フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

しゃちょ日記バックナンバー/2012年3月①

2012年03月01日 | しゃちょ日記

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 2012年3月01日(木)/その972◇全てに意味がある

屋良有子/フラメンコライブ 2月19日/東京(新宿)エル・フラメンコ
【バイレ】屋良有子/ベニート・ガルシア
【カンテ】エル・プラテアオ
【ギター】フェルミン・ケロル
【ヴァイオリン】三木重人
【パルマ】パウル・オルテガ


「自分に対して、自分で確信を持つこと。私の場合はそれに尽きます。
信じられるまでは、いつまでも自分と向き合う。
後になってする言い訳とか後悔が絶対にイヤだから、徹底的に自分と対話します。
勝負はそこで決まるって思うんです。
そういう徹底的な自問自答の毎日が、心と身体を、あるいは心と技を
スムーズに連携させてくれているような気がします。
自分の中の葛藤に負けることはありません。
自分がどこに居てどこに行きたいのか、いつも自問しているから。
そのために私はこう在ると自答しているから」

 おそらくはフラメンコ星人かと思われる彼女の分析を試みた
 新年号『屋良有子/自問自答』に、本誌創刊以来屈指の
 反響が寄せられたことは彼女の絶大なる人気を物語っている。
 冒頭はその抜粋だがこのフラメンコ論は同時に、
 地球人にとっても極めて勝率の高い人生論であるように思われる。

 ふだんは客演的に一曲もしくは二曲踊ることの多いバイラオーラ屋良有子の、
 そのオール・ソロライブを観るのは初めてのことだ。
 有名なモーツァルトの未完の名曲レクイエム(死者のためのミサ曲)が
 要所要所に現れ、このライブの意図は明らかにされる。
 あの日からおよそ一年が経とうとしているが、
 日本という国家がしっかり自問自答しているかどうかは大いに疑問であり、
 屋良有子はアーティスト個人として潔くそこに踏み込んだ。

 いつものように屋良のバイレフラメンコは決して期待を裏切らない。
 ブレない軸の上にダイナミックに展開する緩急のコントラストの妙。
 切れ味鋭く重量感あふれるスリリングな緊張感。
 例によって次の瞬間に何が起こるかわからないから、一瞬たりとも目が離せない。
 強烈な求心性の先端に確かな何かがあることは誰の目にも明白だ。
 カンテやギターと見えない何かでつながっていることもわかるが、
 それは細い糸ではなく太くしなやかな霊波の如し。
 そんなものは最初から必要ないぞとばかりにいわゆる俗なセクシーさは排除され、
 ほんまもんのエロス(生衝動)がみなぎる生命の躍動。
 そのほの青い情念は燃え尽きてしまうタイプのものではなく、
 メラメラとどこまでも希望を絶やすことのない炎だ。

 ヴァイオリンの三木重人は屋良の潜在意識を歌うようでありながら、
 どう弾いても彼が彼らしく聞こえる。
 対象と同化しながら自分らしさが表出する比例線が美しい。
 この日のベニート・ガルシアはシャープな安定感と
 外交的でグアポな明るさが印象的。
 好ましい陰影と共にフラメンコな推進力に充ちた
 フェルミン・ケロルのギター。
 細部を丁寧に描くことで巨大な輪郭が浮き彫りになるエル・プラテアオの
 熱唱はいつでも存分に私たちを楽しませてくれる。
 つまり、この日のフラメンコの音楽的充実ぶりは図抜けていた。

 屋良はシギリージャ、ソレア、アレグリアス他を踊った。
 トーナメント戦(客演)ではブッチ切りに勝ち抜く力があるが、
 リーグ戦(今回のようなソロライブ)においては
 屋良有子の伸びしろがまだまだタップリあることに、幾分私はホッとした。
 若いうちに何から何まで完璧に出来てしまったら、
 その先を歩むことには辛すぎるものがあるだろう。
 未完の大器のまま、ずっとずっと伸び続ける
 彼女を眺めていたいと願う自分に気づいた。

「私にとってもあの日は忘れられません。
"todo por algo" 全てに意味がある。
その意味のために明日も踊ろうと思います」

 プログラムにはこう記されていた。
 あの震災後、膨大な時間を費やしたと思われる屋良有子の自問自答は
 この短い言葉に集約されており、
 ソロライブのあらゆる瞬間にその自問自答の成果は、
 実に正確に映し出されていた。


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 2012年3月2日(金)/その973◇神の仕掛け

 きのう木曜。
 突然の雪による水曜午前中ズル休みの余波を解消すべく、
 22時まで編集デスクにへばりつき、
 6~7月号の骨格を組み終えたのち、
 二十年の歴史を有する高円寺エスペランサ木曜会へ直行。

 いつクタバってもおかしくはないことを自覚する連中の集まりだから、
 屈託なく際限のないバカっ話に興じることとなる。
 例によって私が下ネタを始めると、
 バイラ●ーラの鈴●眞澄さんなどはアンコールを叫ぶ。
 
 26時帰宅。
 キリッと冷えた白ワインを呑みながら、
 日曜午後に渋谷タワーで仕入れたバッハ新譜数枚を部分チェック。
 タロー弾くキーボード協奏曲が図抜けて素晴らしい。
 ああ、こういう手もあったのか!
 レガートな躍動感にはゾクゾクするような色気がある。

 下ネタというのも際限のないものだが、
 同様に、アートの可能性には限界というものがない。
 表面的には天地の開きがあるが、案外と根っ子はいっしょだったりする。
 そこに社会道徳を確立することの難しさを痛感したりもするのだが、
 そういう困難そのものが、人間を退屈から解放させるのかもしれない。


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 2012年3月3日(土)/その974◇目クソ鼻クソを叱る

 意地の悪いモノ云いをする、
 おせっかいなオバサンみたいなオジサンがいる。
 それは仕事まわりでも私事まわりでも同様だ。
 自己顕示もやり方を誤れば、不愉快以外の何ものでもない。

 老いた私が軽く受け流すのはワケもないことだが、
 あまりに周囲の苦情や被害の度が過ぎるので、
 年上と年下、同時期に二人ほど、柄にもなく説教をかました。
 年齢的にも、まあそういう順番だから仕方ない。

 対私というだけではなく、
 どちらの所業も若干は改善されたようで、
 そういう周囲の空気はさり気なく私にも伝えられる。

 もっとも、生来気弱な私がそんなことをするのも、
 基本的に彼らが好きだからだ。
 だからこそ喧嘩沙汰にはならずに済むわけで、
 そうした絶対前提が無ければ、どんだけ命があっても足りやしない。

 だとするなら、人間を好きになることは善きことか。
 詐欺にあうのはコリゴリだが、基本はやはりそこに置くべきということか。
 まあ、すべては自己責任。
 ともかくも、自分の直観と心中する覚悟はいつでも必要ということだろう。
 ならば磨くべき何かは明らかとなる。
 ならばやはり、このままフラメンコということか。


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 2012年3月4日(日)/その975◇ソウル飯

 「ねえ、小山さんのソウル飯って何?」

 どう好意的に見てもヤクザかプロレスラーにしか見えないマーちゃん。
 彼にはまるで釣り合いの取れないマッコちゃんという超美女の連れ合いがいる。
 ある晩の秀、その心優しい凄腕料理人(つまり食通)マーちゃんが唐突にこう問うた。

 「鯛の刺し身。湯引き皮付きのやつね。
  それとハマグリの味噌汁。
  あとは炊き立ての銀シャリとタクアン二枚」

 私の好みを知る彼がなるほどとうなずくところへ、
 じゃあ、あんたのソウル飯は?と逆に問う。

 「彼女と二人でね、銀シャリをツナ缶で食うの。
  ツナにマヨネーズと醤油かけてね。おかずはそれだけ。
  で、最後の一切れを食う人が、
  『これ食べちゃっていい?』って相手に聞くの」

 ・・・な、何なんだよソレ?
 ノロケというかヘンタイというか一杯のかけ蕎麦かよっと云うか、
 凄腕料理人のあんまりの実態に愕然とする。
 洗い物をしながらこのやりとりを聴いてたマッコが、
 ゲラゲラ笑いながらこう云った。

 「最後の一切れ、必ず相手にお伺い立てるよね。
  ソウル飯には礼儀が必要ってことかな」

 ・・・うっ、さっぱりわからん


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 2012年3月5日(月)/その976◇信念の人

 7月号しゃちょ対談のゲストは、
 株式会社イベリア代表取締役、ギタリストの蒲谷照雄さん。

 これから出社し記事をまとめて、
 夕方から恵比寿のサラ・アンダルーサで、
 写真家・北澤壯太を伴ない撮影取材。

 「信念の人」

 撮影コンセプトはそう振ってある。
 蒲谷氏の震災後のファルキート招聘には、
 団塊世代の気迫と凄みを感じた。

 先輩たちのいいところは躊躇なく見習うべきだ。
 後輩の中にもリーダーシップを取る者が現れつつある。
 もちろんそこも躊躇なく見習いたい。
 過保護社会のツケを若い連中に丸投げしてはいけない。


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 2012年3月6日(火)/その977◇ボチボチ

 日本文化。
 両親や学校やバイト先や社会から否応無く影響を受けた。
 いいなと思うものもあれば、そうでないものもある。
 特にいいと思うのは日本料理と文学全般と囲碁将棋や、
 「先輩におごってもらったら後輩におごり返す」慣習など。

 私の少年時代の日本というのは、欧米化に忙しい時代だった。
 アメリカのプラグマティズム(現実主義)は仕事上大いに役立ったし、
 ヨーロッパのアートには心底憧れた。
 バッハやサルトル実存主義などは青春のバイブルだったが、
 それでも足りなくて、フラメンコにたどり着いた。

 フラメンコは変化することによって、あらゆる時代を生きる。
 なのに伝統が実際的な役割を顕著に果たすところが素晴らしい。
 まるでここ40年の「バッハ演奏」の変遷の如しだ。
 時代や地域を超える国際路線の音楽が育ち辛い現代にあって、
 バッハとフラメンコは未来の二大コア音楽だと私は予言したいが、
 当たらないことには定評のある私の予言なので、こりゃ撤回しておくか。

 フラメンコは国際的にはまだまだマイナーだが、
 あのバッハだって、その死後は長いこと表舞台に登場しなかった。
 逆にメジャーな流行というのは、旬が終わればあっという間に忘れ去られる。
 その意味では、バッハ同様ボチボチ往くのも悪くない。


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 2012年3月7日(水)/その978◇水と油

 占い好きな芸能人をめぐる過熱報道が痛い。
 そこまで芸人を追い詰める資格はマスコミにはないと、私は考える。

 だが、彼らの多くはこう云う。
 視聴率が上がる、雑誌が売れる、仕方ないんだ。
 バカな大衆が相手なんだから仕方ないんだ、そういうものなんだ。

 自分が食うために芸人を食い物にすることは、ほんとに仕方ないことなのか?
 全部が全部、同じ角度から芸人をイジメるってのは、一体どういう了見なんだ?
 君らにはメディアに携わることのプライドというものは無いのか?

 いや、だから、そういうものだから仕方ないんだ。

 バカな大衆と云うが、そう仕向けてるのは君らだろう?
 そういう構造を自分らで改善するつもりはないのか?

 無茶云うな、そんなことをすれば首が飛ぶ。


 ここ数年、マスコミ関連の知人数名としくじった。
 彼らにとって、私の位置づけは「世間知らず」ということになるだろう。
 現代はメディアの矜持さえ語れない時代なのかもしれないが、
 まあ、私は私で好きにやらせてもらおう。


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しゃちょ日記バックナンバー/2012年3月②

2012年03月01日 | しゃちょ日記

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 2012年3月7日(水)/その979◇森田志保/ねじの続編

 あの3・11の当日。
 夕方から吉祥寺で森田志保と呑む約束をしていた。
 さすがにそれは延期となったが、次の機会の打ち合わせで決まったのが、
 現在本誌連載中の「森田志保/ねじ」(全6回)である。

 パッと見、ギョッとする。
 強烈な印象が頭から離れない。
 上質アートのエスプリが濃厚。

 すでに三回分を発表したが、各種モニターの間でも評判は上々で、
 新年号の大改編を成功させた要因のひとつになっている。

 「大した反響なんだよ。ねじの続編やってくれねーか?」
 「ほんとっ? うれしー! もちろんオッケーですよー」

 てなわけで、今日も夕方から井の頭カイワイでワイワイ呑む。
 来年新年号あたりから、カラー2頁に昇格し、ほぼ隔月で六回連載する。
 コラボする写真家・北澤壯太も大はりきりで待機中だ。

 電話したのは先週だが、前回もそうであったように、
 おそらく彼女はそのアイデアのぎっしり詰まった例の森田ノートを持ってくる。
 ほぼ例外なく、多忙な一流人ほど用意周到であり勝負処を見切っている。
 運命の女神の前髪(チャンス)をつかむ術を熟知しているのだ。
 何故なら、運命の女神は私にそっくりであり、遅れてつかもうとしても後ろ髪が無い。
 各チャンスを前倒しでジャストミートすることで、次なるチャンスを呼び込む循環。

 一流と人とそうでない人を隔てるボーダーラインはここにある。
 それは才能や環境などではなく、
 不断の努力と運命の女神の前髪をつかむ術だ。

          
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 2012年3月8日(木)/その980◇不条理ギャクと勝負技術

 ひたむきなもの、一所懸命なものに、
 ホロッと涙腺がゆるむことが多くなった。
 まあ、これも老化現象のひとつだろう。
 それだけを命綱に世渡りしてきた自分に同情しているのだ。
 そのたびに思い出すのが、立川談志師匠の高座だ。
 
 「一所懸命なヤブ医者と、やる気なさそうな名医。
  アンタ、どっち選んで手術するの?」
 「一所懸命なヘボ大工と、やる気なさそうな凄腕大工。
  アンタ、どっち選んで自分ち建てるの?」

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「一生懸命頑張りますので、応援よろしくお願いします」

 ジャンルを問わず、リアルでもテレビでも
 こんなセリフが聞こえてくると思いきり脱力できる。
 まあ、実際一生懸命やってる人にはほとんど無縁のセリフだから、
 逆にギャグセンスとしてはかなり評価できる。

 以前あるタイトルへの挑戦権を獲得した
 将棋の羽生善治十九世名人は、
 マスコミ取材にこんなふうに答えていた。

 「一生懸命指せるコンディションを整えたい」


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 2012年3月9日(金)/その981◇勝負処

 パセオ4月号の印刷見本が上がってきた。

 今月号はマイナーチェンジがある。
 まず、表紙をめくった1ページ目に目次が来る。
 そして、表紙+カラー8頁の『Con Flamenco』がスタートする。

 「Con Flamenco=フラメンコとともに」というタイトルは
 最近の心境をそのまま流用した。
 ここしばらく、表紙はスペイン人アルティスタに限っていたが、
 この号から邦人とスペイン人がほぼ隔月で登場する。
 年内のその暫定ラインナップは以下の通り。

 4月号/マリア・パヘス(バイラオーラ)
 5月号/石井智子(バイラオーラ)
 6月号/カニサレス(ギタリスト)
 7月号/鈴木敬子(バイラオーラ)
 8月号/ビセンテ・アミーゴ(ギタリスト)
 9月号/森田志保(バイラオーラ)
 10月号/アントニオ・カナーレス(バイラオール)
 11月号/屋良有子(バイラオーラ)
 12月号/有田圭輔(カンタオール)

 ピチピチ撮り下ろし写真の「表紙+カラー8頁」が基本だが、
 4月号マリア・パヘスのみは、ド派手に巻頭24ページの大特集。
 北澤壯太撮影による昨年のマリパヘ公演の感動傑作集で、
 ちょっとした写真集ばりの肉厚な質感がある。
 例の「瀕死の白鳥」を含む、見るたびに涙腺がゆるんでしまう
 神々しいまでのシーンが5カットばかりあって、
 どうやら私にとっても忘れ得ぬ号となりそうだ。

 全面リニューアルしたファルキート表紙の新年号以来、
 ほぼ予測通りに部数を伸ばしているが、
 毎号毎号大小さまざまなチャレンジを試みることで
 まずは自分自身がスリリングな冒険を楽しむことが、
 大切なお仲間(読者)との交流の切り口だと思っている。

 昨晩の森田志保との企画会議(呑み会)でも、
 森田からぶったまげ企画が飛び出し、その場で私は即死、いや即決した。
 彼女はすでにアクションを起こしているだろう。
 実現は一年以上先だが、本当の勝負処というのは決断直後なのである。
 そこでユルめば、勝てる勝負も勝てない。


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 2012年3月10日(土)/その982◇ある日突然

 十万人の先輩たちが、ある日突然、
 それぞれに唯一無二であった人生を失った。
 1945年の今日、3月10日とはそういう日だ。

 あの東京大空襲から67年。
 もしもあと十年早く生まれていたら、
 地元の私がそこで命を落とした可能性は高い。
 そしておそらく敗者復活戦は無いし、
 39年後のパセオも無い。

 人は皆、善いことをしながら、悪いことをする。
 アメリカも悪かったが、日本も悪かった。
 日本とは私たちのことだ。

 歴史にifはないが、
 そのシミュレーションには意味がある。
 自分で分析することに意味がある。
 解明の結果を、いまこの瞬間の生活に溶かし込むことに意味がある。


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 2012年3月11日(日)/その983◇3・11の過ごし方

 震災の当日は、「ダンスプラン2011」の開催初日でしたが、
 地震の発生により中止となりました。
 それから一年、東日本の新人舞踊家や、
 震災により出演できなかったダンサー達が舞台に立ちます。
 「元気と笑顔はダンスの力で!!」
 微力ながら私たちに出来ることを発信してまいります。

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 社団法人現代舞踊協会主催の第114回新人公演
 「東日本支援・ダンスプラン2012」、
 新宿スペース・ゼロとの提携公演のその二日目。
 フラメンコの出演ラインナップは以下の通り。

 屋良有子/シギリージャ
 中村葵/ティエントス・イ・タンゴ
 西尾弥生/シギリージャ
 阪上のり子/タンゴ・デ・マラガ
 稲垣栄子/グラナイーナ
 遠藤美穂/シギリージャ
 正路あすか/ソレア・ポル・ブレリア

 知ってる人なら、おおっと叫ぶラインナップだ。
 シギリージャ三名、アレグリアス0名は偶然だろうか。
 1月号心と技の屋良有子、3月号しゃちょ対談の遠藤美穂、
 そして正路あすかに注目するが、番狂わせも期待する。
 モダン部門では、東北からの招待作品が三つあるし、
 全体に高いテンションのステージが期待できそうだ。

 正月には決めかねていた3・11の過ごし方だが、
 結局は昼は仕事、夜は公演に駆けつけるという
 ごく普通のパターンに着地する。


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 2012年3月12日(月)/その984◇棲み分け

 「3月号のダニエル・ムニョスの写真はあまりにも汚い」

 今しがた、編集部にこんな苦情の電話があった。
 評価はどうかと問うので、業界でも大変な絶賛だと事実を伝えた。
 苦情が続くのかと思ったが、それっきりで彼女は電話を切った。

 参考のために、もう少し話を聞き出すべきだったかもしれないが、
 「あまりにも汚い」という彼女の売り言葉に、
 すでにブチ切れてることを隠さない私だったのでまるで手遅れである。
 卑劣な匿名電話には慣れているつもりだったが、俺もまだまだだ。

 まあ、どう感じるのも個人の自由だ。
 ムニョスは強烈だから、好き嫌いもあるだろう。
 だが、私はムニョスを高く評価するので、今後も彼に作品提供を依頼する。
 読者が出版社を選ぶのが当然であるように、
 出版社が読者を選ぶのも、また当然なのである。


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 2012年3月13日(火)/その985◇当たり前

 この日曜の現代舞踊協会・新人公演は、
 日本復活の方法論をそれぞれに改めて思考すべき日に、
 予想通り高き充実の凛々しい余韻を残した。

 冒頭の和太鼓とモダンダンスのコラボ。
 どん引きギリギリの大まじめなハイテンションには
 当初やや戸惑ったが、ラスト近くには猛烈な感動が押し寄せた。

 フラメンコ部門トップバッター、屋良有子のシギリージャは、
 濃厚なペソをともなう切れ味鋭いメロディラインを歌い、
 フラメンコの魅惑性と未来性とを存分に発揮した。

 遠藤美穂のシギリージャは、
 昨夏の協会新人公演をいっそう研ぎ澄ましたような名演で、
 強いヴィジョンのブレない集中力には風格さえ感じた。

 正路あすかのソレア・ポル・ブレリアは、
 骨太な堂々たるムイ・フラメンコで会場を沸かせたが、
 あの確信犯的なツネリがいかにも頼もしい。

 大震災から一年。
 政治とマスコミの人災にまみれることもなく、
 民間アートは淡々と、あたり前の役割をあたり前に果たす。


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 2012年3月14日(水)/その986◇それはまるで

 さっそうとしたテンポで流麗に歌い尽くされる旋律。
 現代的な響きだが、表情はどこまでもロマンティックだ。
 またひとつ、バッハのヴァイオリン協奏曲の名盤が生まれた。

 

 アン・アキコ・マイヤース。
 1970年生まれの、アメリカで活躍する美形女流ヴァイオリニスト。
 私が名付けたひとり娘と名(暁子)がいっしょで、ずっと前から注目していた。
 スタイリッシュで正確な技巧と、高揚感のある艶やかな美音に特徴がある。

 

 ここ数十年のバッハ演奏は、作曲当時の楽器と演奏方法を用いるやり方が主流であり、
 先ごろ来日したポッジャーのように、それらは目覚しい成果を遂げているのだが、
 有名なピアノのグールドのように、そしてこのアキコのように、
 個性的な現代奏法によるバッハ・アプローチというのは、やはり高揚度が高い。

 

 人気の高いデュオ・コンチェルト(ニ短調)は、ひとり二重奏で録音しているのだが、
 実に息の合ったデュオであり、それはまるで、ひとり二重奏で録音したかのようだ。

 


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しゃちょ日記バックナンバー/2012年3月③

2012年03月01日 | しゃちょ日記

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 2012年3月15日(木)/その987◇動機・息切れ

 正月の残りのモチで雑煮を食ったら、
 もりもりファイトが湧いてきた。

 

     餅ベーションが上がったのだ!

 

                             はぁはぁはぁ。以上ですたあ。


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 2012年3月16日(金)/その988◇クソおやぢへの道

 スピーチを辞退した埋め合わせに、
 あるめでたいパーティの受付を引き受けた。
 プロモーター出身なので、受付仕事はプロである。

 主催社の四名ほどの若手と一緒に受付をやることになるのだが、
 まず事前の段取りがむちゃくちゃであることに気づく。
 だがその直後、彼らの来客対応に比べれば、
 それらがまだマシであったことに気づく。

 めでたい席の説教などは不粋というもので、
 ご機嫌よろしゅう、にこにこ温厚に役割を果たした。
 理不尽な攻撃を仕掛けてくる相手は例外的に迎撃するが、
 さしあたり見込みなしと判断する相手に対し、ひたすら私は優しい。

 それとは逆に、きっとこいつはイケる、世の中のお役に立てると
 判断できる相手に対し、近ごろの私はやや厳しいツッコミを入れる。
 ここぞのエネルギーしか使わない、しみったれ親父の省エネである。
 しかも何だよ、このやらしい上から目線わあ~


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 2012年3月17日(土)/その989◇究極のそれ

 「まるで能面なんです」

 女子大で教える秀の呑み友トヨアキが云う。
 彼女たちは表情でコミュニケーションを獲ろうとしない。
 自己表現をしない、いや出来ないのだと云う。

 一方で、提出するレポートには表現豊かな個性的内容を書いてくる。
 やはり表現することに渇望はあるのだ。
 どんな時代にも特徴はあるが、現在はそれが流行だという話。

 講義中の冷んやりとした能面の海の中で、
 ウッカリおやぢギャグなんぞをやらかすと、
 彼女たちの能面度は益々上昇するらしい。

 受け持つ女子大生のために、一度フラメンコの講義をやってほしい。
 ずっと前から、そうトヨアキにせっつかれている。
 だが、そうした実験を希望する彼の真意というのは、
 どんな場であろうと3分に一回はやらかす私のおやぢギャクを原因とする
 彼女たちの「究極の能面」状態をつぶさに眺めることにあるに違いない。


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 2012年3月18日(日)/その990◇反面教師

  「俺も彼らと同じなんだよ」

 まるで殺人を告白する犯罪者のように兄は云った。
 次男の大学入学式にノコノコ出掛けたことを、私に懺悔しているのだ。

 教師であるある兄には、すでに四十年、
 親の過保護の理不尽な残酷さが身に沁みている。
 マインドコントロールによって少年少女のポテンシャルの羽根をもぎ取り、
 自分そっくりな社会的デクノボウを製造しようとする無意識な確信犯と、
 その犠牲者たる彼らの子らに、己の無力さを痛感し続ける彼である。

 何で食うのもたいへんだから、好きな道で生きるのがいい。
 叔父さん(私)のように生きたいなら好きな時に家を出ればいいし、
 高校大学でそれを見つけたいのなら受験勉強は俺が教えてやる。
 小学生だった甥っ子たちは、兄にこう宣言された。
 フーテンの寅を叔父に持った幸運から、
 甥っ子たちは躊躇なく、学業の道を自ら選んだ。

 冒頭の兄の自嘲にはウソがあると私は見抜いていた。
 血税によって勉学の栄誉を与えられる息子の、その合格を知った日、
 兄はすでに彼を"家"から切り離している。
 出征する我が子に最後のエールを送るべく、
 意を決し、化け物たちが多数蠢く過保護者席の片隅に腰掛ける兄。


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 2012年3月18日(日)/その991◇今井翼/つけ麺の達人

 日清のつけ麺のテレビCM。

 えーっ!と思ったら、やはりツバメンコ今井翼さんだった。
 初めて観たが、つけ麺のあまりの旨さに、
 ツバメンコは吹っ飛ばされるという、男っぽくてコミカルなCM。

 ま、とりあえず、これからご近所スーパーに買いに行く。
 本日晩メシはこれで決まりだが、
 今井翼を遥かに上回るこのオレを(体重・年齢面において)、
 果たしてこのつけ麺は吹っ飛ばすことが出来るだろーか?

 
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 2012年3月19日(月)/その992◇壊れコンピ

 囲碁の世界でも、コンピューターが大暴れしている。

 おとなり将棋の世界では、この正月に元名人が敗れたばかりだが、
 つい先日、ハンデ戦ながらも、ベテラン強豪がやはりコンピに敗れた。
 その勝負の内容からは、思いがけない実力の接近が窺える。
 囲碁は変化が膨大なので、あと十年くらいは楽勝だと思っていたが、
 いやはやコンピューターの進化というのは凄まじい。

 囲碁も将棋もその昔は、読み筋がズバ抜けて正確な棋士を、
 「まるでコンピュ-ターのようだ」と若干の揶揄を加えつ、
 未知なる恐れとともに賞賛したものだ。
 そして今は、強いコンピューターのことを
 「まるで人間のように強い」と賞賛する。

 まるで壊れたコンピューターのようだと
 賞賛されることの多い私はどちらにも属さないが、
 こうしたコンピューターとプロ棋士の対決は、
 以後も注目したい・・・いや、
 囲碁も将棋も注目したい。


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 2012年3月20日(火)/その993◇それから

 あれは松田優作さんじゃないか?

 悠然と走る都電の端っこの席に腰掛け、
 何やら難しい風情で、もの想いに耽る高等遊民。
 漱石原作の映画『それから』のワンシーンらしいことが、
 おぼろ気ながらわかっている。

 車窓に目をやれば、上野の不忍の池あたりだ。
 ああ、なんて懐かしい風景。
 ここらじゃけっこうスピード出すんだよな。
 ボート揺らめく穏やかな池沿いをしばらく行って、細い路地へと左折する。

 んっ。ここは、たしかに新宿歌舞伎町ゴールデン街の脇道だぞ。
 な、なんだか路線が違うじゃん。
 もしかしてこれは夢かということが、少しだけわかってきてる。
 それとトイレに行くのが面倒っちいっていうのも少し入ってる。

 やがて都電は、江東区の亀戸九丁目の停車場を通過し、
 だだっ広い京葉道路から専用路線のある右斜めの小路へと入る。
 いよいよわが家は間近である。
 浅間神社前を通過し、中川の木橋を渡り、カーブしながら坂道を降下し、
 坂下の小松川三丁目で止まる。

 わが家は目前だが、なんだか降りるのが勿体なくて、
 終点・西荒川まで行くことにする。
 歩いてもせいぜい5分の距離だから。
 優作さんはすでに車内にいない。
 てゆーか乗っているのは私だけだ。

 相変わらず終点の西荒川は寂しい。
 すぐ先の土手の長い石段を駆け上がり、夕暮れの荒川を眺める。
 ふと、ここらに住んでいたはずの、ニシムラの寂しげな横顔が浮かぶ。
 いま想えば、かなりの美少女だった。
 シャイだったあの頃は、口をきくことさえ出来なかった。
 今では口数の多さで勝負する男になったが、
 惜しいかな、髪の毛数が少なすぎる。

 その瞬間私は、束の間のタイムスリップから56歳の自分に戻っている。
 トイレに起きようか、それともこのまま土手道を南に歩こうか。
 そうだ、原稿の続きを書かなくちゃな。
 今日は締切だから、原稿整理にもてんやわんやだ。
 それから.........


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 2012年3月21日(水)/その994◇楽語時代

 「朝刊」と掛けて、
 「僧侶」と解く。
 その心は「今朝来て(袈裟着て)今日(経)読む」。

 ナゾ掛けの技術は、コンピューターの演算機能によく似ている。

 「A」と共通する性質を持った「B候補」を片っ端から検索する。
 その共通項はおやぢギャグのように「音(おん)」であっても構わない。
 その中から意外性や面白みのある「B」を素早く選択する。
 そこで改めて「A」「B」の共通項を明示する。

 落語少年だった私は、コンピューターが普及する以前から、
 絶え間なくこうした厳しい修業を積んできた。
 落伍青年の烙印を押されるのは、そのおよそ十年後である。

 あの頃は、人に笑われる人間になってはいけないと云われる時代だった。
 だが世相は、変わるべくして変わる。
 今はむしろ「楽語時代」の到来が望まれる時節のような気もする。


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 2012年3月22日(木)/その995◇相棒10/最終回

 見逃せないライヴや、親しい仲間との呑み会が重なり、
 しばらくご無沙汰だった『相棒』だが、
 その最終回とあっては、あらゆるオファーを断ち切りわが家に直行する。

 ちなみに私はテレビの録画をしない人だ。
 今現在に集中したい人なので、すべてリアルタイムを好む。
 まあ、録画のやり方さえ憶えることが出来れば、
 そういう方針はわりかしコロッと変わるだろーが。

 さて、相棒・最終回。
 斎戒沐浴し、万全の体制を敷き、もちろん正座で観る。(うそ)
 予想通りの観応えだった。

 右京と神戸のやりとりには、
 逞しい生命力を大前提とする論理×行動の美しさと、
 磨き抜かれた粋があった。

 なるほど、そうしたものか。
 稀にアートやエンタに宿る、芯のある吸収すべきリアリティ。
 キャッチしたものを、本気で摂ってやろうと思った。

 近頃は何であれ、いいものが皆、
 バッハやフラメンコのように観えてしまう、
 聴こえてしまう、感じてしまう。

 ふー、アブねえ、危ねえ、
 ここらへんはヨソじゃあ黙っておこう。 
   
      
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しゃちょ日記バックナンバー/2012年3月④

2012年03月01日 | しゃちょ日記

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 2012年3月23日(金)/その996◇桜を待つ

 もうすぐ桜だ。
 開花中は仕事どころではないが、
 この時期は、その前にひと仕事ある。

 佐藤浩希、有田圭輔、大沼由紀などをはじめとする執筆者多数による
 月刊パセオ下半期から来年上半期にかけての原稿が大集結し、
 原稿整理→デザイン出し→校正→修正という反復プロセスを、
 せっせと多数同時進行でこなしながら完成させてゆく。
 私担当の原稿は、タイムリーものを幾つか残すのみで既に仕上げてある。
 ナマイキにも人生を楽しみ尽くしたい臆病者の、あるひとつの世渡り技術だ。

 締切を破られる場合は、ブチ切れながら即刻自分で書いてしまうという、
 血も涙も(ついでに金も毛髪も)ない鬼編集長。
 積極的に流出させたそういう私の実態・評判は業界中に浸透し、
 結果、理不尽なコンパス破りは皆無となった。
 震災や不況に対する公機関の後手後手の対応。
 そこに夢破れる現状では、
 小さいながら民間個々がそれぞれに筋を通す以外に道はない。

 守られる約束に対し、利息の発生する借入金で、前倒しでギャラを支払う。
 利息をケチるより、次なる仕事に集中してもらう闊達な精神衛生を採りたい。
 例外なきコンパス厳守の方針が没交渉を招いた例もあるが、
 ナアナアを廃し、ヒトラーと呼ばれるその代償は、
 周辺のウツ状況の一掃と常に前に進もうとする気風、
 アドベンチャー企画の受容体制の完備、そして大幅なコストダウン、
 さらに望外の成果は、パセオ周辺に漲るエネルギーと心の余裕。

 ハードな実務と弾む心で桜を待つ。
 この寒さをバネとしながら、今年はいい桜が咲くはずだ。


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 2012年3月24日(土)/その997◇レトロな食卓

 働き始めた十代後半、職場の大将や先輩たちに
 いろんなものを食わせてもらう機会が増えた。

 中でも一番ショッキングだったのが"スキヤキ"だ。
 家では、スキヤキと云えば豚、それも豚コマが定番だった。
 大皿に立派に居並ぶ一枚肉を見て、私はこう云った。

 コレハナンデスカ?

 
 あれから四十年。
 最近じゃあ、例のおふくろの豚コマ・スキヤキが妙に懐かしい。
 ふと思いついて、今晩も連れ合いと割下・生卵でそれを突ついた。
 肉のコストはおよそ5分の1だが、旨さにはそれほどの差はない。

 炊き立てご飯にバター乗っけて醤油たらして食ったり、
 鯛の塩焼きの残り骨に熱湯かけて醤油たらしたの飲んだり、
 長ネギを味噌と酢で叩いたやつで一杯やったりと、
 近ごろのうちの食卓はちょっとしたレトロブームだよ。


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 2012年3月25日(日)/その998◇トワイライト・エクスプレス

 この火曜夜の単発二時間ドラマ。
 俳優の佐藤浩市さんと中山美穂さんにも注目したが、
 何と云っても脚本はあの鎌田敏夫さんだから、自ずと期待は高まる。
 彼の書いた『俺たちの旅』(中村雅俊主演)は、ドン底を喘ぐ青春期の私に対し、
 あるシンプルな好ましい方向性を与えてくれた。

 さて、その単発ドラマはありふれた不倫物語なのだが、
 そのテーマの普遍性は人間心理の奥底に達していて、
 鎌田氏ならではの深いリアリティをもって描かれる。
 二人の会話のニュアンスだけで、過去のプロセス詳細がわかる仕組みも秀逸。
 彼はいい事も悪い事も徹底的にやって来た作家のように思える。

 主役男女のアンサンブルにも観るべきものが多くあった。
 ハッピーエンドなのか、あるいはその逆なのか?
 一元論で収まれば波風は立たぬが、一筋縄では行かぬのが人間だ。
 アルテはより良き生を促し、人は葛藤しながらさまざまに試行錯誤する。
 そこらへんの渾然とした現実性を紡ぎ出せる役者はそう多くはない。
 意外とアッサリするその深い余韻。

 現実はカオスに充ちており、
 その最終決定を下すものは世間体にはなく、
 やはり自己決定能力以外にはないのだ。
 現実の厳しさ複雑さはハンパではないが、そういう意志そのものに、
 悩める人間のひと筋の光明を見い出せるドラマだった。


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 2012年3月26日(日)/その999◇忍者と牛丼

 掛け縄を駆使しながら、木から木へと飛び移る。
 どうやら私は忍者らしい。
 現在の私の体重なら、太い枝でも楽々折ってしまうはずだが、
 軽快にして敏捷なあの「伊賀の影丸」のようなイメージで跳ね回っている。

 だが、広がる景色はどこかヨーロッパ風だ。
 ロビンフッドのあのシャーウッドの森のような風情。
 見渡せば、仲間らしき者の中に邦人はいない。

 向こうから騎乗の兵士が二名駆けてくる。
 その圧政が不評を買う王城の正規軍のようだ。
 六でなしアウトローが集まる巣窟の斥候にやって来たのだろう。

 木上から石つぶてを命中させ、兵士たちを落馬させる。
 すかさず仲間たちが馬を召し上げ、手傷を負った敵を追い払う。
 逃げながら振り向いた敵兵のひとりは、同級生のオオバだった。

 オオバと私は、河のほとりに腰掛け、何やら楽しそうに話している。
 ワルだったオオバは、旨そうにハイライトを吸っている。
 私も吸いたいが、馬を奪った引け目があるので、一本寄こせとは云いづらい。
 
 なあユウさん、学校に戻ろうや。
 意外なことを奴が云う。
 学校は退屈だからオレにゃあ無理だと、私は返す。
 アオキがお前に会いたがってる。
 そう云いながら背を向け、オオバは街や城のある方向に足早に去る。

 学校か。あのおんぼろ木造校舎がそれなりに懐かしい。
 なぜか小川の脇にポツンとあった吉野屋で牛丼を食いながら、
 もう忍者はやめようかと思い始めている。
 牛丼に乗っけた紅生姜の赤が鮮烈であり、
 久々にカラーの夢だったことに気づく。


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 2012年3月27日(月)/その1000◇祝1000回

 日刊パセオフラメンコ、しゃちょ日記。
 今日の日記で祝1000回!である。
 
 驚くなかれ、常連読者は世界中で約三名(私と犬も含む)を数える。
 まあ、云ってみればテニスの壁打ちである。
 その選りすぐりの傑作不良在庫を月刊パセオに転載したりもする。

 「あのページだけは、白紙でメモ帳スペースにした方がいい」

 善良なパセオ読者の多くは、このようなアドバイスを寄越すが、
 果たして本当にそうだろうか?

 「下には下が居るものだ」

 このしゃちょ日記を読むことで、ドン底から見事立ち直った人は
 この世界に約二名(私と犬を含む)いることを忘れてはならない。


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 2012年3月28日(火)/その1001◇祝1000回の収穫

 昨日、日刊パセオ「しゃちょ日記」が祝1000回を迎えた。

 祝電は一通もこなかった。
 酒をおごってくれる人は一人もいなかった。
 現金書留で1000万円送ってきた人も皆無だった。

 「だいたいからして、祝1000回って自分で云うかね?」

 血も涙もない、そういう暴言を吐く鬼は何人もいた。
 駅前でケバいねーちゃんにもらった
 ポケットティッシュが唯一の収穫だった。


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 2012年3月29日(木)/その1002◇憑依するマナー

 「マナーみたいなもんじゃねえかな」

 千葉訛りのそのひと言が、今も鮮烈に脳裏にこびりつく。
 三つ先輩のハマノさんは不細工だが、やたらと明るい人気者だった。
 レストラン喫茶の厨房修業の最初の師匠なのだが、
 残念ながら仕事はイマイチだったと思う。

 好奇心旺盛な18歳の私を、さまざまな悪所に引っぱり回してくれたのも彼だ。
 私のために使ってくれた金はハンパじゃなかったと思う。
 いやあ世間は広いなあ、ほんとに人生なんでもアリなんだあと、
 そういう社会勉強をたくさんさせてくれた、
 云わば私の青春の恩人なのである。
 ちなみに、意外にも彼はのちに宝石商として成功する。

 さて、レストラン喫茶のランチタイムの厨房はほとんど戦争状態なのだが、
 その最中、これでもかと連発されるハマノさんの三流ギャグには
 妙な迫力と安らぎがあった。
 彼はそれを働く人間のマナーだと云った。

 まあ、それはそれとして、それよかチーフ、
 料理のクオリティをもうちょい何とかしろやいと、
 心の中でいつも私は激しく突っ込んだ。

 あれから39年。
 月刊パセオフラメンコの締切戦争が押し寄せるたびに、
 そういうハマノさんが猛然とこの私に憑依する。
 おそらく編集チーフである私は、
 厨房チーフ・ハマノさんその人となっている。
 三流マシンガンギャグを連射する私に対する
 編集部・小倉や岩井の激しい心のツッコミが、
 どこからともなくガンガン聞こえてくる。


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 2012年3月30日(金)/その1003◇本日ねじ

 夜は吉祥寺で「森田志保/ねじ7」を観る。

 森田志保が登場する9月号(con flamenco=表紙+カラー8頁)の
 大森有起写真に短い文をつけるので、その取材も兼ねている。
 公演忘備録は同行の國分郁子が担当する。
 先ごろ銀座で個展を開催した、東京芸大出身の若手画家である。

 現在森田志保はパセオ本誌に「ねじ」(撮影・北澤壯太)を連載中だが、
 それはライブシリーズ「ねじ」の延長線上にある。
 それらのベースに共通するのは、柔軟で骨太なヴィジョンであり、
 その懐かしい心象風景と毅然たる意志の表現には、まいど毎度ドキリとさせられる。

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 2012年3月31日(土)/その1004◇古典コテン

 「まずは、発信すべき何かを身につけることが先決なんじゃない?」

 発信すべきものを持たない人間が、
 何かを発信しようとすること自体に社会の危機を感じるの。

 古典文化に精通するある聡明なアーティストがそう指摘する。
 その攻撃対象の典型例である私としては、とりあえず反撃を試みる。

 「でも最近じゃあ、ツイッターが革命を起こすなんて例もあるんだぜ」
 「では、そうした革命が好ましい前進をもたらした例はあるかしら?」

 ちぇっ、よく勉強してやがる。
 相変わらず彼女の分析と読み筋は極めて精妙であり、
 この垂れ流しカラッポ野郎はまるで歯が立たずコテンコテンにやられるのが常だ。
 老いたりと云えども、彼女の透明な美貌は昔のままだ。
 そういう彼女の深い哲学と潔い行動力が、今もそういう彼女を形成している。

 闘いながら闘い方を覚えたいタイプの私は、それでもブログを書くことをやめないが、
 彼女の云う理はいつでも心にセットすべきだろう。
 数百年の社会的風雪に耐えた古典(かつての超優良革新)センスの本領というのは、
 いつでも現代の方向性をジャッジするバロメーターとなり得るから。


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