フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

地中海の舞踏 [その265]

2009年04月28日 | アートな快感


 



 

              地中海の舞踏




 
 [パコ・デ・ルシア/アルモライマ] 




 これは、まさしく宗歩の1八角!


 ジャンルを超えるスーパー・ギターデュオ『地中海の舞踏』!
 この世紀の名セッションに鼻血を飛ばさないギター少年はひとりもいない。

 片や、フュージョン系・国際的人気ギタリスト、アル・ディメオラ。
 片や、フラメンコギターの神さま、われらがパコ・デ・ルシア。
 『地中海の舞踏』は、ディメオラのアルバムに、彼のオファーでパコ・デ・ルシアが1曲だけ単身参加した、LP『エレガント・ジプシー』のチョー目玉的1曲だった。
 パコがアメリカに赴き、ほとんど即興一発でキメたという伝説のレコーディング。
 つまりこれが、後にラリーやマクラフリンを巻き込み、世界中を熱狂させることになる、あのスーパー・ギター・トリオ誕生の布石だったとゆーわけだ。


 
 [アル・ディメオラ/エレガント・ジプシー CBS 1977年]


 後に、この名曲『地中海の舞踏』を含むパコ・デ・ルシアのフラメンコギター楽譜集を、めっちゃめちゃ高い版権使用料を支払ってパセオから出版した。
 世界のギター少年が待ち望むこの楽譜集の発行によって億万長者になったろうという壮大なロマンは、元金も回収できぬまま絶版となる哀しい現実に敗北したものの、自分が欲しくて欲しくて仕方のなかった『地中海の舞踏』の楽譜だけは手元に残った。
 これがショーバイの基本なのである、ってホントかよっ(TT)。
 当時のパセオ編集長Sがパコのギターパートを、社長の私がアルのそれを担当し、締切前のパニックの合間にそのギターデュオをよく練習したものだが、それは音楽とゆーより“音が苦”に近いものだったと、当時の関係者は一様に証言する。


 

 「パコ・デ・ルシア アルバム/編曲:飯ヶ谷守康、加部洋/パセオ1990年」


 さて、ギター弾きなら誰しもが夢中になったこの『地中海の舞踏』。
 初めてこの名演を耳にした時の驚愕こそが、冒頭のワケわからん私のセリフにつながる。
 「これは、まさしく宗歩の1八角!」
 (↑)な、なんのこっちゃい?

 『地中海の舞踏』を聴いて、この『1八角/遠見の名角』を連想することは、ヘボギターとヘボ将棋の二重苦をあまり苦にしないタイプの好青年(当時22歳の私)だからこそ可能だった美しき妄想だったのである。
 後にフラメンコギターの魅力を世界中に知らしめることになるこの国際ガチンコ名勝負『地中海の舞踏』の放つ異形な輝きは、今から153年前、時の最高権力者の前で指され、遠く未来にまで影響を及ぼすことになる宗歩の『1八角』の放つ異形な輝きに実にまさしく酷似していたのである。


 

   [1856年11月/江戸城・御前将棋にて/伊藤宗印 対 天野宗歩]


 この局面こそが、将棋界のパコ・デ・ルシアと称される(←たぶん私だけそう称す)お江戸のスーパースター天野宗歩が、百年に一度の歴史的名手『遠見の名角/1八角』を放った世紀の瞬間である。
 後に第九世名人となる天才伊藤宗印(現代の羽生善治名人は第十九世名人)を大天才宗歩がこてんぱにKOした将棋で、有段者なら誰でも知ってる有名な局面だ。
 敵陣(他ジャンル)に殺到する拠点たる5四歩の存在は、勇猛果敢なフラメンコの使徒パコ・デ・ルシアそのものであり、1八の地点から左斜め上方のパコを全面支援する遠見の名角の存在は、まさにフラメンコの神そのものではないか。
 って、誰が知るかよそんなこと。


 

     [棋聖 天野宗歩手合集/内藤國雄九段著/木本書店発行]


 さて、学生時代にプロをめざした修業時代の私には、技術書で現代将棋を研究しつつ、詰将棋やシンケン(賭け将棋)で鍛える一方、江戸、明治、大正、昭和にかけての一流プロの棋譜(指し手の記録)を喜々として学んだ時期があった。
 音楽と体育と保健体育を除く学校の授業は、頭の中で詰将棋を解いたり棋譜を並べたり、または夜の勝負に備えて熟睡するための貴重な時間源だったことも懐かしく想い出す。

 明治維新前、将棋の名人家が幕府公認の家元だったころ、とりわけその幕末の大棋士、棋聖とも称された天野宗歩(あまの・そうほ)は私の憧れのアーティストだった。
 あまりの強さに実力13段と恐れられた宗歩は、世襲の家元派閥には属さず、主に賭け将棋や弟子筋(武士や豪商など)に対する将棋指南で生計を立てつつ、名著『将棋精選』なども出版した、孤高のアウトロー的存在だった。
 この遠見の名角『1八角』に代表される宗歩の独創的優秀性は、その後大きく発展を遂げた近代将棋の礎となったばかりでなく、現代の超一流プロ棋士たちにも大きな影響を与え続けているのである。

 棋聖宗歩が遠山の金さん(左衛門尉景元)らと共に永眠する東京・巣鴨の本妙寺には、ふと何かの構想をまとめたくなる時など、今でも都電に揺られてブラり訪れる。
 酒豪だった彼の墓に、日本酒を供え手を合わせると、また来たのかこのヘボが、という無遠慮な声が聞こえてくる。
 ……そう、まさしくそのとーりだす。
 ヘボだからこそ、あんたのインスピレーションをこっそり盗みに来るんだす(TT)。


 
 
[東京・巣鴨の本妙寺/棋聖 天野宗歩、ここに永眠す]


 天野宗歩とパコ・デ・ルシアに共通するものは、明快にして巨大なそのヴィジョン、そして、それを実現するための果敢なアドベンチャー精神である。
 その第一歩をめざし、男の子なら誰でも一度はやってみたいと思うのが、このパコ・デ・ルシアの『地中海の舞踏』であり、また、天野宗歩の『遠見の名角/1八角』なのである。

 思えば、パセオフラメンコ創刊から25年の間に、幾たびこの『1八角』をイメージした次の一手を敢行したことだろう。
 そして、それらすべてが玉砕の一手として、はかなく散ったことは記憶に新しい。
 現在では、それがどーした、と開き直れるほどに成長した私だが、ほんとうを云えば、死ぬまでに一度でいいから、勝負どころの局面でこの『1八角』を駒音高く盤上に打ちつけ、未来への布石を堂々築くことを、今も虎視眈々と狙い続けているのである。





                 
                          
[パコ・デ・ルシア/熱風]

 

 


週末はピリス [その264]

2009年04月27日 | アートな快感







              週末はピリス

 



 マリア・ジョアン・ピリス。

 マルタ・アルゲリッチと地球のピアノファンを二分する人気女流ピアニスト。
 どちらもマリア・パヘスみてーなレベルなんだよ、と云ったらわかり易いだろうか。
 彼女のモーツァルトにハマり、高校時代からずっと聴き続けている。
 もう37年も聴きつづけていることになるのか。
 聴くのが恥ずかしかったショパンを、普通に聴けるようになったのも彼女のおかげだ。


  


 面識はないのだが、幾度か電話でお話しした俳優の森本レオさんとの話題には、なぜかいつもピリスが出てきた。
 「彼女は一度地獄を見たんだよ」
 ピリスの芸風が急変した時期の演奏を、レオさんはしきりに語りたがった。
 あのピチピチだったピアノが、凛としながらも深く内省的な演奏に激変したことは、ファンの間でもかなり大きな話題になったことを思い出す。
 私には理由はわからないが、だからアートは面白い。
 がんばれつよし!って関係ねーけど。

 今週金曜はすみだトリフォニーで、ピリスのコンチェルトの夕べを聴く。
 なんと、ピリスの協奏曲は初めてなのだ。
 プログラムはベートーヴェンのピアノ協奏曲の第2番と第4番。
 第4番の人気は、近ごろ“皇帝”を抜いたとも聞く。
 私は颯爽とした5番(皇帝)と迫力満点の3番を好むが、ピリスだったら何番でもかまわないし、もとよりプログラムは何だっていい。

 合間には、パヴェル・ゴムツィアコフがシューマンのチェロ協奏曲を弾く。
 めろめろにロマンティックでデートなんかには最適の名曲だが、あいにく私は独りで聴くのが好きだし、また一緒に聴いてくれる博愛女性ボランティアも皆無だ。
 共演は高関健指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団。
 
 つーことで、現在は週末の遠足を夢見る小学生気分。
 おやつは300円まで。
 ただしバナナとゆでたまごはこれに含まない。

 

 

                             

                 

 


芸の肥やし [その263]

2009年04月23日 | 超緩色系






          芸の肥やし




 草なぎ剛さんは、私の好きな役者さんのひとりだ。

 「ハダカで騒いで逮捕」という朝のニュースには驚いたが、若い私もそうであったように、なぜか男は酔ってハダカで騒ぐのが好きなのだ。
 とっつかまったことはないが、それで惚れた女に逃げられたことが十回はある(TT)。


 「大ヤバ系でなくてよかったあ」

 かつて『笑っていいとも』の本番で、草なぎ剛さんにフラメンコを教授したことのある連れ合いは、そう云いながら胸を撫でおろした。

 私たち一般人に出来ない夢を代わりに実現してくれるアーティストたちに、可能な限り一般モラルを押し付けたくない私としても、内心、この程度でほんとによかったあと、むしろホッとしている。

 「芸のレベルに比例して、立派な人間であってほしい」という願望とはまた別にある、「芸のレベルに比例して、ハチャメチャなプレイベートは容認される」という私の心のバロメーターは、剛がんばれっ!と叫ぶ。
 秀でる芸人を「大目にみる」戦略は、古来からの日本の優れた文化だしさ。

 このピンチを飛躍への突破口ととらえる彼が、この先、さらにひと回り大きなアーティストとなって、私たちをいっそう楽しませてくれることは、まずまつがえのないことだと、ひとり私は予測している。

 

 

 

              

 


 


バロメーター [その262]

2009年04月21日 | アートな快感







             バロメーター

 

 

 「アートの仕事がしたいんなら、バッハだけはきっちり押さえといた方がいいよ」

 万年学級委員だった五つ上の従兄弟の勉あんちゃんは、高校生の私にこう云った。
 昨年の法事の席で、あのひと言でオレ助かったよと礼を云うと、すでに後光のまぶしさではあのザビエルを軽々と超える勉あんちゃんは、そのエピソードをまったく覚えてなかったが、そーか雄ちゃんが生きてんのはオレのおかげだったか、じゃあとりあえず今度寿司おごれ、目が回らないやつでさっ、と私を恐喝した。

 若い頃に、自分が好感を持つ人から自分に向けて発せられる言葉というのは、案外に強烈な影響を及ぼすものなのかもしれない。
 勉あんちゃんの冒頭のひと言で、私のバッハ好きには相当の拍車がかかったはずだ。


               


 かつてはギターやリコーダーで自らバッハをプレイしたこともある。
 テクニックとリズムと音色と解釈と音楽性と暗譜の問題などを除けば、そんなに悪い演奏ではなかったと思うが、私がバッハを練習する時には、誰も私に近寄ることはなかったことを思い出す。
 ついでに、他の曲を練習する時にも、誰も私に近寄ることはなかったことを思い出す。

 本格的にバッハを聴きはじめたのは高校時代だから、そっちの方はすでに40年近い年季が入ってる。
 その当初から、バッハ関連のライブや楽譜・書籍やレコードに使った金だけはハンパじゃなかった。
 自らそれをハイレベルに体現できない以上、その道の専門家を縁の下から支えるのはファンの使命だと思いたい、ギブ安藤テイクな私なのである。
 そのためによく働いたし、よくメシも抜いた。


             


 ヨハン・セバスチャン・バッハ(ドイツ/1685~1750年)。
 単純に生理的に好きなのだが、もちろんそれだけではない。
 この音楽をバックボーンに生きる限りは、いっくら世の中が厳しくてもそう簡単にはくたばらねーぞ的に、チキンなハートの内側に、じんわり勇気が湧いてくる感触がいかにも頼もしかった。
 また、日常的にバッハとふれあうことには、いつでも危なっかしい私が人の道を踏み外すのを辛うじて回避させてくれるお守り的効果もあったかもしれない。

 NASAが異星生命体との交信用メッセージとして選んだバッハの音楽は、数学的であり、かつ文学的であるとよく評される。
 数学と文学の行き着くところは結局は一緒なんだと誰かが云ってたが、バッハの音楽には、まさしくそんなファンタジーがある。
 感性その他もろもろに不足のある私のようなタイプの人に限って云うと、彼らが自分の心の中に確かなバロメーターを築きたいと願う場合、その製造手段としてのバッハは、なかなか有力であるかもしれない。



[フィロメーナ・モレッティ/バッハ・アルバム◇TRANSART 2004年]


 さて、バッハのお気に入りCDは、季節や天候や気分などでコロコロ変わるが、近ごろはギターやリュートのバッハを集中的に聴いている。
 端正なジョン・ウィリアムスや、名人アンドレス・セゴビアを現代風に後継するクリストファー・パークニングや、リュートのホプキンソン・スミスなんかを特に好んで聴くが、今もパセオに流れるように、ここ数日はイタリアの女流ギタリスト、フィロメーナ・モレッティ(1973年~)にハマっている。
 ライブ録音なのにほとんどノーミス、しかもノリノリのバッハなのである。

 バッハ演奏においては淡々とインテンポつーのが通常的なのだが、彼女のバッハは、自由奔放にほんとうによく歌う。
 だが、やりたい放題というのとはちがって、その強靭なテクニックの裏側には、それ以上に強靭な信念がみなぎっている。
 おざなりをよしとせず大胆な表現に踏み込む、その心意気そのものが何よりうれしい。
 最初は少なからず抵抗があったが、ここまで徹底的にやってくれんのなら、ま、いーか、バンザ~イ、みたいなことになりつつある。

 信念ある一貫性が、ハイレベルなある水準を充たしたとき、それが人々の好みなんかを楽々超えながら直接ハートに飛び込んでくるのは、何でもかんでもいっしょみたいだな。
 その昔の銀座・数寄屋橋あたり、ふと足を止めて聴いた赤尾敏さんの辻説法。
 右でも左でもない私だが、ふいに浮かんだその面影が妙に懐かしかった。

 


[フィロメーナ・モレッティ/バッハ・アルバムvol.2◇TRANSART 2008年]

 


            

 


あせらない根性 [その261]

2009年04月20日 | フラメンコ






          あせらない根性

 


 日常生活に自然とリンクしてゆけるような、
 なんとゆーか、
 真剣なんだけどめっちゃ明るい!
 そんなフラメンコのレッスンDVDが創りたかった。


 上達の壁に挫けそうになってる人。
 フラメンコにどう向き合えばいいのか? そんな迷路にハマる人。
 いろんな事情からやむを得ずレッスンを休止されてる人……。

 人生同様、フラメンコはそう簡単には問屋が卸してくれない。
 元からして、そのドッシリした確かな手応えに私たちは惚れ込んだのだから。
 そーゆーもんなんだ、それは仕方のねーことなんだ、という出発点から、「ライフワークとしてのフラメンコ」という私の中の核心テーマを、レッスン映像というフォーマットの中で、シンプルに解きほぐしてみたいと思った。

 生きるのといっしょで、上達をあせる必要なんてまったくねーんだ。
 日々コツコツ積み重ねる修業そのものを愛し、楽しむこと自体がステキなことなんだ。
 そんなセリフが自然に飛び出してくれそうなアーティストを思い浮かべた。
 ふと気づけば、まったくそんなタイプのバイラオーラがわが家にひとり居た。
 しかも明るさ満載のチョー天然系である。


 


 生きることは踊ること。
 踊ることは生きること。
 年に三日ばかりのお休みで、苦しいながらも毎日毎日を楽しそうに、迷うことなくそんな生き様を実践している連れ合いに、私は白羽の矢を立てた。
 そのチョー天然系は、即座にこんなテーマ(↓)を抽出し、即座に私はそれに合意した。

(1)何が起きても大丈夫でいられるように、フリを覚えることより、どんな時でも頼りになってくれる基本の引き出しをしっかり増やすこと。
(2)人生もフラメンコも、ここぞという時にはやっぱり根性(←死語)。要所要所に限界まで根性を入れることで、自分だけの魅力を徹底的に引き出すこと。
(3)自分ひとりでは何も出来ないのはフラメンコも同じ。自分の心からの気持ちこそが、みんなをひとつに束ねて、フラメンコなエネルギーを炸裂させること。


                                 


 仕事を介在させないくつろぎを何よりとする結婚だったし、業界的にもベタベタな感じがカッコ悪いので、
 出演者とプロデューサーという関係での仕事は互いに敬遠していたが、共に暮らしたワンコンパス12年の歳月は、カサブタが自然にはがれるかのように余分なこだわりを除去していた。
 制作期間中は、当たり前に意見が衝突することはあったが、共有するヴィジョンが、いとも容易にその解決策を発見してくれた。

 すでに何十回もチェックした映像だったが、予定通り今日発売となるそのDVDを、ついさっき、改めて真っサラな気分で鑑賞してみた。
 世に出す当日の、いつもの儀式である。


 あせらねーで根性入れてくか、こっちも……と、少し笑った。

 




                        

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先を読む頭脳 [その260]

2009年04月19日 | アートな快感






          先を読む頭脳




 プロになるためには、もちろん持って生まれた先天的なセンスや能力が大事だと思いますが、それ以上に必要なものがあると私は思っています。
 それは例えば、非常に難しくてどう指せばいいのかわからないような場面に直面した時、何時間も考え続けることができる力。
 そして、その努力を何年もの間、続けていくことができる力です。
  
 一言でいえば、継続できる力ということでしょうか。
 プロになる上では、先天的な頭脳の冴えというようなことよりも、その「継続力」が大事な要素になってくると思います。
 
 指している将棋を一目見れば、その人にセンスがあるかどうかというのは確かにわかります。
 しかし、それではセンスのある子がプロになって大成するかどうかと聞かれて、すぐにはわからないというのが正直なところです。
 それは、この「継続力」まではなかなか見抜くことができないからではないかと考えています。 
                (『先を読む頭脳/羽生善治』より)

 

 
 『先を読む頭脳
 羽生善治(将棋第十九世名人)
 伊藤毅志(認知科学研究)
 松原仁(人工知能研究)
 新潮文庫(2009年4月1日発行)420円税込
 
 
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 発売日に入手したのだが、午前中にジェーと代々木公園に遊びつつ読み終えた。
 フラメンコもまったく同じだなと思いつ、また、就職面接なども難しいのはまさしくここだとタメ息つきつつ、そのほんの一部を冒頭に抜粋した。
 
 さて、テレビゲームというのはその制作者によって、最終的な結論が規定される。
 つまり、その多くは制作者の隠した正解を探し当てるゲームだ。
 ところが、カード、麻雀、囲碁、チェス、将棋のようなボードゲームにおいては、結論は規定されない。
 つまり、プレーヤー自らが自分なりの正解を創り出すゲームなのだ。
 
 無数にあるゲームの中で、フラメンコにもっとも似てるのは麻雀だと思うが、次いで似ているのは将棋だと私は思っている。
 特に将棋とは"テクニック"と"表現力"の相関関係の点でよく似ていると思う。