私が彼の立場なら、
迷わず同じようなズッコケ展開をやらかしたんじゃねえかと思うわけ。
経験を飛び超え、歴史に学ぶことはホント多いわ。
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2014年4月23日(水)その1610◇憧れの職業
現在なら、銃刀法違反とスピード違反で即とっ捕まるであろう彼。
昭和三十年代、われら下町のガキどもが、
都電の運転手の次に憧れた職業が「月光仮面」だった。
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力不足でどちらも実現できなかったが、
月光仮面の扮装で都電を運転する夢を見たことが、
数少ない自慢のひとつだ。
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2014年4月22日(火)その1609◇我が良き池よ
「小山ぁー、エビの血液型しってるかー!?」
「いや、知りたくもねえ」
「AB型に決まってるじゃねーかー、ダッハッハッ」
25年の歳月を費やし、池沢と私の間にはこれとまったく同じ会話が
少なくとも3百回は繰り返された。
連発されるその数の多さと、ドン引き間違いなしのお寒いクオリティを誇る彼の駄ジャレには、
室温を一気に5度ほど下げる勢いがあった。
私の駄ジャレも相当やばいが、池の足元には到底及ばなかったのである。
私の兄弟分、池沢俊男は十年前の五月に逝った。
突然の心不全だった。
49歳と1ヶ月。そりゃねえだろ。
絵に描いたような親孝行息子だったが、最後にとんでもねえ親不幸をやりゃがった。
大好きな酒を呑んだくれた後、眠ったまま苦しむことなく
逝っちまったことがせめてもの救いだった。
周囲の幸せが常に最優先でテメエのことはいつも後まわしの池ちゃんは、
地元(JR平井駅近辺)で有名なチャンコ屋「紫鶴(しず)」に集まる
常連仲間の中でも大の人気者で、底抜けに気性のいい男だった。
当たり前に女好きだが独身だった池沢に、新潟に住む私の連れ合いの妹を
引き合わせようとするプロジェクトが発足した矢先の急逝だった。
パセオ創刊の少し前、二十代半ばの頃は地元の仲間どもと
あっちゃこっちゃ遊びに出掛けたものだ。
写真右から2番目のデブが池沢で、その下にしゃがむバカ面がおれ。
浦安にディズニーランドが出来た頃にゃあ、
大晦日は皆してそこで年を越すのが定番だったことも想い出す。
そんな仲良しグループも、ご多分に漏れずそれぞれ仕事や家庭で忙しくなり
次第に皆で集まる機会も少なくなっていったが、なんだか池と私は不思議とウマがあって、
月に何度か紫鶴でチャンコと一升酒を喰らった。
共通の話題は駄ジャレと野球の話くらいのもので、仕事の話をした記憶はほとんどない。
向こうは長男、俺は末っ子、話題がなくても座持ちする、
お互い気疲れしない相性だったのだろう。
へべれけに酔ってエッチな店にもよく出掛けた。
私は生意気だったのでよく他の常連客にからまれたものだが、
そうした相手を巧妙に制止しながら、それでも乱暴沙汰になる場合は
身を挺して私をかばったのも池沢だった。
兄弟分と云ったが、尊大なくせして肝心なところではしまらない弟をかばう
実際の兄貴分は池沢だった。
学問上の教養はさておき、
実人生上の教養(強さと優しさ)は誰にもヒケを取らない野郎だった。
三十代後半、バブル期の建設会社で働く彼と、
当時フラメンコ協会設立に向けて動きはじめた私は、
ともに殺人的なスケジュールに追われながらも、
年に数度は紫鶴でチャンコと大酒を喰らう心地よい習慣を続けていた。
互いにとってそれは、唯一完璧に仕事からワープできるひと時だったのである。
忘れ得ぬエピソードは限りないがあの一件もそうだ。
フラメンコ協会の運営にのめり込みパセオの経営が相当危うくなってた頃、
いつもの二人会でおそらく私は浮かない顔で呑んでいたのだろう。
「ちょっと待ってろ」と、私を紫鶴に置き去りにして店を出た奴は、
しばらくして戻ってくるなり分厚い封筒を私に押し付けこう云った。
「どうせタンスで飼ってる金だから」・・・ゴンかっつーの。
事情を知らないはずの池沢だが、その洞察に曇りはなかった。
もちろん私はうれしかったが、それを断わるべき大きな理由が二つあった。
ひとつには、足りない金はハンパでない金額だったこと。
もうひとつは苦い経験だ。
過去に二人だけ親しい友人にまとまった金を都合したことがあり、で、
その二人はいまだ音信不通のままなのだが、もし、その金の貸し借りさえなければ、
ひょっこり私の前に現れるようなこともあったのではなかろうかと。
たとえこの俺が隅田川の青テントで暮らすことになっても、
年にいっぺんくれえはおめえと呑みてえんだ。そうするためにも
金のことは気持ちだけもらっておくよ、なっ、わかるだろ。
私は池沢にそういう話を一所懸命にした。
すると奴はにわかに泣きだした。
ほんとに泣きてーのは俺の方なんだが、俺のピンチを本気で泣いてくれるこのプーロな男に、
私はどんだけ力をもらったことかわからない。
池と最後に呑んだのは2004年の桜の終わりのころ、逝くひと月前のことだった。
いつもとは異質のハイテンションぶりに「できたか女?」と問うと、
このタコ野郎がマッ赤になりながら「まあな」と笑った。
なんだよ自力でいけるんじゃねえか、義妹のことは余計なお世話だったかと
私はよろこびつつも、実は得体の知れない不安に包まれていた。
今日もこのあと亀戸まで逢いに行くと云う。
ならばといつもより紫鶴を早めに切り上げることにして、私たちは同じ方向の電車に乗り込む。
総武線を西にひとつ、ものの3分で電車は亀戸駅に到着し、
「腰が抜けるまでやったれやー!」と、
池のドでかい背中を思い切りバーンと叩いて送り出した。
それが最後の別れとなった。
不思議なことに奴の背中を思い切り叩いた感触は、いまだに私の右手に残っている。
「オレだよ、池沢俊男だあ!」とフルネームで名乗るヤッコさんの大声が響いたケータイの、
その番号登録は十年経っても消せないままだ。
わかっちゃいるけどやめられない。
そのマヌケな大声を、今も私は心待ちにしているのだろう。
「あの世」を信じる私ではないが、「池が待つあの世」であるならそう悪くはない。
遅れて到着した俺の肩をバーンと叩きながら、我が良き池はきっとこう云う。
「早えじゃねえかー小山ぁー、エビの血液型しってるかー?!」
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2014年4月21日(月)その1608◇父の誤算
「雄二は、父さんの死に目には会えんな」
将棋のプロテストを受けたい。
中学生の私がそう父親に告げると、彼は幾分寂しそうに笑った。
もう半世紀近く昔の話で、
当時は「勝負師は親の死に目に会えない」というのが世の相場だった。
勝負師や芸人に限らず、あの頃の東京下町の仕事観というのは、
そういう感覚がわりかし普通だった。
お互い自立を覚悟できるし、子にしてみても親のありがたみを早くに知るから、
昨今の流行に比べても、それほど悪い文化とは思えない。
結局私はプロテストに失格し、父は63歳で他界した。
病院から家に戻った父の介護は、働く母と末っ子の私が半日交代で担当した。
大学五年の私は夜の場末のギター弾きだったから、
朝から夕方まで父を看ることができた。
死に水をとったのも私であり、
先見性に優れた父の期待と予想はものの見事に外れた。
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2014年4月20日(日)その1607◇ROJINNIKKI
春というのは記憶を刻むのに最適な季節だ。
結果はどうあれ、自分から動いた記憶というのは、
やがて懐かしい想い出として定着する。
悲惨な結果ほど後々の活用性は高く、
何の演出も必要なく死ぬまでギャクとして利用できる。
引越しのドタバタやコンピューター入れ替えのテンヤワンヤもひと段落し、
今日から山積みの実務にじっくり腰を落とす。
ジミ~な仕事が、逆に春の疲れを癒してくれることだろう。
五月六月にかけては、亀戸天神のふじ、根津権現のつつじ、
明治神宮や小石川後楽園や堀切菖蒲園の花しょうぶと、
ささやかながら大江戸散歩の楽しみがつづく・・・って、ほとんど老人日記かよっ!
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2014年4月19日(土)その1606◇残る桜も
3/23 エバ・ジェルバブエナ
4/2 FLAMENCO曽根崎心中
4/6 銀と金(カナーレス、レデスマ、森田志保)
4/18 ロシオ・モリーナ
公演本数こそ少なかったが、贅沢で濃厚な一ヶ月だった。
それにしても、この春はハシャぎ過ぎたな、まったく。
散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛)
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2014年4月19日(金)その1605◇究極の回答
「パーフェクト!」
「こんなのフラメンコじゃない」
「現代版カルメン・アマージャ」
「なんか違う」
「地球最高のダンサー」
終演後、いろんな声が聞こえてくる。
どれも正解だと私は想う。
昨晩の渋谷オーチャード、ロシオ・モリーナの新作、その世界初演。
空席の目立つ文化レベルをあざ笑うかのような快演。
「洗練され尽くした孤高」。
それが第一感だった。
フラメンコの伝統視点からはボロクソにこき下ろせるが、
アートの未来視点からは一晩語っても語り尽くせぬ魅力に充ちあふれている。
「フラメンコに何が出来るか?」
究極の回答がそこにあった。
37年前、まだ無名だったパコ・デ・ルシアがチック・コリアと共演した、
雷雨に見舞われたあの伝説の田園コロシアム野外ライブの記憶が生々しく甦る。
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2014年4月19日(土)その1604◇天然インテリ
「ひとつ質問してもいいですか?」
期待に胸が膨らむロシオ・モリーナの新作・世界初演。
渋谷オーチャードの入口前でバッタリ出食わすやいなや、
その美しい女性はそう云った。
「私は貴方のタイプですか?」という質問ならば
「はい、タイプです!」と即座に応えるつもりだったが、
あいにくそれは将棋に関する質問であった。
「将棋って負けた方が『負けました』って頭下げなきゃいけないんですか?」
どうやらプロ棋士とコンピューターの闘い(将棋電王戦)を採り上げた
最近のテレビ・ドキュメントを熱心に観たらしい。
「ああ、プロ棋士が公務員だった江戸時代からの慣習ではあるよな」
「私には『負けました』なんて、とても云えません」
彼女の云わんとするところは分かる。
なぜなら彼女は勝つまで闘い続けるタイプであり、
彼女の辞書に『負けました』は無いのだ。
高校教師を辞職してスペインに渡り、
帰国後新人公演で奨励賞を受賞した石川慶子。
その年もっとも印象に残る出演者だったのでパセオの『しゃちょ対談』に登場してもらった。
ソレア、シギリージャに関する彼女の卓見は衝撃的であり、
あのインタビューは傑作だったと今でも想う。
当然のように愛知からロシオ・モリーナ公演に駆けつける石川の、
あの天然インテリ全開ぶりが妙に眩しい。
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2014年4月18日(金)その1603◇ロシオの神髄
きょう明日は渋谷オーチャードで、注目すべきロシオ・モリーナ公演。
時に伝統美を否定するかのようにも感じられる未来的美性。
昨秋のロシオの来日公演は、ストラヴィンスキー『春の祭典』初演時
(舞台美術はピカソ)の悲惨を想起させた。
フラメンコの英雄アントニオ・ガデスやカマロン、
そしてパコ・デ・ルシアが頭角を現した折も、
当時のスペイン・フラメンコ界は同じような冷たい反応を示した。
彼らを支持したのは主に諸外国の一般舞踊・音楽ファンである。
そうした保守傾向は、スペインよりむしろ日本において強い。
何たるトホホ、何たる屈辱。
おれたち〝大衆〟にだって、ちゃんと二種類あるのだ。
だが、それでいいのだと思う。それが普通なのだと想う。
アートの淘汰ラインは気違い沙汰だ。
そしてそれが人類の歴史だ。
だが俺は、ほんとにそれでいいのかと私に問う。
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2014年4月17日(木)その1602◇三手の読み
「三手の読み」。
囲碁や将棋の基本テクニカにこんなのがある。
こっちが一手目を指し、向こうが二手目を指す。
それに対する三手目をこっちはどう指すべきか?
そこまで考え逆算から一手目を指すのが「三手の読み」だ。
(1)局面によって何十・何百の選択肢の中から、例えば3パターンの良さそうな初手を選ぶ。
(2)自分が選んだその3パターン(A/B/C)の初手に、相手がどう対応するかを検討する。
ABCそれぞれに対するやはり3パターンずつ合計9パターン、
相手にとっての最善手を考えるわけだ。
(3)相手が指すであろう9パターンのそれぞれに対して、
やはり3パターンずつ合計27パターン、自分にとっての最善手を考える。
(4)最後に、3手先の27パターンの可能性の中から、
自分が勝つために最善と思われるパターンをひとつ選ぶ。
で、1手目のABCに戻り、そのパターンを発生させるであろう1手目を改めて選ぶ。
勝利の方程式=ヴィジョンからの逆算。
乱暴な説明だが、これがいわゆる「三手の読み」だ。
1手目=3通り、2手目=9通り、3手目=27通りと、合計39手読むことで初めて1手指せる。
頭の中でそろばんの暗算の要領でこれをやるわけだ。
実際には10手先・20手先まで読んだりするので、その変化手順は膨大な数となるが、
この「三手の読み」さえしっかりしていれば、どこまでも成長できるというシステム。
こうした基本テクニカを仕事や人間関係に有効に反映できれば、
さぞがし人生は明るかろうと思われる。
しかるに私(将棋六段)の人生がちっとも明るくならない現実は極めて不可解である。
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2014年4月16日(水)その1601◇ステージの華
「マルティネーからシギリージャへ。
このとき荻野リサの視点が変わる。
不思議な視点の動きだ。
あえて表現すれば盲目の三味線弾きのごぜのようなまぶたの動き。
エバ・ジェルバブエナが目隠しをして外界を遮断したように、
彼女はあえて自らを盲目にしたかのようだ。
踊ることで、身体の内部の奥深くに隠されている宝物を探すために。
深く内省的な視線は、ソレアからブレリアになったときに大きく変化する。
内に向かっていた視線は、しっかりと外界を捉え、光を宿す。
ここで私たちは、いつの間にか荻野リサの踊りによって・・・」
月刊パセオフラメンコ5月号「公演忘備録/荻野リサ ソロライヴ」(文/白井盛雄)より
その〝ステージの華〟は、二十世紀末の花形スター碇山奈奈を連想させる。
私は多忙でライヴを見送ったが、この忘備録からは
荻野リサのあのアイレ満タンのフラメンコが目に浮かぶようだ。
執筆担当の「まに(白井盛雄)さん」は昨年ミクシィ上でスカウトした。
彼の視点の広さ、深さ、暖かさには一級品の薫りがあって、
書けば書くほどに冴えを増す昨今の進境をびっくりマナコで見張っている。
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