フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

しゃちょ日記バックナンバー/2012年11月①

2012年11月01日 | しゃちょ日記

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2012年11月1日(木)/その1188◇探しものは私の内に

 八時半には家に戻り、ひとっ風呂浴びる。
 鯛の刺身とお新香でぬる燗を呑りながら『相棒』。
 観終わったら朝までノンストップで爆睡。
 水曜夜には、こんな穏やかなパターンが定着しつつある。

 そういう後味で眠りにつけるテレビ番組は貴重だ。
 その意味では金曜深夜の『タモリ倶楽部』が双璧なのだが、
 金曜夜は呑み会が多いので、最近は見逃すことも多い。

 日曜はNHK将棋トーナメント、それと大河『平清盛』。
 ここらへんが近頃の定番であり、何だかんだ云ってもテレビは捨て難い。
 好ましいバランスのある番組というのは、好ましい余韻を残す。

 善悪には絶対的なものは無く、
 善悪のバランスの取り方にこそ善悪はある。
 
 最近読んだ文庫で、そんなような一節にドキリとした。
 探しものがふいに見つかったような感じ。
 だが、その感覚は私の中で知らないものではなかった。

 『探しものは私の内に』

 新年号から始まるフラメンコギターの巨匠・カニサレスの連載。
 この夏そのタイトルを付けたのは、他でもないこの私だったのだから。


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2012年11月2日(金)/その1189◇バランス

 高校時代から愛読し、パセオ創刊期に一時中断はあったものの、
 ここ十数年ばかりは欠かさず購入している月刊の音楽専門誌がある。
 ただし、この数号は買ってもいないし読んでもいない。

 些細な理由だった。
 あるピアニストの最新CDに対する評論家二者による論評の両方が、
 その優れた長所に触れることのない、余りにも見当外れに過ぎたものだったからだ。
 格別に好んで聴くピアニストではないのだが、
 そのCD演奏は豊かにして斬新であり、非凡な輝きに充ちたものだったから、
 そりゃねーだろうと、ちょっと哀しくなった。
 まあ、同じ人間のやることだし、そんな不可解はこれまで多々あったことなので、
 たまたま私の虫の居所が悪くて、ちょっと拗ねてる状態なのだと思える。

 こういう想いというのは、すぐに自分の仕事に跳ね返ってくる。
 パセオフラメンコの編集・執筆の在り方にモロ直結する問題。
 そう、明日は我が身、なのだ。

 悪評ばかりを蒙る政治家の中にも、いい仕事をしている達人が実在することを知った時、
 何故こういう事実を正当に評価・公表しないのかと憤然とする機会が最近いくつかあった。
 近ごろは、取材対象の長所には見向きもせずに、短所のみをわめき立てるような
 大方のマスコミの在り方にウンザリさせられることが多い。
 悪意に充ちたスキャンダラスな記事というのは、
 長期的に見て、それほど部数アップにつながるものなのだろうか?
 仮にそれで一時的に潤ったとしても、その先にはあるものは一体何か?

 自分と同じ人間なのだから、誰だってそりゃ善いことも悪いことも同時にやるもんだ。
 だが、そのマイナス部分だけを突っつき、プラス部分を無視するやり方には
 (もちろんその逆も、二番目に危険なやり方ではあるのだが)、
 取材対象はもとより、自らの希望と未来とを同時に抹殺する危険があると思う。

 四十年以上愛し続けてきた冒頭の音楽専門誌に、そういう醜悪な影をチラッと見たことで
 即ギレしてしまっている自分が実にオトナ気ないことにも思い当たる。
 もともと心潤す記事が満載の本なのだから、あとで書店に寄って最新号を買うとしよう。
 ついでに、きのうの日記でひとまず確定できたことを、今日も復誦しておくか。

 「善悪には絶対的なものは無く、 善悪のバランスの取り方にこそ善悪はある」


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2012年11月3日(土)/その1190◇三度目の降臨

 おとつい晩は高円寺エスペランサの木曜会。
 すでに二十余年つづく、業界なかよし呑み会だ。
 例によって下ネタ中心に大盛り上がりだったのだが、
 翌日は日本橋で、入交恒子さんのリサイタルがあるので、
 さすがに25時過ぎには家路をめざした。

 今でも気持ちは18だから、
 朝まで呑んでもなんのその!という気分は無いでもないが、
 そこに身体はついて来てはくれないところが遺憾である。
 まあ、実際にやるやらないは別として、
 そーゆーパッパラパーな気分は、いついつまでも忘れずにいたい。

 さて、その金曜晩の入交恒子リサイタル。

 期待通り、期待を上回った。
 入交はもの凄いソレアを踊った。
 エンリケの無伴奏トナを受けて登場する入交には、
 すでにその瞬間、ソレアが充満していた。
 「入っている」と感じるべきか、「降りている」と感じるべきか。

 もともと容姿も技術も抜群の人だから、
 そこにフラメンコが降臨するとモノ凄いことになる。
 そういう入交の決定的・歴史的瞬間を観るのはこれで三度目だ。
 カンテとギターとバイレが混然一体となって、フラメンコそのものになる。
 踊っているのは確かに入交なのだが、
 私の視聴覚と腐った心は、純粋なフラメンコで充たされている。
 その強烈なカタルシスは私を変えるだろうか。
 いや、そこまでは欲張るまい。
 とりあえず、この瞬間の美しい記憶に充足すればいい。

 こういうことが起きるから、せっせとフラメンコライブに通う。
 ついでに、せっせとパセオを創る。


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2012年11月4日(日)/その1191◇予定不調和

 吹く風は秋。
 
 こないだ買ったばかりという感覚なんだが、
 早くも年間スケジュール帳の買い替え時期だ。
 予定はすべてこの手帳に書き込む人なので、
 これを紛失すると大変なことになる・・・と思う。

 ゆとりをもって予定を書き込むのだが、
 そのゆとりがいけないのか、
 余計なことをやらかして、毎度予定がズレ込む。
 他者とのコンパスだけはきっちり押さえるが、それ以外がいけない。
 ただそこには罪悪感が生じるわけで、おそらくはそうした負い目からだろう、
 余計なことに対する情熱には、逆にいっそうの拍車がかかる。
 その情熱のパワーは、猛反対される結婚に対するそれに近しい。

 予定調和を嫌う、こうした天邪鬼な性格はいつごろ形成されたものか?
 残念ながら、少なくとも中学時代には確立されていたものと思われる。
 進学に価値を見い出せず、将棋の道に人生の活路を求めたのもその頃だ。
 いずれにせよ、私のスケジュール帳の用途には大きな問題がある。
 これを紛失すると大変なことになるという認識にも大きな誤認があるが、
 そういう寄り道に伴う行動量と経験値の増大には若干捨て難いものはある。

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2012年11月5日(月)/その1192◇1Q84

 偶然以外の何モノでもなかった。

 この秋は、藤沢周平の全作品を読み返す周期に入っていたのだが、
 風呂で読み込んだ幾つかの文庫がズタボロとなり、それらを新品に買い替えるべく、
 ライブ会場に向かう途中立ち寄った新宿・紀伊国屋書店でちょいと流れが変わった。

 発行当時かなりの話題となった村上春樹さんの『1Q84』。
 その新刊文庫本・全6巻が、よく目立つスぺースに積み上げられている。
 彼は国際的な人気作家であり、その半数ほどの著作を読んだが、
 それまでの私にはあまり相性の良い作家ではなかったようで、
 まったく期待せず、ただ気まぐれにその最初の2巻のみを購入した。

 『1Q84』というのは、ジョージ・オーウェルによる
 その後の人類の意識を改善した勇気ある超傑作『1984年』への何らかの含みを感じたし、
 また、実際の1984年という年は、二十代後半の私が
 月刊パセオフラメンコを創刊する個人的に忘れ難い年でもある。

 ライブ開演を待ちながらチョロリ読み始めたのだが、予想に反して導入から面白い。
 主人公は私とほぼ同じ歳であり、音楽の趣味にも近いものがある。
 奇想天外なストーリーもさることながら、
 物語に深く潜む作者の感性と思想にはドキュンと胸を射抜くものがある。
 残り4巻を翌日ご近所の書店で入手し、この土日で一気に読破した。

 一区切りをつける大仕事を片付ける予定の土日だったが、
 ここ数日左膝の具合が不調であることを予定不調和の口実に、パセオにも出掛けず
 自宅と近くのカフェを幾度か往復しながら昨日の夕方に読み終えた。

 ストーリーはさておき、幾つか(十カ所以上あったと思う)のスポットには、
 ボヤッと素通り出来ない黒光りのするインスピレーションがあった。
 これまでこの作家に注目できなかった理由が私自身にあったことも知る。
 これによって、私の未来進路には若干の変更が生じる可能性がある。

 それが運命による①予定調和であるのか、②私個人による予定不調和であるのか、
 あるいは、③その両方による相互作用の結果であるのか?
 それが正解でなくとも何らの支障もないが、私個人は③と決めている。
 仮に正解が①ならば、宇宙の神秘の強大な実行力を素直に賞賛できる。
 それが②ならば、宇宙の神秘の寛大な在り方に素直に感謝できる。
 それが③ならば、宇宙の神秘の抜群の対話力に心から共感できる。

 この年末年始は、四、五日ほど休めそうなので、
 そうした興味深いヒント群とじっくり対話してみようと思う。
 この歳になって、探しものは常に自分の内にあることに気づきつつあるが、
 優れたアートというのは、いつでもそうした発見の有力な触媒となる。
 フラメンコにおけるそうした発見をパセオにピックアップするのが私の主たる任務だ。

 私個人を例に採る場合、まずはその霊感部分をパソコンのWordに書き写してみる。
 次にそれを、自分の信じられる言葉に描き換えてみる。
 更にその心を、自分の体験に基づいた日記で表現してみる。
 仕上げとして、自分の言葉として嘘がない状態まで推敲する。
 そのようにして丹念な作業を続けた結果が、
 例外なく原典とは似ても似つかぬ愚物であることを毎度毎度嘆いているようでは、
 とてもじゃないが“自称ライター”とは自称できない。

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2012年11月6日(火)/その1193◇発見の旅

 しばらくの間、自宅パソコンの入力故障で、
 早朝の習慣だった日記が書けなかった。
 それはそれとして新鮮な気分を味わったのだが、
 やはりこうして日記を復活してみると、
 朝っぱらからそれなりのリズムが生まれて、生理的に楽しい。

 書くことは自分を整理すること。

 出版が職業なのに、営業一本槍で書くこととは無縁だった私が、
 それを実感したのはここ数年のことだ。
 頭やら心やらがあまりにも無整理で、
 このままだとクタバる寸前に相当あわてることになるなあ、
 自分をわからないまま死ぬのもやり切れんなあって想いが、
 四十代にはずっとあった。

 これまで自分がどんな人間であったか?
 このさき自分はどんな人間になりたいのか、
 あるいは、どんな生き様で死んでゆきたいのか?

 だから、五十代から毎日のように日記を書くようになって、
 毎日少しずつそれが分かるようになる変化には、
 少なくはない安堵と快感とが伴っていた。
 自分の善いとこ悪いとこが次々と明白になり、
 善いところが極めて少ないことに愕然としたり、
 大多数を占める悪いところの中にも、とりあえず修正出来るものと
 そうでないものの種別があることを発見したり・・・。

 ある時期から、そういう発見を仕事やプライベートに
 自然と反映することになるのだが、
 そしてそのことは時に億劫な冒険であったりもするのだが、
 同時にスリリングでもあり、それなりの手応えを感じたりもした。
 想えばそれは「旅」の感触によく似ていた。

 そうしたプロセス上の最も大きな変化は、
 「自由」もしくは「自主性」の意味合いを自分なりに確定できたことかもしれない。
 つまり、毎日の日記というのは、
 それまでの自分を窮屈に、かつ不明瞭に縛っていたものの正体を、
 明快に暴露する役割を果たしてくれたことになる。

 自分を縛る必要の有るもの。
 自分を縛る必要の無いもの。

 そのシンプルな種分けが容易になることは、
 大切にしたいものとそうでないものを明快に仕分ける
 思いのほか有効な変化であり、
 そんなことに近年まで気づけなかった私にとって、
 そりゃまるで「タナからボタ餅」的な天恵だった。

 ちなみに、「田中はボタ餅(オラシオン作)」とはちょっと違う。
 「渡辺に閉じブタ(オラシオン作)」ともちょっと違う。
                    

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2012年11月7日(水)/その1194◇逃避の角に頭ぶつけて蘇生することもある

 「愛とは決して後悔しないこと」

 ゆうべ何を食ったかさえ思い出せぬ人なのに、
 四十年も昔に観た映画のセリフを憶えている不思議。

 大ヒットした『ラブ・ストーリー』、邦題は『ある愛の詩』だった。
 ジェニファ弾くバッハのキーボード協奏曲が素敵だった。
 同級のツレと銀座で観たことも覚えてる。
 当時私は高二だから、生物学的にサカリの真っ最中であり、
 受験勉強には無縁の人で、バッハやパコ・デ・ルシアばかりを毎日聴いていた。
 そりゃ単なる逃避なのだが、
 一方でそれが仕事人となるための受験勉強であることには気づいていない。

 「愛」については、家族や仲間や恋人を想えばある程度イメージ出来たが、
 「決して後悔しないこと」という感覚はまるでイメージすることが出来なかった。
 持ち時間が豊富な青春期に、そうした実感を理解することは難しいものだ。
 持ち時間が切迫しつつある現在でさえ、そう断言することは難しい。
 ただし、こんな風になら今は云えると想う。

 おしなべて決して後悔しないこと、自らそう定義して朝な夕なに臨むこと。

 冒険と失敗の反復が恒常化している人間における、
 若干の哀愁をともなうアジの開き直り。


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2012年11月8日(木)/その1195◇希望の紡ぎ方

 リルケとかプルーストとかヴィトゲンシュタインとか。
 ジョイスとかヴェルナー・ヘンツェとか村上春樹とか。
 自らの理解の及ばぬアルテに、遠くから悪タレをつぶやいてた俺。
 四半世紀前、カリスマ・バイラオーラ碇山奈奈は、ヘベレケの私をこう諭す。

 「リルケが難解なんじゃない。リルケを理解しない人が怠慢なだけ」

 そうした一角をなす村上春樹が、『1Q84』でグッと近しくなった。
 そこには「バランス」を解明する強烈な光明があった。
 意外なことにそれは、「あきらめない」ことでもあった。

 淡い連想から、この秋他界したハンス・ヴェルナー・ヘンツェを聴く。
 ギター独奏による『王宮の冬の音楽』は、例によって革新と伝統の狭間を彷徨う。
 三十年前のプロモーター時代、西ドイツから招聘したトーマス・ミュラー=ペリングの愛奏曲。
 全体は無調だが、ある瞬間唐突に現れる美しい古典的メロディが、
 混迷の現代における「希望の紡ぎ方」のようにも聞こえてくる。
 左翼思想の同性愛者ヘンツェは、中道右寄りの女好きにさえバランスを与えようとする。

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2012年11月9日(金)/その1196◇下ネタさま

 いや、下ネタというのは実際大したものだ。
 これを最初に発明した人は、バイアグラ同様、ノーベル平和賞ものである。

 下ネタは、生殖本能と生理本能(笑い)という人類の大きな宿命を
 同時に快く刺激する国際仕様アイテムだ。
 
 なのに、その社会的評価の低さというのは一体どーゆーわけか?
 例えば、もっともらしい説教ネタや、原発マフィアのマスコミ操作ネタなどは、
 下ネタさまの足元にも及ばぬではないか?

 かくも純粋で崇高な使命感から下ネタをやらかしては、
 下品だ、サイテーだと罵倒される私の身にもなってみろ!
 だが、そういう私の叫びは、周囲からの四面楚歌によって空しく掻き消される。

 「つまんねえ下ネタを年がら年中きかされるこっちの身にもなってみろ!」


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2012年11月10日(土)/その1197◇慧眼

 「初めてお目にかかる小山さんはお若くて気さくで、
  それまでの私のイメージとは正反対でした」

 ライヴ会場で「パセオの小山社長ですか?」と声を掛けられ、
 ちょっとだけ立ち話をしたチョー美人さんから、
 その数日後、こんなメールをいただいた。

 つまり、彼女におけるそれまでの私のイメージというのは
 およそこんなふうに分析できるだろう。

 「やたら気難しい老いぼれ爺い」

 そのイメージは、先ほど洗面所の鏡で見かけた老いぼれとソックリだったのだが、
 「お若くて気さく」であるはずの私は、
 あのおっちゃんは一体誰なんだろう?って、ふと思ったことです。

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2012年11月12日(月)/その1198◇美味しい余韻

 きのうの日曜マチネで、久々に生オケのモーツァルトを聴く。

 フラメンコでもおなじみのあの"すみだトリフォニー"の
 開館15周年の特別企画で、もちろん出演プレーヤーはハンパじゃない。
 指揮はオーボエのスーパースター・シェレンベルガー、
 オケは1952年創設の名門カメラータ・ザルツブルク、
 ゲストは一般知名度も高い若手人気ピアニスト小菅優。

 ヨーロッパの伝統オケというのは、やはり響きの肌触りが違う。
 つまり、ヘレスのカンテ・プーロやトーケのように、
 源流を想起させる懐かしさが、どこまでも深い奥行きを感じさせるのだ。
 
 メインプログラムはピアノ協奏曲2曲、
 26番(戴冠式)と、白鳥の歌となったあの27番。
 そして、メロディを聴けば誰でも知ってる交響曲第40番。
 
 押さえ気味に美しい弦の繊細精緻なアンサンブルは久々に聴くものだったし、
 天上的な薫りの漂う管の歌声、特にフルート・オーボエの美しさには思わず息を呑む。
 おまけに弦と管の良好な絡みとバランスは、最初から最後までほぼ完璧だった。

 技巧豊かな小菅優のピアノはモーツァルトの天衣無縫を余すところなく歌った。
 26番ではそのアプローチが見事に成功していたが、
 27番については作品に対する私の思い入れが強すぎるために、
 同様のアプローチはやや歌い過ぎに聴こえてしまった。
 技巧や音楽性が100%であっても、
 いかにモーツァルトが難関かということを思い知らされる。
 それは、本当に凄いアレグリアスは滅多に降りない傾向を想起させる。

 ラストのト短調40番は、この四十年に聴いたライヴ演奏の中でも突出していた。
 この超名曲には録音名盤も多数あるのだが(私のイチ押しはフルヴェン)、
 ダイナミックレンジと繊細な呼吸がストレートに伝わる優れたライヴ演奏には、
 唯一無二の醍醐味があることを改めて実感出来た。
 一世を風靡したシェレンベルガーのオーボエを彷彿とさせる彼の指揮振りが、
 一日経った今になって、何とも好ましい上質な余韻となって脳裏をこだまする。

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2012年11月13日(火)/その1199◇哲学のススメ

 苦悩する麗しの美少女アリス。
 そして、暴走する単細胞少年テレス。
 そんな二人が真摯に哲学を語り合う、苦悩と退屈のラブストーリー!
 
                      (パセオ社刊/絶賛在庫中!)

 

 

 


  ※ここらあたりで、オチが視えた人は相当に鋭い

 

 

 

 

 

 

     『アリスとテレスの哲学問答』


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2012年11月14日(水)/その1120◇あなたもわたしも

 「名曲は聴き手によって育てられる」

 若いころはその意味がよく分からなかった。
 ナニ云ってんだいっ、
 すでに完成している作品なんだから、
 今さら成長しようがねえじゃねーか、ってなもんだ。

 ところが、ある曲がひんぱんに演奏されたり、
 いろんな演奏家に演奏されたりすることで、
 ほとんどの演奏家や聴き手が当初は気づけなかったその曲の真髄と魅力とが、
 優れた演奏家や優れた聴き手によって発見されることがある。

 この日曜に聴いたモーツァルトを契機に、ようやくそのことが腑に落ちた。
 歴史を振り返れば、バッハもモーツァルトに対する評価も、
 生前から死後かなり永い期間、極めて不当なものであり、
 いや、膨大な彼らの名曲群はほとんど世間から忘れられていたことに気づく。

 ところが、優れた聴き手によって、それが再発見される。
 バッハで云えば、同じく作曲家だったメンデルスゾーンによって陽の目を見る。
 その後バッハの演奏頻度は徐々に高まり、
 スペインのカザルス(チェロ)や、カナダのグールド(ピアノ)による
 決定的とも云える演奏録音が世界中に広まり、国際資産として定着することになる。

 音楽メディアや口コミによって、聴き手はどんどん増える。
 「カザルスやグールドのバッハを知らない音楽好きは、
  セックスを知らない女好きのようなものだ」
 純情高校生の私も、クラシックマニアの先輩たちにそう叩き込まれ、
 その恩恵を与ることになる。

 作曲当時はどんな演奏がされたのか?
 その頃から、いわゆる「古楽演奏復興運動」が盛んになり、
 この40年の間に膨大な量のライヴやレコーディングが行われ、
 そういう流行は現在も続いている。
 フラメンコで云うなら、あの大カンタオール、アントニオ・マイレーナが想起される。
 さらに云うなら、詩人ロルカや作曲家ファリャも、そこに大きく貢献している。

 さて、当然のように聴き手の耳は肥えてくる。
 そして、より素晴らしいものを求める。
 そして、演奏家はそれに応える。
 優れた名曲群は、そのポテンシャルを解放される。
 秘められた魅力は詳細にわたり解明され、聴き手に新鮮かつ極上の歓びを与える。
 そのようなサイクルによって、名作は限りなく成長する。
 それを育てるのは、優れた演じ手を含む優れた聴き手である。

 アートを育てるものはアーティストを含む愛好家個人だ。
 国家や財閥にそれを期待できる時代は終焉し、
 だがしかし、チリも積もれば山となるのだ。
 すべての愛好家の、その愛の総量がアートを育てる。
 ライヴに出掛けよう、CDを買おう。具体的にはそういうことだ。
 成長を続けるアートによって、愛好家もまた成長を続けることができる。

 私たちは先輩たちに育てられたアートを手にする自由を得た。
 ならば後輩たちにそれを引き継ごうとする心情が自ずと生じる。
 ご先祖さまから親へ、親から子へ、子から孫へ・・・。
 ささやかながら、そういう循環の一員で在りたい。
 ボロは着てても心は錦。
 人間だけに可能な、そういうプライドにあふれていたい。
 あなたもわたしも、そしてパセオも。


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2012年11月15日(木)/その1121◇今日のシュール

 これは昨晩パセオで、ふと思いついたシュールネタだ。
 私自身笑いの止まらぬドツボだったのだが、編集部にはまるでウケない。
 闇に葬る直前、ぜひ諸君らにご参列いただきたい。
 

 「あのう、パリージョありますか?」(練習生)

 「へーい、パエージャ一丁あがりぃ!」 (バルのおやぢ)


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しゃちょ日記バックナンバー/2012年11月②

2012年11月01日 | しゃちょ日記

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2012年11月16日(金)/その1122◇同音異義

 「人身売買」
 これはやられたくないことだから、
 自分でも決してやってはいけない。
 
 「人心バイバイ~!」
 これもやられたくないが、
 女心からバイバイされるケースはことのほか多い。
 
 おやぢギャクと下ネタと体重を減らし、
 毛髪と人徳を増やすことが当面の課題か?
 
 絶望的とも云える課題に立ち向かう私の姿勢そのものが、私の胸を打つ。
 これは「課題評価」と呼ぶべきだろう。


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2012年11月17日(土)/その1123◇混血の忍び

 混血の忍びのイケメン、
 哲学する実存主義忍者の野望と苦悩とバナナ好き。
 日仏合作映画、待望の自主上映決定!

 

 

 

  ※ここらあたりで、オチが視えた人は相当に鋭い件

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           『サルトル佐助』

 




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2012年11月18日(日)/その1124◇スーパーハーフ

 「となりのフラメンコの社長さん、
  ハーフの方なんですか?、だってさ」

 溜めに溜めた書類整理を半日掛かりで済ませ、
 グッタリしつつお隣りのカフェにサボりに行くと、
 いきなりママがこう云う。

 そこそこ美人のランチタイムのパートさんが、
 私についてそう尋ねたらしい。
 うんと幼い頃の私はド金髪だったので、
 よく外国人に間違えられたようだが、
 最近はせいぜいトムクルーズに間違えられる程度だ。

 「ニッポンとスペインのハーフかと思ったのかな?」

 こう云う私に、すかさずママは答えた。

 「それはどーだろ。地球人と火星人あたりじゃない?」


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2012年11月18日(日)/その1125◇放任主義

 編集と執筆の現場仕事がひと段落して、
 およそ三年半ぶりで一息ついている。

 営業や販売のテコ入れやら社長業やら、
 溜めに溜めたデスクワーク等々が嬉しげに待ち受けているが、
 若干億劫ながらも、手慣れたな仕事なので、まあ気楽は気楽だ。

 骨は折れるが読み応えのある本をじっくり読んだり、
 懐古趣味に走ってバッハ以外の地味~なバロックを聴いたり、
 愚にもつかねえアホ日記をやたら書きなぐったりと、
 ここ数日、プライベート面にもろもろ不揃いな変化が生じている。
 
 来年三月に着手する予定の仕事に手を出したり、
 再来年の記事企画を具体的に追い込み始めたりと、
 ぼちぼち編集関連のフライングも顕著になりつつあるが、
 追われるよりも追っかけに走る傾向を黙って放任している。

                 
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2012年11月19日(月)/その1126◇もののあはれ

 「もののあはれ」。
 ある種の非日常に出逢うとき、思わず「ああ、はれ」とつぶやく、
 美的感傷を伴いながらしみじみ内へと沁みゆく、どこか懐かしい心の働き。

 江戸後期の本居宣長が、平安の『源氏物語』の不道徳の中に発見したこの価値観は、
 揺れ動く人の心が物事にふれて感動し、その趣きを深く感受する働きを絶賛している。
 徳川幕府が奨励する勧善懲悪の儒教思想は、社会をよく治めようとするが、
 清濁併せ持つ人の心を治めるまでには至らず、宣長流ルネサンスは日本全国に浸透する。

 その洞察がわれら日本人の魂に奥深く根ざしている事実に今さらながら驚く。
 宣長の直観は、フロイトの発見に匹敵するものだと私なんかは想う。
 いつの時代もアート(そしてユーモア)は、自家中毒を起こしかける社会倫理に対し、
 「ホントはこーじゃねーの?」と突っ込むことで、世の中のお役に立とうとする。

 「もののあわれーっ?」
 そんな弱っちい感覚に溺れて、きびしい世の中渡ってゆけるワケもねーさ。
 それが世の中に揉まれ始めた中学高校当時の私の実感であり、
 力強い勝負の世界や西欧文化の領域に迷わず踏み込んで行ったのは、
 あまりにしっくり来てしまう「もののあはれ」な感覚に逆に不安を覚えたからだと、
 そういう幼く粗暴なバランス感覚を、今ならば苦笑とともに分析できる。

 「もののあはれ」というのは、漠然とする個人の抒情を普遍化する美的理念だ。
 島国日本の美しい自然と四季、そして天災の多さは、
 「哀れみと同情」から「美と感動」という独自のルートを生み出した。
 それは知性や理性ではなく、心のヒダそのものが直観するインスピレーションであり、
 論理や大義名分のみを根拠に驀進する人種には分かり辛い感覚だった。
 私たちは咲きゆく桜に青春を楽しみ、散りゆく瞬間にその愛しい想いは頂点に達する。
 そこがいいんだ、だからこそ美しいという感覚は、いわゆる造花文化と根本的に異なる。

 もののあはれに溺れていては食ってはいけないと私は考えた。
 だがしかし、私の中の愛しい想い出と云うのは、ほぼ例外なくそこにシンクロしている。
 社会倫理的な善悪を超越するそうした儚くも美しい感覚こそが、
 サバイバルの拠り所、あるいは希望となっている一方の事実。

 もちろん例えば、フアン・タレーガの渋き幽玄の中にも、
 パコ・デ・ルシアの『シロッコ』の懐かしい響きの中にも、
 最近ではマリア・パヘス舞う『白鳥』の哀切の中にもそれは在る。
 強弱遠近の異なりこそあれ、それは決して日本固有のものではないのだろう。

 「平気で他人や他国を批判できて、自らを省みることがない人たちは、
 『もののあはれ』が少し足りないのではないか」
 脳科学の茂木健一郎さんは鮮やかにこう看破したが、
 そこに手放しで同調する前科者(私)を、苦笑とともに眺める。


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2012年11月20日(火)/その1127◇十五で姐やは嫁に行き

 土曜朝のテレビ。
 童謡『赤とんぼ』を英語で歌うおっちゃんは、
 日本の童謡をこよなく愛すアメリカ人。
 歌も巧いし、自らの英訳もシックリ来て実に素敵だ。

 「姐(ねえ)や」の英訳に苦労したと云う。
 「慕っていた姉を失ったように寂しかった」と彼は訳した。
 (Like a sister, lost, I loved and missed her)
 ああ、ニュアンスわかってるなあ!と、痛く感心した。
 そこにはきっと、カンテフラメンコを日本語訳で歌うような難しさがあるに違いない。

 その昔、実は彼女は嫁に行ったのではなく、
 十五で東京に売られたのだとする解釈を聞いたことがある。
 三木露風が作詞した頃の時代背景を考えれば有り得ることだ。
 (山田耕筰によるメロディがシューマンに酷似していることも興味深い)

 懐かしい日本の情緒に癒される童謡の世界の、
 その奥に織り込まれているかもしれない当時ゆえの厳しい現実に
 若い私はショックを受けたが、それを機に日本の童謡に強く惹き込まれることになる。
 「ひい爺さんに連れられーてー♪」などと歌ってる場合ではないことを知ったのだ。

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2012年11月21日(水)/その1128◇五十歩百歩

 「助ける力は、助かる力とイコールだな」
 「・・・???」
 「人を助ける力は、自分が助かる力と、結果的にイコールだってことだよ」
 「・・・それは今日の宿題ですね」
 「いや、お前はすでにわかってるから」
 「結局は、ギブ&テイクということですか」

 昨日火曜は19時から、写真家・大森有起と各種ガチンコ・ミーティング。
 チャチャ手塚の写真セレクト、創刊30周年大型企画の詰め、
 その他いくつかのプロジェクトの作戦会議。

 クオリティアップを目的にがっぷり四つでぶつかって来る大森なので、
 そのスリリングな攻防は将棋を指すように楽しい。
 相手を打ち負かす闘いではなく、
 叩き合いながら共に正解を発見する勝負が楽しい。
 
 気が付いたら23時だった。
 終電まで呑むかと云うと、待ってましたと彼は笑った。
 彼の主催した東北チャリティ・フラメンコをねぎらう必要があったから、
 少し上等なところで呑ませようと思っていたが、
 この時間では朝までやってるヤキトン屋しかない。

 冒頭は山手線での別れ際の会話。
 初めて会った頃は三十そこそこだった大森も四十半ばとなった。
 生意気具合は相変わらずだが、コミュニケート能力については少しはマシになった。
 今ごろ奴も、私について、きっと同じことを考えていることだろう。

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2012年11月22日(木)/その1129◇石川慶子/難しくて、よかった

 君はなぜ踊るんだろう?

「言葉を喋るのが苦痛で仕方なかったけど、自分の存在は認めて欲しかった。
 だから言葉の要らない世界で表現することを望んだのだと思います」

 言葉を喋るのが苦痛で仕方なかったのに国語の先生かよっ(笑)

 「困ったものです。矛盾だらけでしょ私(笑)」

 最近どんなの読むの?

 「相変わらず小説オンリーで、村上春樹、江國香織、村上龍、小川洋子。
  それと大江健三郎もエロティックなところが好きです」

 小説は書いたことある?

 「昔の昔は書いてましたけど、今は人生の方がはるかに面白いのでやめました。
  これだってことは日常的に書き留めておく習慣はあります」


 この夏の新人公演で奨励賞に輝いた元美人高校教師・石川慶子は、
 わたし的奨励賞の筆頭であり、かつ古くからのマイミクさんであった。
 上記は12月号しゃちょ対談の一節だが、
 けいこの発する言葉は、彼女の踊るフラメンコに酷似していた。
 とりわけソレアとシギリージャのイメージを語るくだりは、
 悩める練習生たちに大きなヒントと希望を与えることだろう。

 苦手だった村上春樹の全六巻(1Q84)を近頃イッキに読破出来たことも、
 実は彼女との対話の影響だったことに、つい先ほど思い当たった。
 難しくて、よかった・・・私もそう思うよ(笑)


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2012年11月23日(金)/その1130◇徳永兄弟/冷静にマイナスできる人

 小倉青年「僕は、彼らは引き算が上手なんだろうなと当たりを付けています。
  外連味とか不自然な派手さが無いのはその証拠じゃないかと。
  本当に上質なものに厳選されている。
  いろいろアイデアがあった中から、着地点のイメージを持って
  彫刻家のように削っていったのでは?」

 編集長「おそらくそりゃ当たったると思うよ。
  それこそがセンスの良さってもんだろう。
  フラメンコが失敗する理由の多くは"盛り沢山"だったりするから」

 小倉青年「冷静にマイナスできる人って、やっぱりすごいんですね」


 9/22の徳永兄弟の東京デビュー公演について、
 12月号・本文3ページに渡り、小倉と私で語りまくっている。
 編集構成は相棒の担当なので、私はあとで朱を入れるだけの楽チン企画。

 「フラメンコが失敗する理由の多くは"盛り沢山"だったりするから」

 今年だけでも、そういう劇場フラメンコを六つばかり観た。
 素材(出演者)が極上だけに、もの凄く悔しい思いをすることになる。
 締まらぬフィン・デ・フィエスタが本編の美しい余韻を台無しにすることもあった。
 一生もんの感動が、印象としてはそこで吹っ飛ぶのだ。
 天井を見上げ「何故だあっ!?」と心に叫ぶ。
 フルコースで満腹のあとに大盛のカツ丼・天丼をニッコリ差し出されるのは
 サービスではなくもはや拷問に近いから、動員リピーター率は確実に激減する。

 つまり、好ましい記憶を深く心に刻む余韻というものがまるで考慮されてない。
 アレとアレを削って、これこれこういう順番に並べれば、
 必ずリピーター率は激増するのに!
 舞台好きの共通見解となる、そういう普通の方程式が視えてないケースも多い。
 開演時刻から客出しまで、休憩ナシは90分以内、休憩アリは120分以内。
 カリスマを囲む宗教的熱狂のライブならまた別の話だが、
 劇場フラメンコの一般リピーター客を育てるには、そこらへんは鉄則なのだ。

 「冷静にマイナスできる人って、やっぱりすごいんですね」
 そう、素材を殺し合うフラメンコのテンコ盛りは逆効果を生む。
 すでに劇場フラメンコの共有財産となった、
 徹底した引き算によるガデスやマリパへの舞台構成と美しい余韻。
 一生の想い出の布石となり得る、ああしたフィジカル面の創意工夫を
 舞台人なら誰もが身に染みて実践すべき時代であると私は想うな。


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2012年11月24日(土)/その1131◇フラメンコな工夫

 わが家の守護犬ジェーが体調を壊し医者にかかっている。
 十歳になる愛しの相棒にも、さすがに老いが訪れつつある。
 彼が人間ならば、すでに私と同世代なのだから。

 彼の相棒(私)も先ごろ膝を故障し医者にかかったところ、
 「まあ、老化ですね」と淡々と診断された。
 元気な頃には元気は当たり前で、そこに感謝はない。
 いつまでもそんな状況が続くものだと楽観している。
 
 じゃあ老化に怯え毎日ビクビクしながら、細心の注意を払う生活はどうか?
 ・・・残念ながらそれはグータラなジェーにも私にも適してない。
 57年の間したいように生きて、これまで無事だった僥倖に感謝しつつ、
 何かにつまずけば、まあしょーがねえだろと苦笑するのがオレらにはお似合いだ。

 楽しいことは楽ではないし、そうそういつまでも続かない。
 だからこそ、そういう時期、そういう瞬間を全身全霊で味わい尽くせばいい。
 同様に、苦しいこともまた楽ではないが、そうそういつまでも続かない。
 その苦しみと共存するための新たな発見に没頭すればいいと、自分に云ってみる。
 人間至るところ青山(せいざん)あり。
 さまざまな希望に没頭した愛しい記憶も皆、やがては懐かしい青山となるだろう。
 また、そうした先に生命にとって平等の権利たる絶対救済(死)が
 安らかな受け皿として待機している。

 現在という瞬間は、やがて訪れる死を前提に、
 ほんの一瞬で新たな過去と新たな未来を創る。
 私としては、そこに「愛しさ」の萌芽の最善形を見い出したい。
 愛しさという刹那にして永遠なる感覚そのものが、仕事やら金やらの鉄板を突き抜け、
 いつの間にやら優先順位のトップに躍り出ていることに驚いたりもする。
 そういう愛しさを五感と第六感で発見し続けるフラメンコな工夫こそが、
 年寄りなりの新たな挑戦に歓びをもたらすものではないかと、
 例によって若干勘違い気味に暴想している。

          
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2012年11月25日(日)/その1132◇フラメンコ流

 曲がりなりにも間借りなりにも毎日文章を書いていると、
 自分の内のボーダーラインのようなものが幾つか視えてくる。

 褒められることなど滅多に無いが、
 ケナされたりクサされたりすることは売るほど有るわけで、
 社会的にはどこまでオッケーかという傾向が、ぼんやり分かってくる。

 無責任な悪口、愚痴や云い訳、実はやる気のない決意などなど、
 これらは世界中がゲンナリしている近頃の各種メディアみたいで、
 当然ながら心ある人々の共感は得られない。
 不毛なおやぢギャグや下ネタなども同様である。
 誰だ、こんなの書いたのは? いけね、そりゃオレだ、なんてケースは数えきれない。

 さらに私個人の限界点については、こりゃかなり明確に視えてくる。
 ウッカリよゐ子ぶって書くと、全編ウソまみれになる。
 毎日毎日ぼくらは鉄板の~フラメンコを観聴きしているので、
 自分のウソはすぐわかる。
 こりゃいかんと次々にウソを削除してゆくと、
 「さて」とか「ところが」とか「つまり」みたいな接続詞しか残らない。

 つまり、私に残される道は、
  ①接続詞のみで文章を書くこと、

 あるいは、
  ②心の風景をそのまま描写すること、
   そうした風景そのものを、少しずつ好ましいものに日々改善すること。


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2012年11月26日(月)/その1133◇希望という名の41歳誕生日

 カサ・デ・エスペランサ/41周年特別企画
 (AMI/渡部純子/本間静香/神谷真弓ほか)
 11月23日(金)/東京(高円寺)エスペランサ
 【バイレ】AMI/渡部純子/本間静香/神谷真弓
 【カンテ】有田圭輔/勝羽ユキ
 【ギター】片桐勝彦/石井奏碧


  希望という名の41歳誕生日 

 愛されるギタリスト片桐勝彦がメンバーを紹介するラストシーンで、
 この日この老舗タブラオが41回目の誕生日を迎えたことを知る。
 ここ最近(約三十年)は親しく通うエスペランサだが、
 店が生まれたのは高校生の私がパコ・デ・ルシアに目覚めた頃であり、
 フラメンコが好きだと云うと鼻で笑われた当時の、フラメンコに対する
 ゼロと云うよりマイナス寄りの社会的認知度を想うとちょっと感慨深い。
 
 オーナーの田代淳は、設立から現在に至るまで日本フラメンコ協会を
 縁の下から支え続ける業界屈指の重要人物である。
 協会も今年で設立22年目になるのだが、そのどちらも、
 モンスターであることを自覚しないモンスターたちの
 心無い中傷や妨害の荒波を乗り越えながらの永い歳月だった。
 そう、やたら気が長くて気のいい田代淳という人は、
 どうあれ決して希望(=エスペランサ)のともし火を絶やさぬ男だ。

 さて、42年目の幕開けとなるそのスペシャル企画三日間の中日は、
 冒頭の如くドキリとするような顔ぶれ。
 若い原色の華とインパクトで2008年新人公演奨励賞に輝いた神谷真弓は、
 落ち着きある端正なエレガンシアを新たに獲得していた。

 ジャックナイフのような鋭い華で2010年の奨励賞をブッチ切った
 本間静香のやや硬質な鋭さは、柔らかさを帯びた艶のあるシャープさに熟成され、
 男心を射抜くエキサイティングな舞いにも磨きがかかり、
 美しいブラソの軌跡が深く脳裏に残る。

 期待通り渡部純子は後半のアレグリで満員のタブラオをドッカーン!と爆裂させた。
 「あんなふうにアレグリ踊りた~い!」みたいなお祈りがいろんな所から聞こえてくる。
 共演者と客席を巻き込みながら熱風グルーヴを巻き起こす、
 何をやってもサマになるこの大姐御を観るのはまだ四度目だが、
 毎回変幻自在にスパークするそのポテンシャル総量については
 現段階では推測さえ出来ない。

 そしてAMIは女王の貫禄でこの特別なライヴを、
 ソレアの希望とともに締めくくった。
 音楽と精緻に一体化しながら、重厚なフラメンコドラマを
 パーフェクトに舞う美の化身のような風格。
 初めて感じたことだが、AMIのバイレラインからは、
 なぜかドイツ・ロマン派の重厚な伝統美に充ちた和声が聞こえてくる。
 それは例えばブラームス『雨の歌』、ヴィオロンのため息と希望の葛藤。
 ロマン派全盛の時代にあっても、薫り高い古典的格調を
 忘れることのなかったブラームスの美しい旋律と希望のともし火。


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2012年11月27日(火)/その1134◇もみもみツアー

 代々木上原のソフィア・ローレン。
 すでに十五年通う、地元行きつけの美人女将が広尾のホスピスに落ち着いた。

 そんなんでその翌週のきのう午後、仕事を放っぽりだし、
 ヒデノリ、サトル、アキラと私の仲良し四ったりで秀の前に15時40分集合、
 アキラのロールスロイスに乗り込み、
 われらの永遠のマドンナ・ユウコに逢いに往く。

 アキラには薔薇の花束、サトルには極上握り寿司、ヒデノリには小倉餡の高級和菓子と、
 女将好みの手土産を各々に振ったものの、ではオレはどうすっか?
 そんじゃあ俺ゃオッパイでも揉ませてもらうかと、女将の長女(現店長)に問うと、
 「あ、それ一番喜ぶかも!」と即座に承認された。

 およそ三ケ月ぶりに逢う女将の、あの快活な機転は衰えるわけもなく、
 寄る年波で膝が痛えよと私が云うと、
 じゃあ、あたしとここに寝泊まりしなさいとのお言葉を賜った。
 およそ一時間、高級ホテルのように小奇麗な彼女の部屋でバカ笑いしたのち、
 女将が命を注ぎ込んだ上原の店へと向かい、何とも云えぬ余韻を肴に皆して呑んだ。

 ご近所の高倉健的アイドルだった行きつけの大将・秀が逝き、すでに四年半。
 その連れ合いである女将が、いざ火葬の段階でわんわん騒ぎ出したシーンを想い出す。
 三十代のアキラ、四十代のヒデノリとサトル、そして最年長五十代のおれ。
 皆一匹オオカミで健康診断嫌いの呑み助なわけだが、
 まあ願わくば、せめて順番通り逝きたいもんだと、私は想った。

                  
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2012年11月28日(水)/その1135◇有田圭輔/助ける力

 「フラメンコに何が出来るか?」

 自らリーダーシップを執ったフラメンコTシャツ・プロジェクトによって
 五百万円を上回る震災義援金を贈ったことも記憶に新しい。
 やるべきことをやり、聴くべきことを聴き、云うべきことを云う。
 豪快にして礼儀正しい圭輔と呑む酒は実に旨い。
 他者とのしなやかなコミュニケート能力は"リクルート"における
 十年間の猛烈サラリーマン時代に培ったものだろうか。

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 パセオ12月号の表紙とcon flamencoは、超人気カンタオール有田圭輔。
 上は拙者による拙文の抜粋。
 圭輔とサシで呑んだのは三度ほどだが、ステージにおける彼の生きざま同様、
 人と人とのキャッチボールのやり方に本筋のセンスを感じさせる男だ。

 本筋とはガップリ四つで相互に反応し合う姿勢のことだ。
 現代のコミュニケーションは自分の城に閉じこもる傾向が主流だから、
 こういう本格的なバランスに出食わすと、思わずハッとさせられてしまう。
 「フラメンコに何が出来るか?」
 そういう視界で酌み交わす旨い酒には、豊富な栄養素が含まれている。
 周囲を助ける力は、自分が助かる力に、実は比例していると私は想う。
 さて、圭輔のアルテを私はこう締め括る。


 結論から云うと、圭輔の歌声には人が生きることを助ける力がある。
 どんな境遇にあろうとも、生きるということそれ自体が
 本来明るいことを思い出させる響きがある。
 その懐かしくも逞しい響きは、誰もが秘めるそれぞれのポテンシャルに
 勇気と行動を与えるグルーヴに充ちている。

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2012年11月29日(木)/その1136◇小さい秋見つけた

 『小さい秋見つけた』

 その不可思議な歌詞と
 もの哀しげな美しい旋律が好きで、
 ギターを弾いて食ってた若き日、
 へぼな編曲を施し、秋のころには毎日店で弾いてた。
 もう35年も昔の話だ。

 作詞サトウハチロー、作曲中田喜直によるこの名曲が、
 私の生まれた1955年( 昭和30年)に創られたことをある時知った。
 NHKのラジオ番組用に創られた曲だというから、
 父の仕事場のラジオから流れてくるこの曲が、
 当時ゼロ歳の私の耳に深く刻まれていた可能性も大いにある。

 あの幻想的な歌詞がふと気になってネットで調べてみた。
 信憑性の高そうな興味深い解釈がすぐに見つかったのだが、
 ネット社会の恩恵を実感するのはこんな時だ。
 詳細で丁寧な解説のあと、著者はこう締めくくっている。

 「病の床に伏している子供が、外界の子供の遊びや自然の遠い微かな喧噪、
  病室のわずかな隙間からくるひんやりとした風、
  母に手を引かれて行って見た秋の夕暮の
  風見鶏のトサカに掛かる赤いハゼの葉の想い出などから、
  自分だけが感じた秋の息吹、すなわち小さい秋をみつけた」
 http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-chiisaiakimitsuketa-con.html


 「秋来ぬと目には彩かに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」

 解説にスマートに引用されるこの藤原敏行の名歌に、
 ようやくのことで、この秋を実感したりして。

               
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2012年11月30日(金)/その1137◇響き合い

 ほぼ毎日の日課となったミクシィ日記は、
 朝めし前のわずかな時間で書き込むことが出来るが、
 お仲間日記へのコメント書き込みは意外と難しい。
 きのう久しぶりに書き込んできたコメントを先ほど読み返してみたのだが、
 そのあまりに冷や汗もんの内容に、こうして反省文を書くに至る。

 日記の主人と客人たちの心のこもったコメントのやりとりというのは、
 まるで室内楽の好ましいコミュニケーションのようなふくらみがあって、
 独奏(日記)とはまた異なる「響き合い」の魅力がある。
 私にもそういう憩いの場が十ばかりあるのだが、そこでのやりとりを読んで、
 人の心のふれあいの絶対的な価値を再認識することも多い。

 お仲間たちの日記にはそれぞれの世界観や空気感があって、
 また、そこに出入りする人たちの暗黙のルールというものがあるから、
 それらを損なうことなく、ささやかながらもそこにプラス要素を持ち込みたい。
 さらに、相手も多忙なわけだから返しやすいボールをサクッと投げたい。
 自分の日記にそういうコメントを寄越してもらうと、
 大喜びでコメントを返したくなるわけだから、
 私としてもそんなふうなコメントを書き込んでみたい。

 スッと入ってスッと抜けるブレリアの呼吸で書ければバッチリなんだが、
 今の私はどうにも空気の読み方感じ方が甘くて空振りするケースがほとんどだ。
 どうやらこうした「響き合い」の世界というのは、
 私にとって学びと癒しの宝庫であるような気もしてきた。

            

 ※この反省文を書いてから間もなく、
  注目する日記のひとつにコメント(↓)を書き込んで来たが、
  http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1882634288&owner_id=6763710 
  いま読み返してみたら、
  もう一枚始末書を書く必要が生じていることに気づいた(汗)
                   
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