フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

あれはあれでよかったんだよ [281]

2009年09月19日 | アートな快感




      あれはあれでよかったんだよ



 散歩の時にパコ・デ・ルシアを聴くのは珍しいことだ。
 しかもスーパーギタートリオの、
 あの伝説のサンフランシスコ・ライブと来たもんだ。
 頭からラストまで、こうしてみっちり聴くのは何年ぶりのことだろう。

 1981年の録音だから、このアルバムに熱中したのは25、6歳の頃だ。
 いま聴いても、やはり奇跡のライブであることには変わりがない。
 ギターを弾く人間ならば、誰もがこのトリオの超人性に驚愕することだろう。
 これぐらい弾けたらなあ、みたいな願望を軽々超越するレベルなので、
 ライバル心が芽生える余地もなく、
 純粋な聴き手として、どっぷりのめり込むことが出来るのだ。


 当時リアルタイムでこのレコードにやられたオールドファン層は、
 そのこと自体がひとつのエポックとなったろうし、
 また、それぞれの人生は何らかの影響を与えられたものと思われる。
 現に私も、その三年後にパセオを創刊する。

 1曲目の『地中海の舞踏』は、
 
私の青春のテーマソングみたいなものだから、
 それを聴けば否応なく、若かりし日々のさまざまな光景が脳裏を爆走する。
 「何やってんだオレ……」
 ほとんどが、そんなホロ苦い想い出ばかりだが、
 今の私がそこにタイムスリップ出来た場合、
 同じ失敗を繰り返すことはないだろうが、別の失敗をやらかす自信がある。
 それはハンパでない大失敗だろうから、今度こそ命はないだろう。
 「あれはあれでよかったんだよ……」
 そう、胸を撫でおろすのである。



           


だからフラメンコ [その280]

2009年09月16日 | フラメンコ

 



            だからフラメンコ



 技術の飛躍的進歩によって人類は経済的に豊かとなり、
 個人は生存のために集団に帰属する必要がなくなったのである。

 個人が勝手に行動しても生きていけるようになり、
 集団の存在理由が薄れてきた。
 家族も学校も会社も大きく変質し、
 個人は集団の束縛から解き放たれて、
 ついに、不本意ではない生活を送ることができるようになった。

 だが、このときになって初めて人類は、
 「不本意ではない生活」がどんな生活なのかが
 分からないことに気がついた。
 集団に向いていないだけでなく、
 個人として生きていくことにも向いていないことが分かったのだ。
 これが幸い中の不幸だった。

 自由には代償がある。
 自由な人間はすなわち孤独であり、人間は孤独が嫌いなのだ。
 現在、集団の秩序は回復不可能なまでに瓦解し、
 個人は何をしたらいいのか分からないまま自立を求められている。
 こうしてみると、人類も私と似たような運命をたどっているように思う。

          [土屋賢二/汝みずからを笑え]文春文庫より

 


 これは、私が仏と仰ぐ、
 お茶の水女子大学の土屋賢二教授(哲学科)の
 ありがたい教えである。
 特にラスト1行などは怖いぐらいに鋭い。

 これは『この五百万年をふりかえって』という
 エッセイからの抜粋なのだが、
 ずいぶん前に初めてこれを読んだとき、
 青春まっ盛り(1970年代)の自分が、
 なぜフラメンコに惹かれたのか、
 その理由の一端が、ポロリわかったような気がした。

 1980年~90年代の日本において、
 フラメンコのファン人口は急増し、
 またそのステータスは急速に高まった。
 教授の指摘するようなプレッシャーを解決する鍵として、
 そのほとんどが無意識的だったにせよ、
 多くの人々がフラメンコに注目し始めたからだ。
 現代日本におけるフラメンコの普及浸透は
 その意味で必然だった……。

 現代を生きる不安と緊張のストレスにあえぎながら、
 それをいかに克服して心の安らぎに達するか?
 「自立と協調」をどうバランスするか?
 こうしたテーマに対しフラメンコは、
 強いヴィジョンと忍耐を示しており、
 同時に、生きる勇気を高揚させる機能を持っている。
 
 と、まあ、こんな風に、自分の使命(←単なる思い込み)を、
 思い切り無理やり正当化したい日も、ないことはない。



 
                        [わが家の神棚と仏壇]

 

 


 


ブラームスはお好き [その279]

2009年09月13日 | アートな快感





         ブラームスはお好き

 

 

 「好きなシンフォニーをひとつだけ選べ」

 この設問には大いに悩むと思う。
 それがチャイコフスキーの『悲愴』であった時期もかなり長かったし、
 
モーツァルト(40番、41番)や、ベートーヴェン(5番、6番、7番)や、
 ドヴォルザーク、プロコフィエフ、マーラーなどにもよろめいた。
 だが、ここ数年の心境からするなら、意外とあっさり、
 ブラームスの交響曲第3番を選べるのかもしれない。

 一家離散の次の晩から、
 サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルによる
 ブラームスの交響曲の最新録音(全4曲)を聴く。
 すべてDVDがついているので、CDを聴いたあと、それにもカブりつく。
 ラトルは大好きな指揮者なので、
 ブラームスに対するアプローチはある程度は予想できたはずなのだが、
 実際の彼のブラームスは、私の想像を絶していた。
 高校時代からの愛聴盤であるフルトヴェングラーのそれに
 優るとも劣らぬ出来映えだったのだ。

 ひと通り音源と映像を堪能したあと、
 再び手が伸びるのは、やはり大好きな3番である。
 かのアントニオ・ガデスは第4番がかなりのお気に入りのようだったが、
 私はまだそこまで大人になりきれない。
 映画『さよならをもう一度』(原作はフランソワーズ・サガンの
 
『ブラームスはお好き』)でも使われた3番の第3楽章は、
 
さまざまな演奏で、すでに千回以上は聴いているかもしれない。
 作曲した50歳当時、若い声楽家に恋していたブラームスの心境が
 
反映されているとの説が有力で、同時に創作活動全般にも、
 エネルギ―が漲っていた時期の作品である。

 人間はひとりでは生きられないこと。
 互いに寄り添い助け合いながらも、
 けれども、互いに自立する気持ちが必要であること。
 安らぎとチャレンジは、いつでも対になっていること。
 そんなヴィジョンを、極めて美しいイメージをもって
 心に焼きつけてくれる名曲中の名曲だと思う。


 
 

 ところで、その大指揮者ラトルと私には、大きな共通項がいくつかある。
 恐縮ながらも光栄なことである。
 ブラームス交響曲全集の発売を記念して、
 
その類似点を以下に記しておきたい。

 (1)ともに男性であること。
 (2)同じ歳(1955年生まれ)であること。
 (3)人間は顔ではないこと。

 これらによって、才能や人間性などを除けば、ラトルと私は、
 ほとんどそっくりであることがおわかりいただけるかもしれない。

 


 


ツバメンコ同好会、日刊パセオに! [その278]

2009年09月12日 | パセオ周辺



 

 ツバメンコ同好会、日刊パセオに!

 

 ツバメンコ(=今井翼のフラメンコ)を愛し、
 その未来を応援するツバメンコ同好会。


 

 昨年秋、mixiにそのコミュニティを立ち上げた。
 会員数は現在461名。

 その内おっさんは私を入れて数名だが、残りすべては、
 ツバメンコを愛する全国の賢いチョー美女たち(←本人談の集計による)
 で構成されている。

 そのコミュとの連携トピックスを、
 
おとといパセオフラメンコ公式ホームページの最新トピとしてアップした。
 パセオHPと云えば、毎日数千名のアフィシオナードが訪れる
 
フラメンコ界最強のホームページである。

 フレッシュにして多彩な、100件近い各連載トピックスのクオリティは、

 (毎日せっせと更新されるあの忌わしい『しゃちょ日記』さえ除きさえすれば)
 多くのアフィシオナードから絶賛されている。 

 

 現在もその日刊パセオフラメンコのトップ頁に
掲載中の、
 
このトピ『ツバメンコ同好会』には、
 
とりあえず、これまでのツバメンコ関連の記事をアップしている。
 で、これから先については、
 進展する
状況に応じ、フレキシブルに展開の予定である。                      

 あっ、ツバメンコ関連メッセは、なんでも掲示板しゃちょ室まで。
 同好会メンバーには、変わらぬ応援をお願いする次第である。

 

                          
                         


鍵田取材とデスヌードとツバメンコ [その277]

2009年09月10日 | パセオ周辺





 鍵田取材とデスヌードとツバメンコ



 きのうは夕方から池の上のアルテ・イ・ソレラで、
 “FLAMENCO曽根崎心中”やサントリーのテレビCM
 
なんかでもおなじみのバイラオーラ鍵田真由美を取材。
 パセオ本誌新年号から私が受け持つ
 
インタビュー連載(本文カラー9頁)の、
 その第一回目のゲストを彼女に引き受けてもらったのだ。
 
 スタジオのど真ん中にインタビュー会場を設営し、
 大盛り上がりのツッコミ&ボケ合戦を繰り広げた。
 「ステージなら素っ裸で踊るのもへっちゃら」みたいな
 発言もぴょんぴょん飛び出し、
 そのエキセントリックな会話を、
 どのようにまともな大人の会話にまとめ上げるか、
 前途は真っ暗である。

 途中、先日のデスヌードで、大きな期待をさらに上回る
 ドツボなクオリティを炸裂させた佐藤浩希が、新聞片手に顔を出す。
 見れば、読売の夕刊にデスヌードの記事がデカく載ってる。
 そう云えば、前の日の朝日新聞夕刊にも載ってたっけ。
 ラスト数分の小島章司のあの素踊りは、
 
どうやら伝説となりそうな勢いだな。
 冒頭の第九のアイデアは小島師、
 ラストの無伴奏舞いは佐藤の演出だったことを知る。

 ツバメンコの近況を佐藤に尋ねると、
 先ほどまで、ここでみっちりレッスンをやってたのだと云う。
 おおっ、しっかり続いているんだなあ、とひと安心。
 結局は一年も続かなかったタレントさんもたくさん見てきた。
 過酷な芸能活動の合い間に、
 
ハードなフラメンコのレッスンを続けるのは本当に大変なことなのだ。

 サービス精神も旺盛な佐藤浩希が、
 ちらっとこの先のツバメンコ展開を話してくれた。
 うおっ、実現してくれよっ!と、瞬間祈った。

 

                            
 


帰り道は遠かった [その276]

2009年09月07日 | パセオ周辺




       帰り道は遠かった




 まるで仏さまのようなお人柄なのに、
 当時から音楽界の神さま的存在だった
 濱田滋郎先生のお宅に、はじめてお邪魔した時のことを
 昨日のことのように想い出す。
 当時の私は20代半ばだったから、
 それからすでに三十年の歳月が流れている。
 音楽プロモーターの駆け出しだった私は、
 主催するコンサートのプログラム解説をお願いに、
 いくぶん緊張しながら小田急線・柿生にある濱田邸に赴いた。
 そんな私に実に親身に温かくご対応くださったのが、
 初めてお目にかかる先生の奥さまだった。

 音楽業界では孤立無援のチンピラ同然であり、
 またそれ以前のやさぐれ稼業のすさみを
 多く残していたであろう若く生意気な私。
 神さまの奥さまから、そんな自分が、
 まるで一人前の業界人であるかのような応接を受け、
 舞い上がらんばかりに喜んだことは云うまでもない。
 たわいもないことかもしれないが、
 こうしたさり気ない人の優しさをきっかけに、
 私のようなダメ人間が大きな自信を与えられ、
 それが前に踏み出す勇気につながってゆくようなケースは、
 実人生においては案外と多いのではなかろうか。
 やがてパセオを創刊し、尚も七転八倒を続ける私にとって、
 濱田邸は憩いの場所で在り続けた。
 それは極寒の中で与えられる、
 ミルクたっぷりの温かなココアのような感触だったと思う。
 多くのクラシック音楽やフラメンコの関係者が、
 濱田先生や奥さまの人柄から、
 こうした見えない恩恵を受けていることが容易に想像できる。

 そんな濱田先生の奥さま、慶子(よしこ)夫人が、
 この夏のおわり、8月31日に永眠された。
 74歳だった。
 年齢は存じ上げなかったが、
 初めてお目にかかった頃の慶子夫人は、
 私の連れ合いの今と同じくらいの年齢だったことになる。
 互いにバツイチ同士で再婚した私たち夫婦は、
 式も披露宴も省略させてもらったのだが、二人して
 お世話になりっ放しだった先生ご夫妻のもとにだけはと、
 柿生のご自宅にご挨拶に赴いたのが11年前のことだ。
 そして先週9月3日、私は慶子夫人のお通夜に参列、
 連れ合いはお通夜と告別式の受付をさせていただいた。
 たくさんの弔問者の胸の内は、
 おそらく共通する心からの哀悼だったと思われる。

 内助の功。
 日本において、それはすでに死語かもしれない。
 ほとんど表面には出ないが、世の中を縁の下から支える力。
 慶子夫人のご冥福をお祈りしつつも、
 あのお優しい人柄は、それを慕う人々の心の中に
 生き続けるであろうことを思わずにはおられなかった。

 きびしく世渡りを教えてくれる人は絶対に必要だが、
 やさしく世渡りを支えてくれる人は同じくらい必要だ。
 ………ふうっ。
 私はそのどちらも出来てないなと、ため息ついた。
 お通夜からの帰り道はとても遠かった。