ガツンと一喝 (フェルナンダ・デ・ウトレーラ ①)
「こらーっ、しっかりせんかーっ!」
イカズチ(神鳴り)のごとき一喝に、
「はっ、わっかりましたあ」と、私の心はすかさず土下座だ。
炎の大カンタオーラ、フェルナンダ・デ・ウトレーラさまのご降臨である。控えよ、頭が高~い!
『フェルナンダ・デ・ウトレーラ/おんなうた』
(EMI/2001年)
社長業をやってると、陰ではボロクソ云われても、面と向かって叱られる機会はそう多くはない。
一方で私の場合、本来の実力からすると、世間さまから一日中叱られ続けてもおかしくないレベルの人間だ。
この深刻な矛盾は、最悪の結果を招くシチュエーションそのものである。
惜しくもそういう自分であるため、どういう形であれ、時おり外側から「ガツンと一喝喰らう」ことは実に新鮮な刺激であり、また、心情的にも実にしっくりくる必要不可欠な栄養補給なのである。
「フェルナンダの一喝」は、パセオという会社の倒産防止装置と云えるのかもしれない。
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「ガツンと一喝」が必要なのは、例えばこんな時だ。
「壁にブチあたる時」というのは、一般的に云って「次のステップに進むためのチャンス」のことである。私もそう思う。
しかしながら、当然あの「産みの苦しみ」をともなう。それは別名「人生の醍醐味」と云うのではあるのだが……。
そんなことはわかっちゃいるが、苦しいものはやはり苦しい。
だから思わずひるんだり、逃げ出したくなったりもする。
そういう腰の砕けた自分に喝(かつ)を入れたくなった時、畏れ多くもご登場いただくのがこのフェルナンダさまというわけで、これはここ数年来のお決まりパターンとなっている。
いやはや、そのたんびに仰天するのは、天から投げつけられて地面に突き刺さるような、そのストレートな烈しさだ。
凄まじい効力なのである。
ただし、あまりにも効果テキ面なので、そうそう多用は出来ない。私には、そう、月イチくらいがちょうどいい。
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そんなわけで私の場合、フェルナンダを聴き始めるには、それなりの覚悟が必要だ。
その強烈なエネルギーが、その日の私にとってプラスに作用するのか?、逆にマイナスに作用するのか?、それを聴きに入る前の時点ではまったく予測できないからだ。
フェルナンダが耳に飛び込む瞬間、魂をむき出しにするその炎のカンテは、私の心のド真ん中にダイレクトに到達する。
その刹那、情けないことに毎度私はたじろぎそうになってしまう。だが、これを受け止めることができなければ俺は単なる生ゴミだぞ、と自分に云い聞かせつつ何とか踏みとどまろうとする。
わずか一瞬のめまぐるしい攻防……。そして、踏みとどまるメドがついた瞬間、そこで初めてフェルナンダのエネルギーは私の中で完全にプラスに転じるのだ。
そして、何曲か聴き進むうちに、私の中には自然と濃厚なパワーが充電され、未解決な“ブチあたり中の壁”に向かって、猛チャージをかけたくなる気力がみなぎってくるのだ。
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人々の内面にこうした現象を引き起こすのが、アートの主要任務のひとつなのだと思う。
もの凄いアートに触発もしくは鼓舞された結果、私の果敢なチャレンジは失敗に終わるケースがほとんどであるが、それでも十年にいっぺんくらい成功することもある。
これまでの生涯、1000回以上マジで勝負して、少なくとも三回は勝っているのだ。
私の実力をよく知る連中は口をそろえて「運が良すぎる」と心底あきれてみせるが、そんなことはおーきなお世話だ。
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さて、実は「フェルナンダ十数年の空白」が、私にはあった。
二十代最後にはじめて聴いたフェルナンダのその強烈すぎる一撃に、私という軽々しい人間がただの一発で吹き飛ばされてしまったことを、つい昨日のことのように想い出す。
ビリー・ホリディやエディット・ピアフ、さらにメルセデス・ソーサやマリア・カラスなどで鍛え抜かれたと思い込んでいた私の耳は、実際にはまるでデクの坊だったのである。
だからこそ私は、その『カンテの真情』というLPレコードを数ヶ月聴きつづけた。
バッハとパコ・デ・ルシアを座標軸に世渡りしてきた私にとって、それは人生設計を揺るがすような“大事件”だったのである。
ところがある日突然、その理由はいずれ又としたいが、その大切なフェルナンダのレコードを私は封印することになる。
(つづく)