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2012年11月1日(木)/その1188◇探しものは私の内に
八時半には家に戻り、ひとっ風呂浴びる。
鯛の刺身とお新香でぬる燗を呑りながら『相棒』。
観終わったら朝までノンストップで爆睡。
水曜夜には、こんな穏やかなパターンが定着しつつある。
そういう後味で眠りにつけるテレビ番組は貴重だ。
その意味では金曜深夜の『タモリ倶楽部』が双璧なのだが、
金曜夜は呑み会が多いので、最近は見逃すことも多い。
日曜はNHK将棋トーナメント、それと大河『平清盛』。
ここらへんが近頃の定番であり、何だかんだ云ってもテレビは捨て難い。
好ましいバランスのある番組というのは、好ましい余韻を残す。
善悪には絶対的なものは無く、
善悪のバランスの取り方にこそ善悪はある。
最近読んだ文庫で、そんなような一節にドキリとした。
探しものがふいに見つかったような感じ。
だが、その感覚は私の中で知らないものではなかった。
『探しものは私の内に』
新年号から始まるフラメンコギターの巨匠・カニサレスの連載。
この夏そのタイトルを付けたのは、他でもないこの私だったのだから。
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2012年11月2日(金)/その1189◇バランス
高校時代から愛読し、パセオ創刊期に一時中断はあったものの、
ここ十数年ばかりは欠かさず購入している月刊の音楽専門誌がある。
ただし、この数号は買ってもいないし読んでもいない。
些細な理由だった。
あるピアニストの最新CDに対する評論家二者による論評の両方が、
その優れた長所に触れることのない、余りにも見当外れに過ぎたものだったからだ。
格別に好んで聴くピアニストではないのだが、
そのCD演奏は豊かにして斬新であり、非凡な輝きに充ちたものだったから、
そりゃねーだろうと、ちょっと哀しくなった。
まあ、同じ人間のやることだし、そんな不可解はこれまで多々あったことなので、
たまたま私の虫の居所が悪くて、ちょっと拗ねてる状態なのだと思える。
こういう想いというのは、すぐに自分の仕事に跳ね返ってくる。
パセオフラメンコの編集・執筆の在り方にモロ直結する問題。
そう、明日は我が身、なのだ。
悪評ばかりを蒙る政治家の中にも、いい仕事をしている達人が実在することを知った時、
何故こういう事実を正当に評価・公表しないのかと憤然とする機会が最近いくつかあった。
近ごろは、取材対象の長所には見向きもせずに、短所のみをわめき立てるような
大方のマスコミの在り方にウンザリさせられることが多い。
悪意に充ちたスキャンダラスな記事というのは、
長期的に見て、それほど部数アップにつながるものなのだろうか?
仮にそれで一時的に潤ったとしても、その先にはあるものは一体何か?
自分と同じ人間なのだから、誰だってそりゃ善いことも悪いことも同時にやるもんだ。
だが、そのマイナス部分だけを突っつき、プラス部分を無視するやり方には
(もちろんその逆も、二番目に危険なやり方ではあるのだが)、
取材対象はもとより、自らの希望と未来とを同時に抹殺する危険があると思う。
四十年以上愛し続けてきた冒頭の音楽専門誌に、そういう醜悪な影をチラッと見たことで
即ギレしてしまっている自分が実にオトナ気ないことにも思い当たる。
もともと心潤す記事が満載の本なのだから、あとで書店に寄って最新号を買うとしよう。
ついでに、きのうの日記でひとまず確定できたことを、今日も復誦しておくか。
「善悪には絶対的なものは無く、 善悪のバランスの取り方にこそ善悪はある」
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2012年11月3日(土)/その1190◇三度目の降臨
おとつい晩は高円寺エスペランサの木曜会。
すでに二十余年つづく、業界なかよし呑み会だ。
例によって下ネタ中心に大盛り上がりだったのだが、
翌日は日本橋で、入交恒子さんのリサイタルがあるので、
さすがに25時過ぎには家路をめざした。
今でも気持ちは18だから、
朝まで呑んでもなんのその!という気分は無いでもないが、
そこに身体はついて来てはくれないところが遺憾である。
まあ、実際にやるやらないは別として、
そーゆーパッパラパーな気分は、いついつまでも忘れずにいたい。
さて、その金曜晩の入交恒子リサイタル。
期待通り、期待を上回った。
入交はもの凄いソレアを踊った。
エンリケの無伴奏トナを受けて登場する入交には、
すでにその瞬間、ソレアが充満していた。
「入っている」と感じるべきか、「降りている」と感じるべきか。
もともと容姿も技術も抜群の人だから、
そこにフラメンコが降臨するとモノ凄いことになる。
そういう入交の決定的・歴史的瞬間を観るのはこれで三度目だ。
カンテとギターとバイレが混然一体となって、フラメンコそのものになる。
踊っているのは確かに入交なのだが、
私の視聴覚と腐った心は、純粋なフラメンコで充たされている。
その強烈なカタルシスは私を変えるだろうか。
いや、そこまでは欲張るまい。
とりあえず、この瞬間の美しい記憶に充足すればいい。
こういうことが起きるから、せっせとフラメンコライブに通う。
ついでに、せっせとパセオを創る。
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2012年11月4日(日)/その1191◇予定不調和
吹く風は秋。
こないだ買ったばかりという感覚なんだが、
早くも年間スケジュール帳の買い替え時期だ。
予定はすべてこの手帳に書き込む人なので、
これを紛失すると大変なことになる・・・と思う。
ゆとりをもって予定を書き込むのだが、
そのゆとりがいけないのか、
余計なことをやらかして、毎度予定がズレ込む。
他者とのコンパスだけはきっちり押さえるが、それ以外がいけない。
ただそこには罪悪感が生じるわけで、おそらくはそうした負い目からだろう、
余計なことに対する情熱には、逆にいっそうの拍車がかかる。
その情熱のパワーは、猛反対される結婚に対するそれに近しい。
予定調和を嫌う、こうした天邪鬼な性格はいつごろ形成されたものか?
残念ながら、少なくとも中学時代には確立されていたものと思われる。
進学に価値を見い出せず、将棋の道に人生の活路を求めたのもその頃だ。
いずれにせよ、私のスケジュール帳の用途には大きな問題がある。
これを紛失すると大変なことになるという認識にも大きな誤認があるが、
そういう寄り道に伴う行動量と経験値の増大には若干捨て難いものはある。
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2012年11月5日(月)/その1192◇1Q84
偶然以外の何モノでもなかった。
この秋は、藤沢周平の全作品を読み返す周期に入っていたのだが、
風呂で読み込んだ幾つかの文庫がズタボロとなり、それらを新品に買い替えるべく、
ライブ会場に向かう途中立ち寄った新宿・紀伊国屋書店でちょいと流れが変わった。
発行当時かなりの話題となった村上春樹さんの『1Q84』。
その新刊文庫本・全6巻が、よく目立つスぺースに積み上げられている。
彼は国際的な人気作家であり、その半数ほどの著作を読んだが、
それまでの私にはあまり相性の良い作家ではなかったようで、
まったく期待せず、ただ気まぐれにその最初の2巻のみを購入した。
『1Q84』というのは、ジョージ・オーウェルによる
その後の人類の意識を改善した勇気ある超傑作『1984年』への何らかの含みを感じたし、
また、実際の1984年という年は、二十代後半の私が
月刊パセオフラメンコを創刊する個人的に忘れ難い年でもある。
ライブ開演を待ちながらチョロリ読み始めたのだが、予想に反して導入から面白い。
主人公は私とほぼ同じ歳であり、音楽の趣味にも近いものがある。
奇想天外なストーリーもさることながら、
物語に深く潜む作者の感性と思想にはドキュンと胸を射抜くものがある。
残り4巻を翌日ご近所の書店で入手し、この土日で一気に読破した。
一区切りをつける大仕事を片付ける予定の土日だったが、
ここ数日左膝の具合が不調であることを予定不調和の口実に、パセオにも出掛けず
自宅と近くのカフェを幾度か往復しながら昨日の夕方に読み終えた。
ストーリーはさておき、幾つか(十カ所以上あったと思う)のスポットには、
ボヤッと素通り出来ない黒光りのするインスピレーションがあった。
これまでこの作家に注目できなかった理由が私自身にあったことも知る。
これによって、私の未来進路には若干の変更が生じる可能性がある。
それが運命による①予定調和であるのか、②私個人による予定不調和であるのか、
あるいは、③その両方による相互作用の結果であるのか?
それが正解でなくとも何らの支障もないが、私個人は③と決めている。
仮に正解が①ならば、宇宙の神秘の強大な実行力を素直に賞賛できる。
それが②ならば、宇宙の神秘の寛大な在り方に素直に感謝できる。
それが③ならば、宇宙の神秘の抜群の対話力に心から共感できる。
この年末年始は、四、五日ほど休めそうなので、
そうした興味深いヒント群とじっくり対話してみようと思う。
この歳になって、探しものは常に自分の内にあることに気づきつつあるが、
優れたアートというのは、いつでもそうした発見の有力な触媒となる。
フラメンコにおけるそうした発見をパセオにピックアップするのが私の主たる任務だ。
私個人を例に採る場合、まずはその霊感部分をパソコンのWordに書き写してみる。
次にそれを、自分の信じられる言葉に描き換えてみる。
更にその心を、自分の体験に基づいた日記で表現してみる。
仕上げとして、自分の言葉として嘘がない状態まで推敲する。
そのようにして丹念な作業を続けた結果が、
例外なく原典とは似ても似つかぬ愚物であることを毎度毎度嘆いているようでは、
とてもじゃないが“自称ライター”とは自称できない。
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2012年11月6日(火)/その1193◇発見の旅
しばらくの間、自宅パソコンの入力故障で、
早朝の習慣だった日記が書けなかった。
それはそれとして新鮮な気分を味わったのだが、
やはりこうして日記を復活してみると、
朝っぱらからそれなりのリズムが生まれて、生理的に楽しい。
書くことは自分を整理すること。
出版が職業なのに、営業一本槍で書くこととは無縁だった私が、
それを実感したのはここ数年のことだ。
頭やら心やらがあまりにも無整理で、
このままだとクタバる寸前に相当あわてることになるなあ、
自分をわからないまま死ぬのもやり切れんなあって想いが、
四十代にはずっとあった。
これまで自分がどんな人間であったか?
このさき自分はどんな人間になりたいのか、
あるいは、どんな生き様で死んでゆきたいのか?
だから、五十代から毎日のように日記を書くようになって、
毎日少しずつそれが分かるようになる変化には、
少なくはない安堵と快感とが伴っていた。
自分の善いとこ悪いとこが次々と明白になり、
善いところが極めて少ないことに愕然としたり、
大多数を占める悪いところの中にも、とりあえず修正出来るものと
そうでないものの種別があることを発見したり・・・。
ある時期から、そういう発見を仕事やプライベートに
自然と反映することになるのだが、
そしてそのことは時に億劫な冒険であったりもするのだが、
同時にスリリングでもあり、それなりの手応えを感じたりもした。
想えばそれは「旅」の感触によく似ていた。
そうしたプロセス上の最も大きな変化は、
「自由」もしくは「自主性」の意味合いを自分なりに確定できたことかもしれない。
つまり、毎日の日記というのは、
それまでの自分を窮屈に、かつ不明瞭に縛っていたものの正体を、
明快に暴露する役割を果たしてくれたことになる。
自分を縛る必要の有るもの。
自分を縛る必要の無いもの。
そのシンプルな種分けが容易になることは、
大切にしたいものとそうでないものを明快に仕分ける
思いのほか有効な変化であり、
そんなことに近年まで気づけなかった私にとって、
そりゃまるで「タナからボタ餅」的な天恵だった。
ちなみに、「田中はボタ餅(オラシオン作)」とはちょっと違う。
「渡辺に閉じブタ(オラシオン作)」ともちょっと違う。
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2012年11月7日(水)/その1194◇逃避の角に頭ぶつけて蘇生することもある
「愛とは決して後悔しないこと」
ゆうべ何を食ったかさえ思い出せぬ人なのに、
四十年も昔に観た映画のセリフを憶えている不思議。
大ヒットした『ラブ・ストーリー』、邦題は『ある愛の詩』だった。
ジェニファ弾くバッハのキーボード協奏曲が素敵だった。
同級のツレと銀座で観たことも覚えてる。
当時私は高二だから、生物学的にサカリの真っ最中であり、
受験勉強には無縁の人で、バッハやパコ・デ・ルシアばかりを毎日聴いていた。
そりゃ単なる逃避なのだが、
一方でそれが仕事人となるための受験勉強であることには気づいていない。
「愛」については、家族や仲間や恋人を想えばある程度イメージ出来たが、
「決して後悔しないこと」という感覚はまるでイメージすることが出来なかった。
持ち時間が豊富な青春期に、そうした実感を理解することは難しいものだ。
持ち時間が切迫しつつある現在でさえ、そう断言することは難しい。
ただし、こんな風になら今は云えると想う。
おしなべて決して後悔しないこと、自らそう定義して朝な夕なに臨むこと。
冒険と失敗の反復が恒常化している人間における、
若干の哀愁をともなうアジの開き直り。
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2012年11月8日(木)/その1195◇希望の紡ぎ方
リルケとかプルーストとかヴィトゲンシュタインとか。
ジョイスとかヴェルナー・ヘンツェとか村上春樹とか。
自らの理解の及ばぬアルテに、遠くから悪タレをつぶやいてた俺。
四半世紀前、カリスマ・バイラオーラ碇山奈奈は、ヘベレケの私をこう諭す。
「リルケが難解なんじゃない。リルケを理解しない人が怠慢なだけ」
そうした一角をなす村上春樹が、『1Q84』でグッと近しくなった。
そこには「バランス」を解明する強烈な光明があった。
意外なことにそれは、「あきらめない」ことでもあった。
淡い連想から、この秋他界したハンス・ヴェルナー・ヘンツェを聴く。
ギター独奏による『王宮の冬の音楽』は、例によって革新と伝統の狭間を彷徨う。
三十年前のプロモーター時代、西ドイツから招聘したトーマス・ミュラー=ペリングの愛奏曲。
全体は無調だが、ある瞬間唐突に現れる美しい古典的メロディが、
混迷の現代における「希望の紡ぎ方」のようにも聞こえてくる。
左翼思想の同性愛者ヘンツェは、中道右寄りの女好きにさえバランスを与えようとする。
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2012年11月9日(金)/その1196◇下ネタさま
いや、下ネタというのは実際大したものだ。
これを最初に発明した人は、バイアグラ同様、ノーベル平和賞ものである。
下ネタは、生殖本能と生理本能(笑い)という人類の大きな宿命を
同時に快く刺激する国際仕様アイテムだ。
なのに、その社会的評価の低さというのは一体どーゆーわけか?
例えば、もっともらしい説教ネタや、原発マフィアのマスコミ操作ネタなどは、
下ネタさまの足元にも及ばぬではないか?
かくも純粋で崇高な使命感から下ネタをやらかしては、
下品だ、サイテーだと罵倒される私の身にもなってみろ!
だが、そういう私の叫びは、周囲からの四面楚歌によって空しく掻き消される。
「つまんねえ下ネタを年がら年中きかされるこっちの身にもなってみろ!」
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2012年11月10日(土)/その1197◇慧眼
「初めてお目にかかる小山さんはお若くて気さくで、
それまでの私のイメージとは正反対でした」
ライヴ会場で「パセオの小山社長ですか?」と声を掛けられ、
ちょっとだけ立ち話をしたチョー美人さんから、
その数日後、こんなメールをいただいた。
つまり、彼女におけるそれまでの私のイメージというのは
およそこんなふうに分析できるだろう。
「やたら気難しい老いぼれ爺い」
そのイメージは、先ほど洗面所の鏡で見かけた老いぼれとソックリだったのだが、
「お若くて気さく」であるはずの私は、
あのおっちゃんは一体誰なんだろう?って、ふと思ったことです。
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2012年11月12日(月)/その1198◇美味しい余韻
きのうの日曜マチネで、久々に生オケのモーツァルトを聴く。
フラメンコでもおなじみのあの"すみだトリフォニー"の
開館15周年の特別企画で、もちろん出演プレーヤーはハンパじゃない。
指揮はオーボエのスーパースター・シェレンベルガー、
オケは1952年創設の名門カメラータ・ザルツブルク、
ゲストは一般知名度も高い若手人気ピアニスト小菅優。
ヨーロッパの伝統オケというのは、やはり響きの肌触りが違う。
つまり、ヘレスのカンテ・プーロやトーケのように、
源流を想起させる懐かしさが、どこまでも深い奥行きを感じさせるのだ。
メインプログラムはピアノ協奏曲2曲、
26番(戴冠式)と、白鳥の歌となったあの27番。
そして、メロディを聴けば誰でも知ってる交響曲第40番。
押さえ気味に美しい弦の繊細精緻なアンサンブルは久々に聴くものだったし、
天上的な薫りの漂う管の歌声、特にフルート・オーボエの美しさには思わず息を呑む。
おまけに弦と管の良好な絡みとバランスは、最初から最後までほぼ完璧だった。
技巧豊かな小菅優のピアノはモーツァルトの天衣無縫を余すところなく歌った。
26番ではそのアプローチが見事に成功していたが、
27番については作品に対する私の思い入れが強すぎるために、
同様のアプローチはやや歌い過ぎに聴こえてしまった。
技巧や音楽性が100%であっても、
いかにモーツァルトが難関かということを思い知らされる。
それは、本当に凄いアレグリアスは滅多に降りない傾向を想起させる。
ラストのト短調40番は、この四十年に聴いたライヴ演奏の中でも突出していた。
この超名曲には録音名盤も多数あるのだが(私のイチ押しはフルヴェン)、
ダイナミックレンジと繊細な呼吸がストレートに伝わる優れたライヴ演奏には、
唯一無二の醍醐味があることを改めて実感出来た。
一世を風靡したシェレンベルガーのオーボエを彷彿とさせる彼の指揮振りが、
一日経った今になって、何とも好ましい上質な余韻となって脳裏をこだまする。
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2012年11月13日(火)/その1199◇哲学のススメ
苦悩する麗しの美少女アリス。
そして、暴走する単細胞少年テレス。
そんな二人が真摯に哲学を語り合う、苦悩と退屈のラブストーリー!
(パセオ社刊/絶賛在庫中!)
※ここらあたりで、オチが視えた人は相当に鋭い
『アリスとテレスの哲学問答』
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2012年11月14日(水)/その1120◇あなたもわたしも
「名曲は聴き手によって育てられる」
若いころはその意味がよく分からなかった。
ナニ云ってんだいっ、
すでに完成している作品なんだから、
今さら成長しようがねえじゃねーか、ってなもんだ。
ところが、ある曲がひんぱんに演奏されたり、
いろんな演奏家に演奏されたりすることで、
ほとんどの演奏家や聴き手が当初は気づけなかったその曲の真髄と魅力とが、
優れた演奏家や優れた聴き手によって発見されることがある。
この日曜に聴いたモーツァルトを契機に、ようやくそのことが腑に落ちた。
歴史を振り返れば、バッハもモーツァルトに対する評価も、
生前から死後かなり永い期間、極めて不当なものであり、
いや、膨大な彼らの名曲群はほとんど世間から忘れられていたことに気づく。
ところが、優れた聴き手によって、それが再発見される。
バッハで云えば、同じく作曲家だったメンデルスゾーンによって陽の目を見る。
その後バッハの演奏頻度は徐々に高まり、
スペインのカザルス(チェロ)や、カナダのグールド(ピアノ)による
決定的とも云える演奏録音が世界中に広まり、国際資産として定着することになる。
音楽メディアや口コミによって、聴き手はどんどん増える。
「カザルスやグールドのバッハを知らない音楽好きは、
セックスを知らない女好きのようなものだ」
純情高校生の私も、クラシックマニアの先輩たちにそう叩き込まれ、
その恩恵を与ることになる。
作曲当時はどんな演奏がされたのか?
その頃から、いわゆる「古楽演奏復興運動」が盛んになり、
この40年の間に膨大な量のライヴやレコーディングが行われ、
そういう流行は現在も続いている。
フラメンコで云うなら、あの大カンタオール、アントニオ・マイレーナが想起される。
さらに云うなら、詩人ロルカや作曲家ファリャも、そこに大きく貢献している。
さて、当然のように聴き手の耳は肥えてくる。
そして、より素晴らしいものを求める。
そして、演奏家はそれに応える。
優れた名曲群は、そのポテンシャルを解放される。
秘められた魅力は詳細にわたり解明され、聴き手に新鮮かつ極上の歓びを与える。
そのようなサイクルによって、名作は限りなく成長する。
それを育てるのは、優れた演じ手を含む優れた聴き手である。
アートを育てるものはアーティストを含む愛好家個人だ。
国家や財閥にそれを期待できる時代は終焉し、
だがしかし、チリも積もれば山となるのだ。
すべての愛好家の、その愛の総量がアートを育てる。
ライヴに出掛けよう、CDを買おう。具体的にはそういうことだ。
成長を続けるアートによって、愛好家もまた成長を続けることができる。
私たちは先輩たちに育てられたアートを手にする自由を得た。
ならば後輩たちにそれを引き継ごうとする心情が自ずと生じる。
ご先祖さまから親へ、親から子へ、子から孫へ・・・。
ささやかながら、そういう循環の一員で在りたい。
ボロは着てても心は錦。
人間だけに可能な、そういうプライドにあふれていたい。
あなたもわたしも、そしてパセオも。
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2012年11月15日(木)/その1121◇今日のシュール
これは昨晩パセオで、ふと思いついたシュールネタだ。
私自身笑いの止まらぬドツボだったのだが、編集部にはまるでウケない。
闇に葬る直前、ぜひ諸君らにご参列いただきたい。
「あのう、パリージョありますか?」(練習生)
「へーい、パエージャ一丁あがりぃ!」 (バルのおやぢ)