フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

秋の終わりに [その239]

2008年12月01日 | 四季折々










          秋の終わりに

 



















 寂しいような
 懐かしいような

 しみじみと力が湧いてくるような


 人生はたまらんなあ




 ――――――――――――――――――――――――



 きのう日曜、晩秋の代々木公園に半日を遊び、
 その夕方、アニフェリア『ギター・カンテの祭典』に駆けつける。

 休憩中に会場ロビーのパセオブースで呼び込みの助っ人をやってたら、光栄にも、十名ほどのウェブ友さんにお声を掛けていただいた。
 中でも印象に残るやりとりがこれ。
 真実とゆーのは、隠しても隠しても浮き彫りになってしまうものだ。


 「あのお……失礼ですけど、パセオの社長さんですか?」
 「そーだよ」
 「やっぱりっ! キアヌ・リーブスそっくりなので、すぐにわかりますたあっ!」







               
                                     [筆者近影]






紫ソレア [212]

2008年06月08日 | 四季折々





 

                   紫ソレア









          



       逢うことの 叶わぬ夢の 彼方より

        降りしまぼろし 紫ソレア

 

 

 


     【サルでもわかる作品解説】

 

 毎年恒例、明治神宮の花菖蒲鑑賞会(第28回/発足当初より会員は私1名)にて詠む。
 「ソレア」とは“フラメンコの母”とも称されるフラメンコの代表的曲種のことだが、決して布羅綿子という娘さんの母親ではないことを憶えておいて損はない。

 で、この句の季語はもつろん「ソレア」で夏。
 雨の多い六月あたりに、音楽としてのソレアに親しむことの多い私が勝手に季語化したものだが何か。
 美しいむらさき菖蒲にソレアを連想するところに、この作者の歌人としての傑出したセンスを感じるのは私だけだと云っても過言ではないだろう。


 薄幸孤独なアイレを帯び、紫色のよく似合う、
 青春を共にした、いまはなき佳人への即興オマージュ。







 


       


ある春の詩 [207]

2008年05月01日 | 四季折々






                     ある春の詩


 

 

 

 

         ある春の午後。

    あれこれ懐かしい想いに浸るひととき。

        ふと口ずさむあの詩。

 

 

 





    みっちゃんみちみち うんこたれてえ

    紙がないから 手で拭いてえ

    もったいないから ナメちゃったあ

               (作者不詳)

 






 

               作者不肖 ではないかと私は思う。






                       

 

                  

 

 

 

 

                      

 

 






 


淡き華 [204]

2008年03月30日 | 四季折々







                淡き華



 







 どーよ、これ。
 パセオから歩いて十数分。
 あなたはもう忘れたかしらの神田川は芭蕉庵あたり。


 本日つい先ほどの絶景でんがな。
 仕事してる場合かあああああ!!!!!
 と叫んどるよーでは経営黒字は出ない。


 ま、しかし、黒字にもいろいろあるでな。

 






    されど舞う 散るを恐れぬ あれぐりあ






 

 

 


白い一日 [200]

2008年02月03日 | 四季折々




 

          白い一日



 

 



 カーテンを開く瞬間の雪の朝のよろこびは、タブラオの扉を開けカンテ・ギター・パルマが飛びこんでくる刹那に似ている。



 



 「春もそう遠くないな」。
 そうつぶやいた途端の積雪である。
 私の説の逆を行けば必ず当たる、という伝説は今日も不滅だ。



 



 昨日からうっすら風邪気味なのだが、仕事や風邪は明日でもできる。
 女心と雪の空、と云うではないか、云わねーよ。
 ま、しかし、今日は今日とて今日しか出来ないことをしようではないか。



 



 とにかく江戸っ子は理屈ぬきで雪が好きだ。
 NHK将棋トーナメントで天才羽生がまさかの大逆転で異才長沼に負かされるのを横目に、連れ合いのリクエストに応える特製鬼才カレーの仕込みを終え、積雪用耐寒タイツ、特殊戦闘用ブーツ(ふつーのももひきと長靴。TT)という完全装備でさっそうと雪野原へと繰りだす。
 水を得た魚と云うか、雪を得た豚とゆーかは微妙だ。



 



 ゆらりハナミズにさすがに遠出はあきらめ、雪化粧にときめくわが家の庭(巷では代々木公園、明治神宮などと呼ばれている)をゆっくりじっくり散歩する。
 今月末にトマティートやホセ・マジャとともにやってくるドランテのピアノフラメンコを耳に、冬の醍醐味を味わい尽くそうとする52歳・男の哀愁とささやかな幸福。



 



 遠い昔の、雪の日の想い出が走馬灯のようによみがえる。
 そのほとんどは想い出すのも恥ずかしい悲惨な記憶ばかりだが、いまとなってはそのポジティブな失敗の山々に好感さえ持てるぐらいですってほんとかよっ。
 センチメンタルな風情に、何の脈略もなく、ふと脳裏をかすめる陽水の一節。

 

   ある日、踏み切りのむこうに君がいて
   通りすぎる汽車を待つ




 


 


                        


冬のある日 [199]

2008年02月01日 | 四季折々


 


            冬のある日





 

 明るい陽の光が、わが家の庭をやさしく包む。
 ドゥケンデの最新盤を聴きながら、冬のアイレを胸いっぱいに吸い込む。


 つれづれ歩くだけでパッと気分が晴れるような風景を、毎日のように散策する。
 わが家の玄関との間に小田急線の敷いてしまった関係で、庭に出るために徒歩七分ほどかかってしまうのが唯一の難点ではある。



 


 嵐が吹き荒れよーが、夏のカンカン照りだろーが、朝寝坊をしよーが、最近はそーゆー日を除いて毎日のように散歩する。
 それだけではもったいなので、もちろん庭園は無料開放している。
 人呼んで、代々木公園!!とのことだ。(TT)









      
 
 で、久しぶりに連れ合いとツーショット。
 (ハンサムでハゲてる方が私/撮影:ⓒジェー)
 なお、写真と実物が異なる場合もありますので、あらかじめご了承ください。


 

 


         春もそう遠くないな。


 


 


 


東京北部の微笑み [189]

2007年05月25日 | 四季折々


 




        東京北部の微笑み
             




 






 東京北部は王子の「名主の滝」である。
 この春、桜のころにぶらりと寄ってみた。

 知る人ぞ知るのマイナー名所なのだが、丘陵のアップダウンをうまく利した深い趣きの日本庭園である。
 パセオから歩いても一時間ほどでありますって、誰がパセオから歩くかっつーの。はい、それは私です。


 






 私は江戸川区の小松川(←小松菜の原産地)という東京東部の生まれなのだが、山の手線の北側、つまり東京北部のたたずまいをこよなく愛すタイプの人間だ。

 かつてはそれなりに栄えた街々を数多く抱する東京の北部。
 そこは現代の都市開発から取り残された気配がむしろ濃厚に漂うエリアなのだが、その「気骨のある寂寥感」みたいな風情を、妙に私は好ましく感じてしまうのである。
 ま、しかし、ここ王子やら尾久、駒込あたりは、幼い私が毎週のように喜び勇んで泊りに行った母方の親類が集中していた懐かしい北部の土地でもあるし、あくまでこれは個人的感傷の域を出ない話だろう。


 さて、生活の中でガンガン前進したり、チャラチャラ浮かれるのはとても楽しいものだけど、しんみりとはかない気分にどっぷり浸るのも同じく人生の醍醐味だ。
 そんな時の方が、かえって物事がよく視えたりもする。
 アレグリアスだってシレンシオがなければ、あの深い味わいは出ないわな。
 私にとっての東京北部は“シレンシオの浪漫”なのかもしれない。






 「どーあれパセオを続ける」ことを念じ続けた結果としての現在の私。
 「こーゆー人になりたい」と、不安まじりに将来を夢見た少年時代の僕。

 そんな二人がふんわり会話をはじめる時、彼らがぼんやり眺める風景は、例えばこの「名主の滝」のような東京北部の景色であることが多い。
 そこでの会話の中身のほとんどは、他愛もないセンチメンタルな郷愁だ。ろくでもねえ想い出をほじくり出してきては、二人してだらしなく笑うのが常なのだ。
 だが、この日の少年にはいつもとは似ない、まるで滝のような激しさがあった。
 私の抱える屈託を見抜いたのかどうか、何の脈略もないツッコミで、彼は思いきり私の意表を突く。


 「ねえ、思い込みが強すぎんたんじゃないの?」
 「はりきりすぎて、いっぱい人を傷つけたんじゃないの?」
 「もう少し、うまいやり方があったんじゃないの?」
 「僕がなりたかったのは、もっとちゃんとした大人だよ」


 おいおい、トートツにいってえ何をぬかしやがるんでえ。
 たまの半休に、いきなり正しい生き方講座かよっ。
 そーゆーシチュエーションではなかろーがあああ!!!

 思わぬ展開に、ノスタルジックな感傷気分はイッキに吹っ飛ばされ、代わりに「シックスセンス」の例のシーンみてえなデジャ・ビュに全身を包まれる。
 当然私の方には確固たる云い分があるが、彼の指摘もまた、くやしいぐらいに正確である。
 成り行きに逆らわず、とりあえず私は腹を立てない覚悟を決め、ヘコまされるがままに、少年の声に耳を傾ける。








 すると、どーだ。
 彼のツッコミによって、私の中にある、無理やり背伸びしてきたことで生じた歪みの部分が、次第にクッキリと浮き彫りになってくるではないか。
 云われてみれば、そうした欠陥は、現在の私が抱える屈託の原因を成すものかもしれなかった。
 なにも彼は、私が過去に犯した膨大な数の失敗を責めているのではなかった。
 「基本に戻ろうよ」。
 彼の主張は、どうやらその一点のようである。

 少年にしては冷静な現状分析と新たなテーマの提示は、私が抱える数々の課題を解決するかもしれない可能性を感じさせた。
 そして予想どおり、その骨太なテーマは、間髪入れずいくつかの変奏曲に姿を整え、それぞれの解決策をシンプルなメロディで暗示しながら、私の脳裏を素早く走り抜けたのである。






 そーか。
 わからん場合は原点に戻れ、ってか。
 つまらんこだわりや勝手な思い込みなんぞはみんなエイヤと捨てちまえって、
 要はそーゆーことかい。

 それまで沈黙を守っていた私は、思いもかけぬ収穫に頬がゆるみそうになるのをこらえて、むしろ苦笑交じりを装いながら重くなった口を開く。

 「おめえの云い分ももっともだがな、元はと云やあ俺はおめえなんだから、おのずと限界つーもんがあらーな」

 「それもそーだね。ま、でも、前向きな原点回帰ならあんたにも出来そーだし」

 私の変化に気づいた少年は深追いをやめ、ケラケラ笑いながらこう云う。



 ――――――――――――――――――――――――



 やれやれ、生意気な小僧だ。
 云いたい放題ぬかしやがって、あとの始末は大人任せかよ。
 ま、しかし、いずれはお前がすることだ。
 そのことだけは忘れるなよ。
 だが、ま、今日のお前は、おめえにしては上出来だったかも
しれんしよ





 ふと見やれば、「名主の滝」の落ち水が、ほっとしたような微笑みをたたえている。


 

 




 





 


薔薇エティ [188]

2007年05月23日 | 四季折々




 


      薔薇エティ

 



 




 久方ぶりに、東京北区の旧古河庭園へとバラ見に出かけたのは、ある五月晴れの日曜日、昼下がりのことだ。
 元旦以来の休暇をとった連れ合いをお供に、めでたくも約半年ぶりに夫婦そろっての行楽である。
 ご近所代々木公園に近ごろできたドッグランで、朝方からくたくたになるまで遊ばせてあるので、わが家の守護犬ジェーはこの日は留守番担当だ。

 

                              

 




 

 名高いここ旧古河庭園の薔薇は、ヴァリエーションが実に豊かである。
 色や姿が好ましい上に味わいも繊細ときてるからまったく飽きがこない。
 どことなく私と正反対なところが、私を惹きつける真の理由なのだろうがそれがどーした。自覚症状があるだけマシである。

 

 







 さて、その華麗なる薔薇園の奥には、これまた美しい日本庭園がある。
 折りよく、うれしいくらいに新緑がまぶしい。
 ここから歩いて15分ほどのおなじみ駒込・六義園にはスケールの点で及ばぬものの、凛としたその風情はどこまでも細やかであり、しっとり深い陰影をおとす散策道にはノスタルジックな薫りがあふれている。
 心地よくも脳裏に響く幻聴は、アントニオ・マイレーナのティエントである。





 

 こうした情景をぶらついていると、それだけですっかり心が和んでしまうのは寄る年波の効用だ。

 ならば、歳を取るのもそれほど悪かねえ。


 そう、歳を喰えば喰ったなりに、新たな楽しみが生じるのだ。
 人生至るところ青山あり。
 諸君らのような、若く美しいお方には理解不能な世界かもしれない。
 ふ、若造どもめ(←50歳未満)、
 どーだ、うらやましーか?
 なんなら、そこの貴方(←できれば30歳未満)、
 特別に私(←52歳)と替わってやってもいーぞ。

 












 

 


春の声 [185]

2007年03月23日 | 四季折々






                           春の声


 





 江戸の名勝、文京区は駒込の“六義園”を歩く。

 







 パセオから20分もあれば飛んでこれる。
 ま、勝手知ったる我が家の庭のようなもんだ。
 毎度入口で三百円徴収されるが、自分で管理すれば年ウン億はかかるだろうから、それを考えればタダみてえなもんだろう。
 ここ駒込に育った母のお気に入りスポットだったこともあって、私の来園歴は半世紀あまりに達する。










 マイスキーのバッハを聴きながらちんたら歩いていると、ハラの底からエネルギーが湧いてくるのを感じる。
 四季折々の美しい風景には、人をバランスよく後押しする効用があるのかもしれない。
 ま、さっき喰った牛丼のせいかもしらんけど。



                      

 


 

 ふと、ヘッドホンをはずして耳を澄ませば、そこかしこから春の声。
 東京も捨てたもんじゃない。





 










 


冬枯れ [182]

2007年01月19日 | 四季折々





 

                            冬枯れ

 


 

 



 目の醒めるような五月の緑が好きだが、こうした冬枯れの味わいも捨てたもんじゃねえ、と感じるのはやはり歳のせいだろう。


 これっぽっちも周囲に迷惑をかけることもなく、骨格だけでしっかり生きている感じには、むしろ感嘆の念を抱く。
 そこにはこの私の対極の姿が在る。




 






 聞こえてくるのはやはり、ラファエル・ロメーロのカンテ・フラメンコか。

 飾ることなど歯牙にもかけない、底知れぬ深さを持った生一本の歌いまわし。
 いかなるブランドも霞んでしまうような、純朴ゆえの力と信頼感。





                
               [ラファエル・ロメーロ/
               
フラメンコの大家たち(18)]
       


 


 

 






          




 

 

 

 


 



 


朝陽の中で [180]

2007年01月02日 | 四季折々


 





                         朝陽の中で




 
 



 2007年1月1日。
 代々木公園の早朝。





 昨年まではやはりご近所の代々木八幡や明治神宮に詣でていたのだが、今年からはいつもの散策コースをいつも通りに歩くことを初詣とすることにした。





 私はお寺や神社や教会などが大好きなタイプなのだが、無神論・無宗教のふとどき者である。
 おそらくは、そうした後ろめたさのためだろう。それらの建造物から神仏の気配を感じとれたことなどただの一度もないバチ当たりもんなのだ。

 ただ、何の変哲もないガランとした風景を歩いている時に、不意に神の気配を感じることは過去にほんの幾度かあった。今日の散策を含めて。



 

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 昨年は多くのものを失い、同じ程度の何かを得た。

 何かを得ることで何かを失う。
 何かを失うことで何かを得る。

 なるほど人生はよく出来ている。
 時には寂しい後悔が美しい花を咲かせることもある。

 今年もまた、泣いたり笑ったりしながら歩きつづけてゆくのだろう。
 願わくば、自らの両脚で一歩一歩踏みしめる、そのライヴな感触こそをいつも楽しむ自分で在りたい。


 以上は新春の初想い。
 残り少ない人生の、今日はその最初で最後かもしれない記念すべき年の最初の日。









 

 





 

 

 




秋の終わりに [176]

2006年12月07日 | 四季折々


 



                秋の終わりに





 

 



 早めに家を出て、
 妙に気の合う私の旧友“代々木公園”画伯描くところの
 秋の情景に、しばしの別れを告げる。




 

 





 今朝のBGMは、ケニー・ドリュー(JAZZピアノ)の
 名高いヨーロッパ三部作から『旅の終わりに』。


    
       
 Arfa Music/1990年





 思い切りロマンティックな感傷(主に大失敗の反省)に
 浸ることのできたこの秋。

 日増しに寒さはつのるけれど、
 冬には冬の楽しみ(次なる大失敗)がある。




 

          

 

 


 



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  速報!ってほどのものではねーですけど。

 現在フラメンコ界の水面下では、
 このよーなトホホな超小型プロジェクト

 深く静かに進行中であります。

   http://blog.goo.ne.jp/yolanda_pinatas/d/20061206

 


 

 



 


 






 




 


季節はずれ [145]

2006年08月10日 | 四季折々

 

 

 

        季節はずれ 

 

 

 

 

                   

         

                                 「上野の冬牡丹」

   

 

   

  
        どうだい、涼しげだろ。


 このホームグランドに次はいつ書けるのやら、それもわからない。
 で、
とりあえず、暑苦しくない季節はずれの風景写真でもぽんと載っけておこうと思った。
 今年撮ったへぼなデジ写ばかりだが、気が向いたら別の季節はずれに取り替えたい。

  んじゃ、しばらくはあっち(↓)にいるのでよろしく。

 

          パセオ社長がしょんべんカーブで真っ向勝負! 
          社長室 http://www.paseo-flamenco.com/cat5/index.html


 









 

 

 

 

 









 


しょうぶの行方 [128]

2006年06月17日 | 四季折々

 





             しょうぶの行方






        
 


 「しょうぶは時の運」と云うが、そーゆー意味でこの日(先週土曜)はラッキーだった。
 ご覧のとーりの咲きっぷりである。


 “花菖蒲”は、ささやかとは云えないこの季節の楽しみである。
 頃やよしとばかりに、朝も早よから明治神宮の御苑内にある菖蒲田に駆けつける。
 鑑賞前の腹ごしらえはもちろん、神宮前・杜のテラスの揚げたて“海軍カリーパン”である。


 さて、この光景に想い起こすのは、二十五年以上前のとても哀しいお話だ。

 その頃やっとのことで付き合いはじめた岩下志麻さん似の三つ年上のご令嬢(浜町の麻雀屋さんの)とともに訪れたのが、この明治神宮の菖蒲田だったのだが、その折、緊張と興奮のあまり、冒頭のような高度に洗練されたギャグをカマしまくったことが主たる原因で、その後間もなくあっけなく彼女にフラれてしまいました志麻。という悪夢のような出来事は私の記憶に真新しい。

 それから四半世紀以上経っても、そうした人間関係において、私の中では一向に学習成果が上がっていない実態を哀しげに喚起するものが、この見事に咲いた花菖蒲なのだ。


    


 新緑に輝く雑木林に囲まれ、清正井(名高い加藤清正の井戸)から湧き出た清らかな水によって潤う菖蒲田は、比類ない気品をたたえております、ってホームページ丸写しで書いてみたが、その“比類なき気品”は、ご覧のように本当である。


         
               [名高い清正井]


 名鏡止水。
 おだやかに湧きいでつづける誉れ高いこの名水は、あたかも清らかな私の心を映し出す鏡のようでもある。………ないか。


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 さてこの日、珍しくもお供の音楽はナシだ。

 なぜなら、前日のチェロ・コンサートの心地よい余韻をずっと引っ張ったまんまの状態だからな、その必要がないのだ。
 まったく、万難を排して出掛けるにふさわしい公演だった。
 デンマークの知性派テクニシャン、ヘンリク・ダム・トムセン恐るべし。


         
         
 [ヘンリク・ダム・トムセン]


 いきなり音楽そのものに没頭させる、抜群に見通しのよいバッハ(無伴奏チェロ組曲第一番)は甘く薫る春風のごとし。
 次いでヨーヨー・マまっ青のあきれるほどにシャープで安定したコダーイ(無伴奏チェロ・ソナタ)。
 最後の新日本フィルとのドヴォルザークのチェロ・コンチェルト(ギターのアランフェスみたいな人気曲)は、協奏曲ライブの醍醐味とも云うべきエキサイティング・セッションに終始した。

 そこには、音楽全体の“設計の美しさ”が生む精神的快感に加えて、私たち聴き手を音楽そのものに集中させる完璧とも云うべき“音程&テクニック”が生む生理的快感があった。

 チェロというのは、かなりの名人をもってしても、美しい音程をキープし続けるのが難しい楽器なのだが、俊敏な技巧に支えられるトムセンの音程は少しもゆるむことなく、私たちはその透明度の高いファンタジーに安心して没入することができたのだ。


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 ところで、音楽ファンにはたまらん魅力の、このトリフォーニーホールの“すみだ方式”についてちょいと説明したい。

 すみだ方式とは、第一部はソロ、第二部はオーケストラ(しかも新日本フィル)との協奏曲という、通常のリサイタルでは考えられない贅沢なシステムのことだ。
 まっ、早え話がまずフグ刺しをじっくり味わって、で、そのあとにぎやかにフグちり(鍋)を喰うような、それぞれがチョーうれしくって飽きのこねえ段取りというわけだ。

 別に回し者でもないのにこれをご紹介したのは、実はわれらがフラメンコ界もこの恩恵を大いに蒙っているからなのである。
 数年前のビセンテ・アミーゴ(パコ・デ・ルシアの後継者とも云われる超イケ面スター)来日公演がそれである。

 第一部は、ビセンテのソロとグループ・セッション。
 そして第二部では、ほとんどライブで聴くチャンスのないビセンテのフラメンコギター協奏曲(POETA/陸の船乗りのためのフラメンコ協奏曲)を、新日本フィルとやってくれちゃったのである。余談だが、たしかスペイン国立バレエ(アイーダ・ゴメス時代)にもこの曲で踊る作品があったはずだ。



           
          『ビセンテ・アミーゴ/POETA
                   SONY MUSIC/1997年


 さて、その夢の共演だが、指揮者のタクトが上がる直前、私のヒザは期待と興奮で震えていたことを想い出す。おそらくオケとのチューニングの段階から、ビセンテがとてつもないオーラを発散していたからだろう。
 読者の中にもそのライブをお聴きになった方が多いと思うが、ありゃギターコンチェルトの歴史に残る名演だった。

 私もギター好きなので、ギター協奏曲については過去50回位ライブを聴いてるが(8割はアランフェス)、この何かと困難の多いジャンルで、胸のすくようなエキサイティング快感を満喫できたのは、この“ビセンテ+新日本フィルのポエタ”が文句なしのベストワンだ。ちなみに次点はイエペスの生アランフェス。

 オーケストラにやっとこさ絡んでゆく、というのが多くのギター協奏曲ライブにおける悲しい現状なのだが、ここでのビセンテは、強靭なコンパス・テクニックで、終始オケを引っ張りながら音楽をひたすら前へ推進させるようなリーダーシップを発揮し続けた。

 そのしなやかに男前なギタープレイに、さっ爽と天空を駆け抜けるペガサスの勇姿を脳裏に映じたのは、この私だけではなかったはずだ。

 トリフォニーのNさん、Uさん。あの節もほんとにありがとう! またやってね、フラメンコっ
 「ありがたやすみだ方式」というのは、音楽ファンの本音なのである。


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 さて、今日のカテゴリーは“四季折々”でもあり、ここはひとつ徹底的に“菖蒲”の魅力について語ったろうと考えていたのだが、そんな私の意図をあざ笑うかのように、話はトムセンのチェロからトリフォニーに流れ、しまいにゃビセンテ・アミーゴにたどり着いてしまいました志麻。予期せぬ結末とはこのことである。


 まったく、しょうぶというのは、ゲタを履くまでわからないものだ。
 ……ふ。……ま、これを以って本稿の結論としながらも、私としては四半世紀前のオマヌケな教訓を、ひとり静かに噛みしめたいと思う。