フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

楽しいバッハ歴 [211]

2008年05月20日 | アートな快感




 

          楽しいバッハ歴

 



 

 キリストさまによる「西暦」は世界共通なのでとても便利だ。
 ただ、音楽全般を時間的に俯瞰しながら感じたい時などに、多少の不便を感じることもある。
 そんなことを想ったある土曜日、代々木公園のドッグランにジェーを遊ばせながら、この問題を一挙に解決する“バッハ歴”なるものを私は思いついたのだった。



         



 それ以前の音楽を集大成し、それ以降のあらゆる芸術ジャンルにいまも確固たる影響を与え続ける大バッハ。
 超天才インプロヴァイザー(即興演奏家)だったバッハは、少年時代から最も親しみなじんだ作曲家だ。
 そして、インターナショナルな音楽の多くがそうであるように、現代フラメンコもまた(多くはジャズ経由など間接的であるにせよ)バッハから大きな恩恵を蒙っている。

 そのバッハの生まれ年、つまり「西暦1685年=バッハ歴ゼロ年」とすることで、他の大好きな作曲家との時間的な距離間隔を眺めやすくしよう、感じやすくしようとするのがここでの私の意図である。
 で、試しに、私の暮らしを日常的に豊かにしてくれる最近の作曲家マイベスト20を、そこに当てはめてみたのが以下のラインナップだ。
 もちろん、そのほとんどは当時の革新的前衛作家たちである。

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☆バッハ生誕以前を(BB=ビフォー・バッハ)で表示

(BB122年)ジョン・ダウランド(イギリス)
(BB032年)アルカンジェロ・コレルリ(イタリア)
(BB017年)フランソワ・クープラン(フランス)
(BB007年)アントニオ・ヴィヴァルディ(イタリア)

(AB000年)ヨハン・セバスティアン・バッハ

☆バッハ生誕以降を(AB=アフター・バッハ)で表示

(AB071年)ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(オーストリア)
(AB085年)ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(ドイツ)
(AB148年)ヨハネス・ブラームス(ドイツ)
(AB155年)ピョートル・チャイコフスキー(ロシア)
(AB167年)フランシスコ・タレガ(スペイン)
(AB191年)マヌエル・デ・ファリャ(スペイン)
(AB194年)滝廉太郎(日本)
(AB201年)山田耕筰(日本)
(AB206年)セルゲイ・プロコフィエフ(ロシア)
(AB217年)ウィリアム・ウォルトン(イギリス)
(AB236年)アストル・ピアソラ(アルゼンチン)
(AB247年)フランシス・レイ(フランス)
(AB260年)キース・ジャレット(アメリカ)
(AB262年)パコ・デ・ルシア(スペイン)
(AB270年)関係ねーけど(日本)
(AB280年)マイテ・マルティン(スペイン)

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 実際にやってみると、これがチョー面白え。
 バッハという絶対値(0)を軸に、他の好きな作曲家たちを生誕年(±何年)で眺める。
 バッハと各作曲家の時間的距離、また各作曲家同士のそれが実につかみやすくなってる。
 モーツァルトにとってバッハは祖父の年代だったとか、ベートーベンにとっては曽祖父みてえだったとかが一目瞭然となるのだ。

 これによって、自分の好みに対する分析がしやすくなったし、まだ本格的には聴いてない気になる作曲家に効率よくアプローチする便利も生じた。
 音楽を米の飯のように愛する私にとって、この俯瞰方法は歴史的快挙と云っていいだろう。
 それがどーしたというブーイングの嵐が聞こえてくるようだが、それがどーした。

 例えば、春のうらら隅田川の「花」、春高楼の「荒城の月」、はっこねっの山は天下の嶮の「箱根八里」、などで有名な滝廉太郎。
 同胞の中で私が最も好きな作曲家で、明治時代に22歳の若さでドイツに国費音楽留学したお方だ。
 バッハ歴194年生まれとなる彼は、留学先の本場ドイツで当然、バッハの薫陶を多く得たことだろう(嗚呼、その二年後に他界とは……)。
 で、タキレンの三年前にフラメンコでもお馴染みのファリャが生まれていたことも今回初めて認識した。
 知的興奮を求めて時おり発作的に聴くプロコフィエフがAB206年生まれで、タキレンよりひとまわりも若かったんだなどと、どーでもいいことに感動を覚えたりもする。

 

 BB122年からAB280年まで。
 音楽好きを称したところで、たかだかこの400年ばかりの音楽しか聴いてない自分にも気づいた。
 それにしても、(それ以前の先人の功績を忘れてはならねえけども)わずか400年にして、この圧倒的にして絢爛豪華永々無窮な実りを成し得た事実を、いったいどう讃えたらよいものだろう?!
 棲んでる星まで壊しちゃう勢いの、最近何かと問題を起こすことの多い人類全般だが、こうした側面を眺める限り、やはり人類は偉大な宇宙人なのだな、という感慨に捉われざるを得ない。

 人は誰しも厭世的になる性分を持つが、地域や民族や時を超えて、全人間を肯定的に捉えられる瞬間が、私個人のケースで云えば、こうした音楽にひたすら浸り、生きる悦びをひたすら感じる瞬間なのだな、とつくづく想う。
 極端に云って神は、セックスして子孫を残せという本能のみを私らに与えた。
 このセックス好きな地球人がここまでアートやんのかいっ、アーッとドン引きしながらボケる神の姿をときおりイメージする私に宗教を信じる資格はない。



               



 で、ま、そんな調子でなるほどフンフンと悦に入りながらこの表を眺めていると、突然あることを私は発見した。
 まずは、AB260年に即興ピアノで名高いキース・ジャレットが生まれ、その20年後のAB280年にフラメンコのあのマイテ・マルティンが生まれた点。
 さらに、その丁度まん中のAB270年に私ことパセオあほ社長が生まれてる点に注目してほしい。ただし、その8年前にパコ・デ・ルシアが生まれていることには特に触れない。

 さて、これら事実を並べて注意深く検証すると、ある衝撃の真実が浮かび上がってくる。
 音楽に詳しい読者ならば、もうとっくにお気づきかもしれない。

 AB260年(キース・ジャレット)
 AB
270年(私)
 
AB280年(マイテ・マルティン)


 そう。
 そこには別にこれと云った何の法則も因果関係もなく、ちょうどキリのいい数字だったね、よかったね、という実にサバサバした結論が残っただけである。……

 

 さ、気を取り直したところで、どなたか。
 バイレをカルメン・アマージャ、
 カンテをマヌエル・トーレ、
 フラメンコギターをラモン・モントージャあたりで、
 それぞれ何とか元年にして、こんな風に楽しんでみるのはいかがか?って誰がやんだよまったく。


 

 


                





 

 

 


ギャンブル [210]

2008年05月19日 | 超緩色系






            ギャンブル




 

 こう見えても私は元勝負師である。

 高校・大学を出れたのはその経済的成果に負うところが大きいが、学力が実質的に中卒止まりであるのも同じくそれに拠るところが大きい。
 だから随分昔の事とはいえ、“勝負”というものについてはそれなりの心得があるつもりだ。


 もしあなたが私の教えに忠実に人生を勝負するつもりなら、1000回する勝負のうち、確実に3回は勝つことができるだろう。
 現にこの私がそうだったのだから、これはかなり堅実な数字と云える。

 「実力に比べりゃ勝ち過ぎだろう」
 「いや、単なるマグレだ」
 というのが私に対する周囲の評判だが、そんな誹謗中傷に挫ける私ではないし、また、当たってるだけに言い訳は難しい気がする。
 ただし、私の教えの逆を行けば1000回のうち997回は勝てるのだから、やはり私は占い師かなんかを志す方が無難なのかもしれんとも思う。

 

 

              




 そんなこんなで、この三十年あまりはいわゆるギャンブルとは無縁の生活を送っている。
 ギャンブル自体を嫌いなわけのない私だが、それでもやらない理由は大きく二つある。
 ひとつには、負けるとわかってる勝負に興味が持てないということ。
 そう、同じ勝負師でも私は弱いタイプの勝負師なのだ。

 もうひとつは、創刊当初ハイリスク・ノーリターンもしくはノータリンと正確に酷評された私の職業の宿命たる、そのギャンブル性の高さである。
 実際には途切れることのない地道な作業の連続なのだが、こうした業種ゆえ毎日がギャンブルみたいなもので、とてもじゃないが競馬・パチンコ・麻雀・カードなどの優雅な賭け事に金や気持ちを注ぎ込む余裕もないのが実情なのである。

 ただ、どちらもギャンブルであることに変わりはなく(では、恋愛や結婚はどう位置する?)、異なるのは達成感の質くらいのものだろう。
 いや、「負けたら負けたで仕方ねえ」とつぶやく心情の色合いもビミョーに異なるかもしれんな。


 さて一方で、若き日の私が、幸運なことに一定の労働に対して安定した報酬を得るような仕事をもしもゲット出来てた場合、そうした安定の反動から不幸なことにギャンブルで身を持ち崩していた可能性は約100%であろうと推測できる。

 さあ、してみると、「出版」「自営業」「フラメンコ」という、各々いかにも危なげなキーワードを組み合わせた仕事に結果的に導かれたことは、20代の私が将来の私を案じたがゆえの、数十年先を読み切ったしたたかな長期戦略の成果だった可能性がある。

 ううむ、だとすれば恐るべし若き日の私よ、君にそのよーなすばらしい先見性があったとは!
 いまの私としては、君にそんな可能性や先見性はまったくなかった方に迷わず全財産を賭けて、スッテンテンになる直前の君から有り金すべて巻きあげてやりたいところだ。

 





 

 



 


マリア・パヘスを語れる人 [209]

2008年05月10日 | アートな快感





         マリア・パヘスを語れる人

 

 

 




 きのうマリア・パヘス「セルフ・ポートレート」を観てきた。
 今日は小島章司「越境者」を観て、明日またマリパヘ「セビージャ」を観る。
 こんな信じがたい幸運が当たり前のショーバイだから、滅多なことでは止められんのだと思う。

 さて、まだお会いしたことはないが、私が敬愛する才能の持主“とんがりやま”さん(←たぶん本名ではない)が、マリア・パヘス兵庫公演のレビュー(↓)をご自身のブログに書いておられる。

 
http://www.tongariyama.jp/weblog/2008/05/22008_1203.html#more



 なんという、的確にして、愛と誠に充ちたレビューなんだろう。
 ただうれしく読ませてもらいながらも、いろんな意味で私は赤面した。
 本当の意味で「マリア・パヘスを語れる」人は少ないが、とんがりやまのそれは間違いなくマイベストだ。








ポル・ソレア [208]

2008年05月02日 | フラメンコ

 






               ポル・ソレア

 

 



          





 アリのように働き

 キリギリスのように遊ぶことで
  
 アスへの活力は生まれる。

 しかし人生はままならない。
 キリギリスのように働き、アリのように遊ぶ私。


 何かがタラント思う。
          
 あるいは日常に“詩”が欠如しているのか。



 詩を感じるならギリシャものね、と彼女が歌う。
             
 シギリシャ、と云いたいのかもしれない。
              

 だいたいからして単語がわからん。


 私がぱくつくコシ餡とみたらしを欲しがるジェー。
     
 ワン団子で吠えるバ
          
 
おそらくそんな意図だろう。


 ソレアないなと私はつぶやく。




                  (作者不肖

 

 

 

 


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ある春の詩 [207]

2008年05月01日 | 四季折々






                     ある春の詩


 

 

 

 

         ある春の午後。

    あれこれ懐かしい想いに浸るひととき。

        ふと口ずさむあの詩。

 

 

 





    みっちゃんみちみち うんこたれてえ

    紙がないから 手で拭いてえ

    もったいないから ナメちゃったあ

               (作者不詳)

 






 

               作者不肖 ではないかと私は思う。