フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

しゃちょ日記バックナンバー/2012年6月①

2012年06月01日 | しゃちょ日記

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 2012年6月1日(金)/その1063◇夢の途中

 人それぞれ、目的はそれぞれだ。
 私ひとりの中でも、時とともに目的は変わる。
 不変なのは女と金くらいだ。

 都電の運転手、月光仮面、野球選手、将棋棋士、ギタリスト、
 レコード・ディクター、コンサート・プロモーター・・・、
 この他ポルノ男優など公表しづらいものも二・三あるが、
 私ひとり例にとっても、その目的はコロコロ変遷してきた。

 運よく現在は、零細出版社の無能社長と不良編集長を兼任しているが、
 明日のことはわからない。
 だからこそ懸命に、ゆえに楽しくやってゆける仕組みなのだろう。

 職業や肩書きや結果が目的となる時期は、
 五十代後半の私の中ではさすがに終わっている。
 では、詰まるところは何か?
 おぼろげながらも、その輪郭だけは視えている。

 なかなか願い通りには運ばないスパイスの利いた現実の中を、
 ほぼ無意識の状態でそこに近づきながら周遊するパセオ(散歩)
 そのものがその輪郭の実態であり、
 どこまでも歩いていたいが、いつ途切れても文句はない。  


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 2012年6月1日(金)/その1064◇云い訳

 過去の20冊ほどのビジネス手帳を処分するために、
 ほんのわずかに散見できるおやっという部分のみをワードに移植しながら
 パラパラとめくっていると、後ろの方のメモ欄でこんな一節に出喰わす。
 手帳の年度を見ると、メモ書きしたのは四十代半ばだ。

 「経営者なんだから、もろもろその覚悟があればいい。
 一方で、学習が好きなら、そこにもっと没頭してもいいんじゃないか。
 アートが職業なんだから、アートの学習が悪かろうはずがない。
 内省化が強まることでモラトリアムに向かうことを懸念してるのだろうが、
 お前はそんなタマか?と云いたい。
 むしろ学習の成果を、積極的に職業に反映させることを志すべきだろう」

 まるで当たらないことで知られる私の予言だが、
 肝心の成果さえさておけば、その方向性はそれほどズレちゃいないことに驚く。


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 2012年6月2日(土)/その1065◇将棋とショパンとカロリーナ

 史上初の快挙達成!という見出しが、週刊将棋の紙面に踊っている。

 ポーランドの女大生が、公式戦(リコー杯女流王座戦)で
 日本の女流プロ棋士(三段)を破ったのだ。
 男子主流の将棋界だが、近年の女子プロは男子を負かすことも多い。
 そういう女子プロに勝利したカロリーナは、インタビューにこう応答する。

 女流棋士になる気はありますか?
 「もちろん! イエス!」
 プロになるには日本に滞在し、資格が必要です。
 その方向で目指しますか?
 「そのつもりです」

 ポーランドと云えば、あのショパンである。
 『カヴァティーナ組曲』など数々のギター名曲を創った
 アレクサンドル・タンスマンも同じくポーランドの人だ。
 ただそれだけのことながら、ポーランドは若い頃から憧れの国だった。

 そのポーランドの若く美しい女性が、日本の将棋に憧れる。
 ただそれだけのことながら、何やらとてもうれしい。


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 2012年6月3日(日)/その1066◇便利なポッケ

 『阿川佐和子のこの人に会いたい』
 『ツチヤの口車』
 『先ちゃんの浮いたり沈んだり』

 これら目当てに、週刊文春をほぼ毎週読む。
 さすがはあの文藝春秋社、パセオの次に面白いと思う。
 (『しょちょ日記』さえやめてしまえば、パセオは一流誌なのだ)

 さて、その文春最新号で「新型ウツ」特集を読む。
 ふだんは普通だが、職場でのみウツになるという症状が特徴らしい。
 従来型が自分を責める傾向が強いのに対し、
 この新型は他人を猛攻する傾向が顕著だと云う。

 会社から休暇をもらうために、専門医にウツを自己申告し、
 「診断書ゲットー!」とネット投稿するエピソードは、
 同種の動物として腹立たしくも哀しい。

 そうした傾向の実態は、身近なところで数多く見てきたから、
 実はそれほど驚いてはいないのだが、ローマ帝国滅亡の薫りが濃厚に漂う
 その手のモンスター・サスペンスを私は好まない。
 「経済繁栄」「平和ボケ」「無責任な過保護」など様々に理由はあるだろうが、
 どれにも縁のない私としては、やはり「自己責任」を本命と診る。

 百歩譲って考えれば、
 これまでハシャぎ過ぎた人類に対するシッペ返し、
 もしくは、人類は大きく変わらなければ生存できないという警告にも受け取れる。

 だが、小せえ私が譲れるのはせいぜい三歩までで、
 これまで通り、ワナワナ固まる拳をポッケに隠しつつ、
 穏やかに苦笑しながら、互いの棲み分けを提案するのみだ。

                  
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 2012年6月4日(月)/その1067◇世界を統一するもの

 村上龍さんの『愛と幻想のファシズム』に対するそれぞれの感想を皮切りに、
 ふだんは下ネタ中心の地元カウンター席が、また異なる活気を帯び始める。
 皆お茶目なロマンティストだが、その分だけリアリストでもある。

 『愛と幻想のファシズム』は1984年に執筆が開始された小説だが、
 その28年後の現代の地球を鋭く予感している。
 役立たずの学者論を軽々と凌駕する村上龍さんのこの明快な作品は、
 日本および国際情勢を舞台に、
 生命の孤独とシステムそのものの限界を主要テーマとしている。
 どんな優れたシステムも既得権構造を生み、やがては人間そのものの退廃を招く。
 その改善に極論的に踏み込む、読み始めたら止まらないバイオレンス・ファンタジーだ。

 国々の程良いナショナリズム同士の協働。

 まあ、そういう均衡が理想というのが我ら呑んだくれ仲間の共通見解だが、
 現在を含む古今東西の現実の歴史が、そういう楽観を許してくれない。
 頑張ってほしい国連をはじめとする国際機構の、現状の限界は明白すぎる。
 政治やメディアの混乱腐敗も、信頼できるコンパスの喪失がその主因となっている。
 かつては信頼できるコンパスとして機能した宗教が、その混乱の中心にそびえている。
    
 人類に対する大いなる絶望と、ほのかな希望。
 人類とはおれたちのことで、無論他人事ではない。
 世界を統一するものは経済なのか、あるいはファシズムなのか、それとも?
 朝まで討論会の勢いで議論は沸騰する。

 「正解はフラメンコじゃあ!」

 そう叫びたい私は、
 自らのただれた人間的実績を踏まえ、
 辛うじてその言葉を呑み込む。


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 2012年6月5日(火)/その1068◇逆手の効用

 逃げ足は速かったし、球技も得意だったが、
 脚の故障で体育の授業を四年間禁じられた経緯から、
 結局"逆上がり"は出来ずじまいだった小学生時代。

 あのころ逆上がりが出来ていれば、
 また異なる世界観を持った人間になっていたようにも思う。
 何故かと云えば、そういう劣等コンプレックスの反動から、
 良くも悪くもその後の私は、
 やたらと逆上がり的な世渡りをする人になったからだ。

 劣等コンプレックスというのは中々に興味深いポテンシャルであり、
 上手く活用すれば、ほとんど無尽蔵のエネルギー源に変貌することが、
 今にしてわかる。

 やや自信喪失気味たる愛すべき我ら日本という島国も、
 列島コンプレックスを大いに活用すべき時期かもしれない。

       
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 2012年6月6日(水)/その1069◇共存

 「絶対お薦ってわけじゃないんですが」

 月曜の晩、そう云いながら地元呑み友アキラが、一枚のDVDを差し出す。
 息子ほど歳下の彼だが、まあいろんな刺激を私に与えてくれる男だ。
 ロッカメンコや稲垣潤一の真価を理解させてくれたのも彼だし、
 今では仕事必需品となったアイポッドを気前よくくれたのも彼だ。

  俺は迷っていた、人生の締めくくり方を。
  少年は知らなかった、人生の始め方を。
                                     クイント・イーストウッド監督・主演
                                     『グラン・トリノ』(2008年制作)

 『硫黄島からの手紙』(2006)年によって、
 監督イーストウッドには俄然注目したはずなのに、
 うかつにもこの作品を知らなかった。
 
 これまで観てきた映画の中で、一番の映画かもしれない。
 深い感嘆とともにそう思った。
 いや、年齢に応じ感応できるものは異なるものだから、
 そりゃ云い過ぎかもしれない。
 若い頃は『ひまわり』に泣き、『スティング』にかぶれた。
 57歳の私に、たまたまふさわしい映画だったのだろう。

 主人公は頑固一徹の嫌われ者だが、
 彼の知性と感性と正義と行動とユーモアには、深く共感できる。
 なぜか唯一敬愛できた政治家、故・後藤田正晴の面影が浮かぶ。

 人種のルツボ、アメリカ合衆国における、
 ほとんど収拾不可能と思える混沌にあっても、
 こうした意志の貫き方があったかと、望外な光明が視えてくる。
 その徹底したリアリズムが、バッハやフラメンコの根っ子とシンクロする。
 人はこうして生き、死んでいけばいいのだという明快な各論。

 アキラよ、ありがとう!
 次回はたくあん二切れ奢るからなあ。


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 2012年6月7日(木)/その1070◇すべての仕事は

 雌雄問わず、あらゆる生命は、
 生存競争を前提とする自然界に放たれた戦士だ。
 おそらくそれは事実だろう。

 人類だけが、他の生命体を生きる糧としながら、
 同類同士仲良くできるシステムを構築できる可能性がある。
 おそらくそれも事実だろう。

 狩猟、農耕、宗教、政治、経済、科学、アート、スポーツなどを駆使しながら、
 ともあれ人類は、よくサバイバルしてきたものだ。
 つまり、他の生命体にとっては、さぞや迷惑なこの数千年だったろう。

 戦争と平和。
 どちらも人類の本質だ。
 どちらかだけを突き詰めれば、やがては大きな矛盾を生む。
 「文明の進歩」に大きく先を越された「人間の進歩」。
 そのアンバランスの脅威に現代人は戸惑う。

 「複数の要素の互いの影響の結果として、新たな優れた質に達する」

 今のところ、そういうアウフヘーベンの理想こそが人類の目標となり得そうだ。
 そこに貢献できる文化を支持し、実質的に応援すること。
 まあ、その前に自活せにゃならんから、ならば各人そういう仕事を選べばいい。

 あらゆる仕事には、そういう貢献の可能性があり、
 たまたま私の場合はフラメンコを選んだ。
 すべての仕事は、ジャンルではなく、
 その志とやり方そのものに意味があるんじゃないか?
 今なら素直にそう想える。


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 2012年6月8日(木)/その1071◇

  「一寸の虫にもゴブノタ・マーシー

 小さな虫などを含み、もれなく全員に、
 ゴブノタ・マーシーの直筆サイン色紙をプレゼントする、
 ほのぼのとした様子のこと。


 つーか、ゴブノタ・マーシーって、いってえ誰なんだっ?


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 2012年6月9日(土)/その1072◇すべてはオリジナルのように

 『ヴォーカリスト・ヴィンテージ』

 待望の徳永英明さんのカヴァー新譜が出た。
 うれしいことに、今回なんと「昭和特集」である。
 全部口ずさめるラインナップは以下の通り。

 夢は夜ひらく
 悲しい酒
 虹色の湖
 人形の家
 再会
 酒場にて
 夕月
 北国行きで
 ブルーライト・ヨコハマ
 伊勢佐木町ブルース
 恋の季節
 愛の讃歌
 別れのブルース
 真夜中のギター
 上を向いて歩こう

 初めて聴く時には、パンチ不足の肩すかし感があるのだが、
 聴き込むほどに味が出てくるのはいつも通り。
 その意味では、グールド弾くモーツァルトに似ている。
 フラメンコで云うならミゲル・ボベーダか。
 サビに頼らず、先入観を放棄したところの再構築から、
 本質の骨格だけで淡々と勝負する。

 どのナンバーも聴き込みながら発見する歓びがあるが、差し当たっては、
 そのむかし淡谷のり子さんが唄った『別れのブルース』が素晴らしい。
 その前に置かれた『愛の讃歌』を大いなる助走としながら、
 終曲近くのこのフレーズには、アルバム全体のクライマックスを感じる。


 二度と逢えない 心と心~♪

 そのあまりの感動に、
 ぬるめの風呂に浸かりながら、この部分を数十回模唱してみたが、
 人生をやり直さない限り、いや仮にやり直したところで、
 それが届かぬ領域であることを知る。
 歌は人マネではなく、自分そのものを歌うことなのだと、改めて知る。

               
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しゃちょ日記バックナンバー/2012年6月②

2012年06月01日 | しゃちょ日記

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 2012年6月10日(日)/その1073◇年下好み

 「ほれっ、かみさんと食ってくれ」

 ラブラブ山梨旅行の土産を寄越しながらこう云う、
 どう見ても62歳にしか見えない、
 やる気満々、地元呑み友・金ちゃんは現在63歳だ。

 下ネタ流れで、金ちゃん、あんたのお相手は
 幾つまでならオッケーなんだい? と尋ねると、
 間髪入れず、この青春の巨匠はキッパリ答える。


           「62歳!」


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 2012年6月11日(月)/その1074◇本末転倒

 十年一剣。

 もうずいぶん前にあるプロ棋士が
 大きなタイトルを獲得した時の言葉で、
 なぜか心に残っている。

 ただひと振りのために十年間、一心不乱に技を磨く。
 せっかちで飽きっぽい私だからこそ、
 そういうしぶとい根気に憧れたのかもしれない。

 実際に着手しなければ、何も始まらない。
 五十の手習いで、人生ほとんど初体験となる日記を
 ウェブ上に書き始めて七年ほどになる。
 あと三年も続ければ、ひと区切りの十年に達するわけだ。

 その頃に十年一剣のようなものが書けりゃあいいが、
 実のところ、そんなことはもうどうでもよくなってる。 


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 2012年6月12日(火)/その1075◇紙一重

 死刑を望み、誰でもいいから多数の人を殺す。
 間接自殺と云うらしい。
 そこに弱者としての誇りは視えない。

 スキだらけで街を周遊する私としては、
 逃げ足を鍛え直すか、仕込み持参で散歩するか、
 どっちにしても難儀なこっちゃ。

 同じ弱者として、そういう暗闇をわからぬわけではない。
 自分という人間の脆さは重々把握している。
 運良く犯罪を起こしてないだけだということも知っている。

 だが、私には人間社会を愛する心が多少はある。
 その強靭な精神力には、欠けた茶碗をご飯つぶで、
 辛うじてつなぎとめるほどの強さがある。
 でも、そこだろっ、人間は。

       
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 2012年6月13日(水)/その1076◇苦笑

 サッカー国際戦。
 その審判団のジャッジを観ていると、
 なるほど、これが国際社会を生きる現実なんだと教わる。

 一方に、相棒・右京の苦笑が浮かぶ。
 次の瞬間、人間の下す不気味なジャッジに、
 サッカーそのものが苦笑する幻影が視える。


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 2012年6月14日(木)/その1077◇フラメンコに生き方

 ドン・ポーレン『フラメンコの芸術』の名訳で知られる青木和美さん。
 彼の6回連載が来年新年号から始まることもあり、
 賛否両論あるポーレンの、過激なこのフラメンコの歴史的名著を読み返す。
 これでもう十回目くらいか。

 冒頭にヒターノの論理をわかりやすく読ませるいきなりの山場がある。
 それは何度読んでも強烈であり、
 それがアンチテーゼと云うより、むしろテーゼに感じられてしまう昨今。
 かつてのスペインの粗暴やイギリスの悪知恵との比較は必須科目に思える。
 その意味でニッポンの秀吉も最悪だった。
 以下にその任意抜粋を。


 神さまが元々わしらにくださった定めは、肥えた土地に定住しないこと、
 つまり、あちらこちらさすらいの旅を続けて、
 野生の果実や野鳥、それにあり余るほどのけものの命を日々の糧とし、
 パージョのように乱獲して悪用せず、
 愚か者のように命のみなもとを涸らすことなく、
 すべてのけものの種を絶やさず、決して自然を食い物にせず、
 ただ日々必要なものだけを手に入れて生きていくことだった。

 パージョの思いあがりを考えてもみなよ。
 やつらは、幾通りもの文明に何千年ものあいだ支配されてきた土地を
 "発見"すると、厚かましくも旗を立てて自分たちの国だと決めてしまう。
 元からいる住民のことははなから考えていないか、
 でなければ、略奮したり、殺したり、絞り取ったりしているあいだ、
 "発見者"どもは、神と祖国と進歩の名のもとにその犯罪をおこなっているのだと、
 おのれと世間を欺いて信じ込み、内なる良心をなだめようとする。


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 2012年6月15日(金)/その1078◇ツバメンコ今井翼、スペイン文化特使に
 
 ツバメンコ担当秘書ミワコの緊急メッセで、
 その驚きのビッグニュースを知った。

 な、なんと、ツバメンコこと今井翼さんが、
 日本におけるフラメンコとスペイン語の文化普及に対する功績によって、
 スペイン文化特使に任命されたというのだ。

 「責任ある役をいただけたことをたいへんありがたく思っています。
  自分自身が日本とスペインの懸け橋になれれば」

 きのう14日のセルバンデス文化センター東京の任命式では、
 NHK講座でもおなじみの達者なスペイン語で、彼はそうスピーチしたという。

 自国の経済危機の大ピンチにあって、
 スペインも粋な英断をするもんだと、うれしく安堵した。
 スペインにとっても日本にとってもマイナス要素は皆無であり、
 明るい希望のポテンシャルは限りなくふくらむ。
 
 こうした展開を自らの意志と根性で切り拓いた今井翼に、
 フラメンコ界の一員として、何はともあれ最敬礼!
 ありがとう、ツバメンコ!

              
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 2012年6月16日(土)/その1079◇オブラかビブラか
 
 云いたいことを、オブラートに包むように不明瞭に云う。

 云いたいことを、ビブラートで震えながらはっきり云う。
 
 まあ、どちらか云えば、後者で伝えるようにしている。


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 2012年6月17日(日)/その1080◇矛盾はかゆい

 「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず」

 天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、
 悪人を網の目から漏らすことはない。
 悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。


 おしなべて世の中はそうあって欲しいと思うが、
 自分については必ずしもそうあって欲しくないという矛盾。

 出来れば私の良い部分だけ、密にして漏らさず伝わって欲しいが、
 惜しくも良い部分はわずかのみで、
 しかもそれは沢山の悪い部分に支えられているという光と影のコラボ。

 ああ、かいかいと背中を掻きつつ、
 まあ出来るところは一本化してみるかと、重たい腰をあげてみる。


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 2012年6月18日(月)/その1081◇宮野ひろみロケ
  
 9月号しゃちょ対談に登場する宮野ひろみ。
 十代で新人公演奨励賞を二度受賞したツワモノである。

 久々にカラッと晴天の先週木曜はその野外ロケ。
 「青空の広がる野ッ原と大きな木」。
 そんな彼女のリクエストから、
 私の自宅の庭(一般には代々木公園と呼ばれている)を選んだ。
 噴水近くのその中央広場は、彼女の希望にピッタシだ。

 カメラマンはおなじみ北澤壯太。
 7月号の北澤写真館(ロッカメンコ/森田志保/タカ・イ・ジン)と
 伴奏者の視点(鈴木尚)のクオリティは早くも業界で大評判だ。

 デビューの頃は高校生だったひろみちゃんも、三十半ばの大人の女性となった。
 モデルさんのような美貌に、真っ白なブラウスにジーンズの凛々しい出で立ち。
 あの鋭く冴えたバイレを踊るわけでもないポートレイト撮影なので、
 フラメンコの踊り手って気づく人間は、まずいないだろう。

 なのに、往き交う人々の熱い視線を集めてしまう不思議なオーラ。

 
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 2012年6月19日(火)/その1082◇たまねぎ
 
 むけば何か出て来そうな気配がある。
 むいてみると、意外とそうでもない。
 
 だが、涙と甘みと、そこそこの食感がある。
 それだけでも充分だが、調理次第でさらに旨みを増す。
 まるで人生みたい。


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 2012年6月20日(水)/その1083◇快い絶望

 「どのあたりから聴いたらいいでしょう?」

 編集部・小倉青年がそう問う。
 いよいよバッハに向き合う心境となったらしい。
 
 「何か知ってるバッハはあんのか?」
 「シャコンヌなら、ギター編曲版で知ってます」

 ならばと、原曲のヴァイオリン独奏を薦める。
 人類史上最高峰の音楽と称されることの多いバッハのシャコンヌ。
 様々な楽器・編曲で盛んに演奏される過激な名曲だが、
 表面上はイヤになるほどとっつき辛い。

 信頼出来る先輩たちからそんな伝説を聞きつけ、
 とりあえず、来る日も来る日もシャコンヌを聴き続けた高校時代。
 ああ、そーゆーことかあ!と、
 その魅力と凄みを感覚でつかむのに三ヶ月かかった。

 顔はともかくも音楽的感性は非凡な小倉なので、
 それぞれ個性的な代表的名盤を、二つ並行して聴くことを薦める。
 峻厳に突き詰めるクレーメル盤と、ロマンティックに歌い尽くすパールマン盤。
 まあ、乱暴にフラメンコで例えるなら、
 同じ曲をパコ・デ・ルシアとビセンテ・アミーゴで聴き比べるようなものだが、
 余分な先入観なしに、作品を冷静に俯瞰するのに極めて有効なアプローチではある。

 「コレですよね?」

 翌朝、早速にそれらCDを仕込んできた小倉。
 何だか極悪非道の道に、前途ある若者を引っぱり込むような後ろめたい気分。
 シャコンヌの心を知ってしまった四十年前のあの感触がよみがえる。
 普通の勤め人は無理だと悟ってしまった、あの快い絶望感がよみがえる。 

  普通の勤め人は無理だと悟ってしまった、あの快い絶望感がよみがえる。
   
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 2012年6月21日(木)/その1084◇バランス・メーター

 この身に何が大切か?
 人によってまるで違うだろうし、
 自分のそういうのってのはなかなか分からなくて、
 手遅れの年齢になって、ようやくそれが視えてきたりする。

 私のケースでは、それは「笑い」だったと今は分析できる。
 小学校入学以前の落語や漫才あたりを起点に、
 劇場や映画やテレビの喜劇やお笑いに夢中になったり、
 図書館で世界各国のジョーク集を読み漁ったり、
 いわゆるユーモアなるものにとり憑かれていたようだ。

 むろん当時は「笑う」意味などわからない。
 むしろ、こんなことで笑ってる場合かと焦っていた。
 笑うことの絶対的な価値というのは、
 ひと通りの感情をとことん経験し尽くさない限り、
 なかなか視えてはこない。

 笑いは光に似ている。
 日々の暮らしの中の何でもない瞬間、
 そういう光の中にサクッと身を任せることで心の暗部は照らされ、
 そのバランス状況を容易にチェック出来たりする。

 とりわけ今は、他人さまと一緒になって自分を笑うことが楽しいが、
 そういうネタが尽きないことに呆れ返ったり、
 あるいは、その果てしない伸びしろに安堵したりする。
 やはり、笑いは光に似ている。


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しゃちょ日記バックナンバー/2012年6月③

2012年06月01日 | しゃちょ日記

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 2012年6月22日(金)/その1085◇試し酒

 「五升の酒を呑んだら、褒美をやろう」

 主人のお供で訪れた先の大旦那の酔狂で、
 酒好きの下男・久蔵はこう勝負を持ちかけられる。
 負ければ自分の主人の面子をつぶすと感じた久蔵は、
 何を思ったか、ぶらっと表に出掛ける。

 しばらくして戻った久蔵は、いよいよ勝負に臨む。
 「では、頂戴しますべえ」と久蔵は、
 あっという間に、五升の酒を飲み干してしまった。
 驚いた先方の大旦那は、彼が表に出掛けた理由を問い、久蔵はこう答える。

 「五升なんて酒ェ呑んだことがねえだから、
  表の酒屋へ行って、試しに五升呑んで来ただ」


 なんともおマヌケな、おなじみの名作落語なのだが、
 ファンタスティックな爽快感があって、小さい頃から大好きな話だった。
 先代小さん師匠のトボけた味わいが印象深い。

 五十の手習いで文章を書き始めてしばらくした頃、
 外部からのご指名で原稿仕事が舞い込んだ。
 未経験の切り口だったので、受けるかどうか一日だけ返事を待ってもらい、
 その晩の半徹でどうやら原稿を書き上げ、
 翌朝「是非やらせてください」と返答した。

 締切は三週間後だったが、本業の合間にちょこちょこ推敲し、
 執筆を請けたその日の夕方には、メールで原稿を送った。
 スケールはまるで小さいものの、そういう用心深い(?)やり方が、
 かの久蔵先輩の影響下にあることに、どーやら疑いの余地はなさそうだ。


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 2012年6月23日(土)/その1086◇我輩は犬である

 少数のわからんちんによって、
 全体が自粛に向かう。
 教育の危機もそこにあるし、
 近ごろじゃあ、ユッケやレバ刺しがそれだ。

 それに伴なって、せつないルールが増える。

 ある時期、内も外もフラメンコでない人にあふれた編集部も、
 「挨拶しよう」とか「コンパス(締切)守ろう」とか、
 何ともアホらしい、せつなく哀しいルールまみれだった頃もあるから、
 世間さまのことは笑えない。

 数年かけて不気味な風潮とおサラバし、
 幸い現在はシンプルに伸びのびフラメンコ化している編集部。
 残る課題は、こうした言動を三歩歩けば忘れてしまう
 我輩の三流マシンガンギャグの自粛のみである。


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 2012年6月24日(日)/その1087◇メリット・デメリット

 情報豊かな現代。
 情報が少なかった時代に比べ、
 そのメリット・デメリットの内訳はどうか?

 古今東西、いろんな人間や職業や考え方やアートやモノが存在すること、
 それら選択肢を参考に、自分の意志で選択できること。
 これが情報時代の最大のメリットに思える。

 一方のデメリットは、その選択肢の多さにかえって迷ってしまうこと。
 ウッカリすると、迷っているうちに人生が終わってしまうこと。

 日本人である私が、自国の伝統文化から選択した主たるものは、
 落語、将棋、文学(筆頭は濱田滋郎か藤沢周平か)あたりであり、
 これらに親しい人々からの影響を加えたものが、
 現在57歳となる私の世渡りを構成した主たる要因であることは、
 今なら容易にわかる。

 一方、豊かな国際情報の恩恵の中から、
 バッハ、フラメンコ、外来文学(筆頭はモームかサルトルか)とめぐり逢えたことは、
 私に衣食住と希望を与えてくれる一生の職業を選択させる決定的要因になっている。

 こういう整理が簡単に出来てしまうところが、
 歳を取ることの最大のメリットであり、
 さあ、ようやく方向も決まったことだし、
 じゃあ、そろそろオレも本気出すかあ!と気負ってみたところで、
 すでに身体も頭もボロボロで動作も緩慢であるところが、
 歳を取ることの最大のデメリットである。

 
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 2012年6月25日(月)/その1088◇逆切れ上手

 「国益」は二の次・三の次で、
 政権の維持や奪取のみに懸命な与党・野党。
 改善のための核心には触れることなく、面白半分報道に終始するマスコミ。
 そういう政局の茶番を観ていて、ふと政治家・吉田茂を思い出す。
 人間万事塞翁が馬を地でゆく吉田茂翁の政治人生。

 外交官時代は、中国における日本の権益を強硬に主張するスタンスだったという。
 同時に親英米派で、日独伊三国同盟には反対し、
 太平洋戦争の開戦阻止を主張し、開戦後も和平工作や終戦策に動いた。
 当然のように日本の軍部からは睨まれ、投獄されてしまう。
 そのことで逆に、戦後のGHQの信用を得たという波乱万丈の展開。
 「国益を守る」という信念と行動力にはブレはなかったように思える。

 さて、私の生まれる数年前のお話。

 終戦後のアメリカGHQ(占領軍総司令部)の
 支配下にあった当時の日本の首相は、
 傲岸と反骨精神とユーモアで知られる吉田茂さんだった。

 敗戦の窮乏にあえぐ国民のために、あるとき吉田首相は、
 物資の援助をマッカーサー(GHQトップ)に依頼するのだが、
 手違いから誤った大量の依頼見積りを提出してしまう。
 要求が大き過ぎるじゃないかと、マッカーサーから指摘されると、
 吉田首相は即座にこう返したというが、
 さすがのマッカーサーも、これには大爆笑だったという。

 「正確な計算が出来るくらいなら、日本は戦争に勝ってましたよ!」


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 2012年6月26日(火)/その1089◇自嘲自笑

 一代で成功した大金持ちのユダヤ人。
 いよいよ死期の迫ったベッドにて、肉親たちとユダヤ教の僧にこう云う。

 「私はずっと敬虔なユダヤ教徒だったが、
  もしかするとユダヤ教の神は、本当の神ではないかもしれない。
  なので、カトリックとプロテスタントとイスラム教と仏教の
  僧も呼んで、皆で天国に行けるようにお祈りしてほしい」

 なじみのユダヤ教の僧も、これには反対できない。
 大金持ちの老人は五人の僧に、それぞれ3万ドルの大金を現金で与えるが、
 息を引き取る寸前、彼は五人の僧にこう頼む。

 「天国に行く途中で金が必要かもしれないから、
  私が死んだら、皆それぞれ5千ドルずつ棺に入れてほしい」

 やがて彼は息を引き取り、
 カトリックとプロテスタントとイスラム教と仏教の四人の僧は、
 約束通り次々と、棺の中に5千ドルずつ棺に納める。
 最後になったユダヤ教の僧はポケットから小切手帳を取り出し、
 「2万5千ドル」と書いた小切手を棺に納め、
 おつりの2万ドル(5千ドル×4人分)の現金を棺から取り上げ、
 自分のポケットに納めた。

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 いやはや、ここまで来ると、もうホントに凄いね
 自分たち民族を、ここまで自分で笑えるユダヤ人ジョーク。
 つまりこれが、客観できる強さということか。

  
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 2012年6月26日(火)/その1090◇伝染病

 本日昼ころ、パセオに到着すると、
 珍しくも、何やらプログレっぽい音楽が流れている。
 この手のCDは小倉青年に違いない。

  私「よお青年、こりゃ本場イギリス盤かい?」
 小倉「いえ、イタリアのプログレ・バンドです」
  私「ふ~ん、バンドのリーダーは?」

  間髪入れず、勢いよく彼は答えた。


   「イタリア長介!


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 2012年6月27日(水)/その1091◇未知なる視点

 ご存知、代々木上原のモテモテ野郎。
 ひとまわり歳下の地元呑み友サトルは、海や山をこよなく愛す。

 具体的には波乗りと山登りを好む。
 そうすることの目的は、どうやら自然と自分との一体化にあるらしい。
 海や山の呼吸を自らの肉体で感じ、作為なくそれに応える。
 何かを考えるわけでも音楽を聴くわけでもなく、
 ただひたすらシンプルに、その行為に没頭する。
 そのことは以前にもウェブに書き、パセオ本誌にも転載した。

 つい先日の台風の折も、彼は湘南の海に出掛けたらしい。
 多忙なデザイナーである彼にとって、仕事の区切り時が出掛け時なのだ。
 そうしてこしらえた時間で、波乗りや山登りに出掛けても、
 その天候に危険な兆候を観るや否や、躊躇なく彼は引き返すらしい。
 そして、そこには残念な気持ちはまったくないと云う。

 それが自然の思し召しであるならば、どうあれ歓んでそこに寄り添おう。
 そうした状態そのものに充足感を覚えるのだと云う。
 つまり、自然を征服する人工的な達成感ではなく、
 どこまでも自然と共に在ろうとする彼の感性・思想がそこに視えてくる。

 ガムシャラな根性と達成感だけで生きて来た私とは、
 まるで正反対な在り方だと気づく。
 だからと云って、私の来し方を反省するわけではないのだが、
 普段から自然で好ましい物腰のサトルの、
 いかにも彼らしい在り方には、遠い憧憬を覚えたりもする。
 きっとそれは、そういう生の延長線上にある死というものに、
 現在の私には無縁な、しかし、好ましい何かを感じるからだろう。

 「つまりそりゃ、神との交流なのか?」
 無宗教の彼に、やはり無宗教の私は尋ねる。
 長考を予想する私の意表を突き、こう彼は即答する。
 「いえ、神ではなく、自分ですね」

 そんな会話が佳境に達しようとするその時、
 秀のカウンター席に彼の旧友が現われ、その話はお開きとなる。
 その続きは次回となるが、やや難解に思えた「自分ですね」という
 彼の回答の意味合いを、私なりに考えてみるのも悪くない。


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 2012年6月28日(木)/その1092◇愛と幻想のフラメンキズム

 病んでるなあ。

 多忙を極めるこちらの都合はお構いなしに、
 いきなり狂気じみた自論をブンブン振りまわす。
 編集部宛に、そんな電話を今年になって数本受けた。

 聴いてみると、要するに話相手が欲しいことがわかる。
 優しく対応すれば営業妨害のエスカレートは必至なので、
 そういう行為に、私は冷たく素っ気ない。

 最近流行のモンスターやストーカーと根っ子の傾向は同一なので、
 ある日突然グサリ刺されるなんてこともあるかもしれないが、
 そんなもんに屈しながら、フラメンコの専門誌など発行できゃしない。

 互いに好ましい話相手を得るには、謙虚に自立する根気よいプロセスが必要だ。
 まずは相手の心を聴こうとするスタンスがなければ、その扉さえ開かない。
 扉を開くには風通しのよい心のマナーと、たくさんの工夫や気遣いや時間と、
 常に自分の生き方を改善しようとする自問自答が必須となる。
 コンパスやアイレは、何もフラメンコだけに必要なものではないのだ。

 そうしたプロセスを省略して互いに仲良き話相手など出来ようはずもないが、
 現代の泥沼の如き文明病は、社会への甘えが許されるような幻想を与える。
 そういう個人の腐敗の集積が社会の腐敗を招くのであり、その逆ではない。
 人類というのは、本来もっともっと逞しい生命力に充ちている。
 その逞しさは常に紙一重の脆さも抱えているが、
 欠けた茶碗をご飯つぶで貼りつけるほどの強さはある。

 そういう領域に全力で踏み込みたいフラメンコの専門誌など
 現状では微力にすぎないが、チリも積もれば山となることを信じたい。
 あらゆるボーダーを超え、そういう小さな力同士の連携で希望の扉を開いてゆきたい。
 ただし、レジスタンスやアンチテーゼのつもりはない。
 それもまた幻想なのかも知れないが、ならば自分の意志でそれを選びたい。


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 2012年6月29日(金)/その1093◇希望の素

 谷垣さんは、私には理解不能。

 野田さんの粘りある姿勢に共感。
 例えばの話、参院を廃し衆院を定数百名程度とするなど、
 増税とのバランスだけは取ってほしい。

 現状政治の低レベルは哀しいが、
 じゃあ、俺はどうかと自分に問えば、
 まあ似たようなもんか、それ以下だと答えるよりない。

 同じ人間のやる政治に、自分以上のものを期待するのは明らかに倫理矛盾。
 国の未来を築く政治に希望を持ちたいなら、
 まずは自分から変わるしかないのだと、結論はやっぱそこかいな。


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 2012年6月30日(土)/その1094◇一筋の妄走

 大まかに云うと、人間には四つのタイプがある。

 ① 自分とその周辺を守るタイプ。
 ② 自分の暮らす地域を守るタイプ
 ③ 自分の暮らす国を守るタイプ
 ④ 自分の暮らす星を守るタイプ

 国会議員に③のタイプが少ない事実には愕然とするが、
 私だって基本的に①だから、文句は云わない。

 一方で、文明の進歩に自滅しない人類の進歩とは、
 ④に向かうことなのだと思う。
 だから、自国の文化を愛しながら、
 バッハやフラメンコを愛することに矛盾は感じない。

 かのバッハも、他国の人々に発見されることで、この星全体の宝となった。
 流浪しながら現在進行形で発展するフラメンコも、
 同様な軌跡をたどるのではないか。
 この星を最終的に救うものは、宗教や政治や経済でもなく、
 現在はダークホースと目される"アート"なのではないか。

 ①を支える仕事が、やがては④に結びつくことを願っている。
 そこに携わる人々を報道することに誇りを感じている。
 それが、来年創刊30周年を迎えるパセオフラメンコの
 変わらぬ思い込み、もしくは思い上がりである。


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