秀さん
1コンパス12年にわたり通い詰める、私の愛する隠れ家的呑み屋“秀”。
この間、週3日としても2000回近く通った勘定になる。
そのオーナーシェフを秀さんと云う。
梅宮辰夫さん、中村玉緒さんら食通たちもこぞって通うほどの料理名人である。
やんちゃで茶目っ気もあるが、なにより優しく頼もしい大人で、俳優のメル・ギブソンに雰囲気が似ている。
とーぜん女どもにもモテたが、男どもにもモテた。
グチを嫌いユーモアを愛し、いつも明るく前向きで、誰からも好かれ認められる超一流の仕事人。
秀を知る者は、みな一様に彼の気取らぬ人柄と腕前を慕い愛した。
ちょうど一週間前、8月28日の早朝に、秀さんがなくなった。
深夜に自宅で倒れ、病院に担ぎこまれたが、すでに施しようはなかった。
手術後、入退院を繰り返していたが、可能な限りカウンターに立ち、死の数時間前まで訪れる客に愛情のこもった極上の料理を創りつづけた。
覚悟はしてたが、現実はやはり別物だった。
私より5歳上の58歳だった。
しばし平衡感覚を失い、泣きながら仲間たちにその旨を電話で伝えた。
「小山さん、これやっから、大事に使えやっ」
別れの三週間くらい前のことだった。
元気さを装う笑顔の下に末期ガンの苦痛を抱える秀の店に、前以上の頻度で通ってた。
板前の魂とも云える包丁の一本を、その日秀さんはこう云いながら私に与えた。
料理好きの私にはチョーうれしいサプライズであるにもかかわらず、嬉しそうな顔を維持するために、むしろ私の顔は何度もひきつっていたと思う。
それが形見分けであることを、いかに鈍感な私と云えども、その瞬間に気づいた。
どれぐらいもつのか?
それがわかったところで何もできねーなら考えるのはやめろ、いつもと同じように通うしかねーだろ。
家に戻った私は、すぐに冷蔵庫にあった肉の塊でその切れ味を試し、翌日その結果をはしゃぎながら報告すると、秀さんはうれしそうに笑った。
ブタに真珠と云えども、名人の愛した包丁の使い心地は実際最高だった。
秀さんは福島いわきの出身。
小学一年の頃から納豆なんかを売り歩いて小遣い稼ぎをしてたという。
料理の腕前はその当時から一丁前だったらしい。
やはり天職だったのだ。
高校を出るや、料理人として貿易船に乗り込み、七つの海を駆け巡る。
時おり話してくれるその頃のハチャメチャな武勇伝にはハラを抱えて笑ったものだ。
船を降りてから、向島の料亭で本格的な日本料理の修業をはじめた。
秀さんのベースは懐石料理だったが、その本領はイタリアン、フレンチなどの技法を採り入れた創作料理にあった。
フラメンコをベースにジャズやロックを咀嚼吸収し、さらに再構築~創造することで、世界中にフラメンコギターの魅力を知らしめたパコ・デ・ルシアのような料理だよと云っても過言ではないが、時おり暴発する下ネタがその総合評価をイッキに下げていたと云ってもこれまた過言ではないだろう。
この12年の間に二度ほど、秀にダメ出しを喰らったことがある。
嫌な雰囲気を醸し出しほかの客に迷惑をかける人に対し、私はひどく冷酷だった。
そうした相手に、ただのひと言で息の根を止めるような辛辣な言葉を浴びせたことがある。
そのあと、二人だけで話せる機会を待って秀さんは私にこう云った。
「いかな相手でも、あそこまで云ってはダメだ」
店全体のことを考えイヤな役目を買って出たつもりの私だったから、最初にそう云われた時は、何を理不尽!と思い、そう云い返した。
しかし、二度目に同じことをやんわり云われたとき、秀さんが、もっともっと大きな調和をヴィジョンとしていることに気づいた。
そのことの意図する豊かさのわからぬ歳でもなかった。
以来私は、怒りの頂点に達した自分が発する猛毒を棄て、相手の急所をはずすトホホな罵倒方法をおぼえた。
7月半ばに秀さんを囲む呑み会をセッティングしたのは、私にしては上出来だった。
何となく察していた十人ほどの仲間は"あ・うん"で集まり、秀さんを真ん中に据えて下北沢の鮨屋で呑んだ。
少し気まずくなってた友も仕事をキャンセルして駆けつけた。
肴の注文を引き受け、全開の笑顔で終始うれしそうに冷酒をやってた秀さん。
今また、気を利かした後輩の撮ったその集合写真を眺める。
生涯にそーオイソレとは訪れない、皆して笑いこけ続けた、利害のない、心だけでつながる、あの深い想いに充ちた美しい呑み会の光景がよみがえり、心の鳥肌がとまらない。
そうした現象の源が、秀の放つオーラにあったことを改めて深く認識しなおす。
残る命を惜しむことなく、往く数時間前まで板場に立っていた彼に想いを馳せる。
“プライド”のほんとうの意味とか価値について考える。
月を見上げて泣くスッポンよ。
おめえもあんな風に生きてーなら、もーちょいしゃんと生きてみんかいっ!