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2013年7月1日(月)/その1362◇何点満点なのか
大好きなアルテに対する理解度を自己採点するなら、
将棋は90点、
バッハは80点、
落語は70点、
フラメンコは60点、
藤沢周平は50点、
仕事は同じく50点、
どんちゃん騒ぎは40点、
人生は35点、というところか。
なかなかイイ線行ってるじゃないかと我ながら思うが、
これが1,000点満点でなければ、
もっともっと自分を褒めてあげたいところではある。
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2013年7月2日(火)/その1363◇堂々巡り
「もっと考えてから行動したらどうか?」
考える前に動いてしまう私は、
小さい頃から四つ上の兄に、よくこう諭されたものだ。
彼は埼玉大、その長男は千葉大、次男は東大と、右肩上がり好みの兄は、
愚弟の借金の保証人を引き受けることを趣味とするバランス重視の風流人でもある。
よく考えて行動することには、様々なメリットがあることをつい最近知った。
ひとつにはヴィジョン・戦略が明確になるので、
あれもこれもと欲張ることが減り、戦術や戦闘にムダがなくなる。
歳とともにフットワークは衰えてくるので、こうした演繹法は有効に思える。
さらに、自分の過去を冷静に分析し易くなるメリットもある。
それによって、過去の行状のドアホさ加減にも気づける。
それによって、現在の決断が未来に及ぼす影響も予測し易くなる。
ついでに、机上論には不向きなドジな帰納法野郎の私が結局のところ、
実際に自分が痛い目に遭ったことしか書けない宿命であることにも
気づくことが出来る。
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2013年7月3日(水)/その1364◇ご無事を祈る
いよいよプレゾン初日。
午後の公開ゲネプロは、今井連載担当の編集部・小倉と
担当写真家・大森有起が取材し、私は後日取材の予定。
今井さんと事務所のご厚意で、
パセオフラメンコ最新号がグッズ売り場に並ぶ。
出来れば毎日売り場に立って得意の呼び込みをやりたいところだが、
私のキャラ(チンピラ風)が公演のイメージを損なう恐れがあるので自粛する。
定期購読申込と書店注文は相変わらずの勢いで、
楽日まで部数が足りるかどうかは微妙。
今日明日の出足を参考に増刷を検討する必要がある。
それにしてもプレゾン40公演。
スペインでのあの快挙(東敬子取材で10月号カラー8頁)から
休む間もなくダッシュを続ける今井さんのご無事を祈るばかりだ。
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2013年7月4日(木)/その1365◇奇跡の二択
「人生を生きるにはふたつの方法しかありません、
奇跡なんかないという生き方と、
すべてが奇跡であるという生き方です」
ツイッター上にアインシュタインのこんな言葉を発見した。
スケール豊かに、かつ実に味わい深い。
さすがは「アイーン!」の作者だけのことはある。(←ええーっ?)
人生58年やってると、「奇跡なんかない」という考え方は普通に納得できる。
ヴィジョンと努力の合致する人が、不運なんぞをモノともせずに
幸福な人生を切り拓く有り様を見かけることは実に多いから。
これは奇跡でも何でもなく、普通にシンプルな確率論だ。
一方「すべてが奇跡である」という考え方も、
人生58年やってると、ああまったくその通り!と実感できる。
例えば、私のようなヘンチクリンな人間がこの世に生を受け、
かつ、58年も生かしてもらってること自体、すでに奇跡である。
殊に人やアートとの出逢いの幸運は、奇跡以外の何モノでもないから。
そんなわけで、どちらのスタンスも好ましく思うが、
どちらか云えば後者の大らかさに惹かれる。
そこには人の生き方や能力を区別しない巨大な明るさがあって、
例えばある種の落語やフラメンコのような、
人知を超えたところの人類の直観ならではの
ファンタスティックな英知を感じるから。
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2013年7月5日(金)/その1366◇三十六計
「どんな馬鹿でも批判したり、非難や不平を言うことはできる。
そして大抵の馬鹿はそうするのだ」
(デール・カーネギー)
ツイッター上に〝自己開発〟の教祖さま、カーネギーの言葉を知る。
随分とやられたであろう彼の怒りがストレートに伝わってくる。
ついでに云うと、あの優れたアーティストの人生の選択に対する
ヒガミ根性ぷんぷんの誹謗中傷には閉口する。
昭和14年に初来日したカーネギー(1888-1955年)は、
現代日本の多くのマスコミや一般人コメントの傾向をも予測していた。
それにしても週刊文春の自爆には菊池寛師もワナワナと激怒されてることだろう。
「〝歴史〟は勝者によって創られる。
だから、ツイッターはその裏側を補填する」
同じくツイッター上にそんな論旨を読み、
なるほど、そういう視点もあったかと目からウロコ。
そう認識すれば確かに、世に蔓延する愚痴や嫉妬の顔も立つ。
ジェラシーは進歩の動機でもあるから永い目で肯定したいが、
あの貧乏臭い精神的悪臭からは、とりあえず遠ざかる一手だ。
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2013年7月6日(土)/その1367◇究極の選択肢
「瞬間の音の美に心打たれると、
美とはそれ以上因数分解できないものだと痛感する」
私の好きな音楽ライター小田島久恵さんのツイートなんだが、
これを目にした時の衝撃は忘れられない。
こうした発見を自分らしい言葉で話す、あるいは書く。
そのことの楽しさを存分に自覚できた瞬間だった。
さて、瞬間の音の美しさについて、
ギター少年だった私の原体験を思い起こすと、
渡辺範彦、アンドレス・セゴビアのライブ、
クリストファー・パークニングのレコードなどがこれにあたる。
その後は、ナタン・ミルステインのヴァイオリン、
ハンス・マルティン・リンデのブロックフレーテ、
アルフレート・ブレンデルのピアノなどにその領域を広げてゆくのだが、
奇妙なことにフラメンコにおいて、それに出喰わしたことは一度もない。
天上をめざすクラシック音楽の耽美性と、
地面に根ざそうとするフラメンコのリアリティの違いは
こんなところにもあるのかと気づく。
前者を思わず息を呑むような美しい女性とするなら、
後者は一緒にいるとただそれだけで楽しい女性のようだ。
なので、どちらかひとつを選ぶのはとても困難なことだ。
どちらにも縁がなかったことが不幸中の幸いだったようにも想えてくる。
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2013年7月7日(日)/その1368◇夏バテメニュー
熱したフライパンにたっぷりのオリーブオイル。
弱火で大量のにんにく微塵切りとアンチョビ缶と塩コショウ。
アンチョビが溶けたら器に移して冷凍庫で冷やす。
冷製じゃがいもスープ(市販)とサラダとオリーブなんかをつまみに
スパークリングワイン。
パスタは固めに茹でて、水道水で冷やす。
水を切ったパスタに先ほどの冷えたアンチョビソースをからめる。
トッピングは生マッシュルームと茹でたグリーンアスパラなど。
買い物スタートから洗い物完了まで約90分の土曜の夕食。
出費は酒込み二人前で2000円ちょい。
明暗はパスタの茹で加減。
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2013年7月8日(月)/その1369◇夏バテメニュー(その2)
炊き冷ましの銀しゃり。
これに冷蔵庫で冷やした味噌汁を存分にぶっかけて、茶漬けのように食う。
かつお出汁の味噌汁は具なしがいい。
若いころは、冷めた味噌汁なんか飲めるか!ってくらいの熱々を好んだが、
三十代に池波正太郎師の小説シーンでこの冷やし食いを知り、
それ以来夏の定番メニューになっている。
おかずはなくてもいいけど、焼き魚なんか合うよね。
大根おろし山盛りでさ。
銀ダラの西京漬けなんかで冷や酒やって、その残りとか。
冷やなら焼いて皮むいて一晩旨出汁に漬けた茄子なんかもいいね。
まあ、これからそのぶっかけ飯を食うわけだけど、
おかずの銀ダラも茄子の仕込みもねえし、
おまけに朝なもんだから当然シラフだし、何故かキャベツ炒めなわけよ。
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2013年7月9日(火)/その1370◇アリの幸福
「私自身は空洞のような存在だからなぁ...
他人の表現の魅惑に、一瞬で全身が満たされる。
いつでも空っぽで、ワープの準備ができているのです」
注目する音楽ライターのある日のツイート。
アートに触れる際の、ある種理想的な状態、あるいは体質。
対象に入り込む技術は少しだけ身に着けたつもりだったが、
こういう人に比べると、まだまだ私などは
自我のかたまりのようにも思えてくる。
その代わりに「現実で何が幸せなのかわからない」と、
このツイートを彼女は締めくくるのだが、
この部分についての私は、ムダに豊富な年齢と経験から、
現実の幸不幸をかなり鈍感な感性で客観的に眺めることができる。
幸不幸というのは、まるで振り子の往き来のように共にはかない表裏であり、
どちらも毒と薬を大いに含んでいるところは共通している。
幸福を支えるものが既得権的なものであるならばそれはジリ貧への毒であり、
不幸を脱出しようとするエネルギーと冒険はそれ自体幸福な希望を帯びている。
振り子の振り幅を自由に選択できる人類は、そのことを
「楽あれば苦アリ、苦あれば楽アリ」と分かり易く公式化したが、
働き者のアリたちがこの問題をどう捉えているのか、実に興味深い。
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2013年7月10日(水)/その1371◇思い込み
ニューヨークの音楽の殿堂カーネギーホール。
その設立者を、大ベストセラー『人を動かす』の著者デール・カーネギーその人だと
てっきり思い込んでいたが、そりゃ人違いだったことをつい先ほどネットで知った。
カーネギーホールはアメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーによって建てられた。
1891年のコケラ落としには、アメリカ旅行中だった晩年のチャイコフスキーが出演したという。
日本でも近年、格調高きホールが次々と閉館となっているけれども、
この名ホールも1925年に不動産開発業者に売却され、一時は存続も危ぶまれたが、
結局ニューヨーク市が買い取り、現在は非営利ホールとして運営されている。
こんな史実を簡単に知ることのできるネットの便利さに改めて感心しつつ、
史実よりもその周辺に発生したユーモアの探索に興味が行ってしまう。
今回も、このクラシック音楽家の聖地カーネギーホールと、
ショパン夜想曲の演奏などで名高いピアニストに関する
こんな傑作ジョークを見つけて大喜び!
「すみません、カーネギーホールへはどうやって行くんですか?」
カーネギーホールに向かう大ピアニストのルービンシュタインは、
道に迷う人にこう尋ねられ、このように答えた。
「練習して、練習して、さらに練習してください」
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2013年7月11日(木)/その1372◇リトマスの朝
テープ起こしと編集事務で会社に貼り付く木曜の朝バッハは、
アンドラーシュ・シフの鍵盤パルティータ3番。
冒頭ファンタシアは揺れ動く心のヒダか。
第二曲アルマンド「行こか戻ろか、戻ろか行こか」の切ない揺らぎが甘い感傷を呼び覚ます。
続くクーラントに「行くっきゃねーだろ」とドヤされ、ハッと単細胞の自分に還る。
だがサラバンドが、重たい不安を帯びた現実を冷静に提示する。
続くブルレスカは決断に向かう心の準備。
間髪入れずスケルツォで駆け始める。
終曲ジーグは玉砕の詩のようにも聞こえるし、明るい応援歌のようにも聴こえる。
まあ、何ともロマンティックな凄演で、
こんなふうにこの名作を聴かせてくれるのは名手シフのみだ。
まるで優れた古典小説のような緩まぬ構成力に時を忘れてしまう。
終曲をどう感じるか?
聴き手の心の状態を浮き彫りにする、おそるべきリトマス試験紙。
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2013年7月12日(金)/その1373◇温泉気分
明日土曜は川口リリアでバイラオーラ鈴木眞澄の『親子四代フラメンコ』の本番取材。
母(カンテ・バイレの鈴木高子)と子(バイレの三枝雄輔、三枝麻衣)と孫。
彼らは11月号の『表紙&CON FLAMENCO』に登場する。
日曜は新宿エルフラでフラメンコロイドの本番取材。
ギターの松村哲志、カンテの阿部真、高橋愛夜という精鋭メンバーで、
10月号『しゃちょ対談』にフラメンコバンドとして初登場。
月曜は、『小島章司、碇山奈奈、森田志保のトライアングル企画』のまとめ。
パセオフラメンコ創刊30周年企画の第三弾で、
来年3月号に表紙&カラー16ページでどか~んと登場。
火曜は阿佐ヶ谷で徳永ファミリーの来年新年号『しゃちょ対談』取材。
父(ギターの徳永武昭)、母(バイレの小島正子)、子(ギターの徳永健太郎、康次郎)
インタビュー後は高円寺エスぺランサで撮影取材(大森有起)と本番取材。
水曜は新宿エルフラでバイレの渡部純子のソロライヴ本番取材。
渡部は10月号の『表紙&CON FLAMENCO』に登場する。
文章の下書きは出来てるので、あとは本番のインスピレーションを注入するだけ。
木曜はさすがに半休をとるが、土曜夕方までにすべての原稿を片づけ、
以前からお約束の呑み会に駆け込む予定。
とまあ、けっこうハードな一週間となりそうだが、
この山を越えさえすれば、ゆったりとした温泉気分で
社長業や営業や編集長業に集中できる見込みだわ。
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2013年7月13日(土)/その1374◇フーガの技法
「ねえねえ、わかってるよね?」
土曜の朝は、ジェーとご近所代々木公園に出掛けるのが定番。
なので彼は、金曜晩から私に貼りつき、それを幾度も確認する。
風呂やトイレも後追いし、番犬のようにドアの前には貼りつき、
私がトンズラせぬよう根気よく見張る。
いつもは連れ合いにベッタリなんだが、
金曜深夜から土曜朝にかけては、私の耳元に寝床をとる。
私が起き出しパソコンを開けば、今度は足元の床にペッタリ貼りつく。
今も時おり私を見上げながら、こんなニュアンスをパッチリした両の眼で促す。
「ねえねえ、そろそろだよ、わかってるよね?」
わかってるさ、これ書いたら出掛けるからな。
今日の朝バッハ、「フーガの技法」弦楽四重奏版をBGMに、
これ見よがしに彼はストレッチを始める。
ツイッターへの書き込みをあきらめ、お散歩の準備にとり掛かる。
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2013年7月14日(日)/その1375◇パブロフの豚
死して尚、世界中の音楽ファンに最も愛される
ピアニスト、グレン・グールド。
彼は夏目漱石の『草枕』をこよなく愛したという。
『草枕』は最も優れた芸術論のひとつだと思うが、
そのラストシーンなどは、まさしくフラメンコそのものじゃんか。
鬱陶しい常識や慣習にうんざりする時、
ほとんど無意識・反射的にグールドを聴くことが多い。
数少ないルールは厳守するが、
それ以外は、心の揺らぎと知性の運動を貴ぶ在り方。
まあ、自由奔放と云うか、我がままと云うか・・・。
珍しく今朝はバッハではなく、グールド弾く『バード&ギボンズ』を聴く。
音楽史ではバロック以前のルネサンス音楽に分類される、
素朴にして生命感の躍動する音楽だ。
高校の裏手にあった図書館で借りて初めて聴いた頃はピンとこなかったが、
その四十年後に聴くウィリアム・バード(英国/1543~1623年)と
オーランド・ギボンズ(英国/1583~1625年)には、妙に親近感がある。
忙中閑あり。
その〝親近感〟の正体をあれこれ想いやる無駄が本日のお楽しみ。
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2013年7月15日(月)/その1376◇束の間の恍惚
昨晩はニコラーエワのバッハで爆睡。
案の定、冒頭イタリア協奏曲の二楽章あたりで撃沈した模様。
す、すんまへん。
このCDのディレクターは、敏腕で知られたビクターの野島友雄さん。
録音はパセオ創刊二年前の1982年だから、当時私は音楽プロモーターであり、
やはり彼の担当するギタリスト福田進一さんらと呑む機会も多かった。
ちなみにその五年ほど前、新卒の私はビクターの入社試験にスコンと落ちている。
さて、タチアナ・ニコラーエワ(1924~1993年)はロシアを代表する女性ピアニストで、
1950年バッハ没後200周年記念ライプツィヒ・バッハ国際コンクールの優勝者。
そこで彼女の才能に誘発されたショスタコーヴィチは、
あの大作『24の前奏曲とフーガ』をニコラーエワに作曲献呈している。
「バッハの演奏に、私は一生を捧げるつもりです」
そのピアニズムからは、こういう彼女の絶対的なスタンスがにじみ溢れる。
一音一音じっくりと磨き抜かれた、あの優しい天上的美音。
そして来るか来るかと、ついつい待ち望んでしまうあの〝揺らぎ〟。
わずかな〝間〟の呼吸によって生じるあの至福感は、
未来永劫コンピューターにも不可能な領域であると思われる。
今もこれを書きながら、そこにアンテナを張りつつ彼女に聴き入る。
マエストラの訃報を知ったのは、フラメンコ協会の立ち上げに一段落つけ、
そのツケたる莫大な借金に立ち向かい始めた時期であり、
思うように回らぬ首で聴いた『小フーガ』や『シチリアーノ』の束の間の恍惚感が、
崩壊寸前の私を辛うじて救ってくれたことに思い当たるのである。
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2013年7月15日(月)/その1377◇我に無きゆえ焦がれる憧憬
「通り雨過ぐれば庭の青石のみどり勝りて風の涼しき」
「朝顔の垣吹き抜くる風ありて風に青とふ色のありけり」
ウェブ上に思わず息を呑んだ、ツイッター友(kirakiraさん)の作品。
その季節感、色彩感、肯定感の鮮やかな癒しに心が和む。
自然の生命感とほんのちょっとの文明が織り成す対話を掬いとる人間の感性。
ああ、なるほど、
おれはこういう絵画や小説や音楽や人間が好きなのだと、ふと思い当たる。
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