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2011年5月1日(日)/その677◇生誕記念
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ。
まあ、乱暴に云うならパコ・デ・ルシアのような大チェリストであり、
雄大なスケールと超絶技巧という点で二人は酷似している。
だから、若い頃からパコのレコードと並行してロストロのレコードはすべて買い集めた。
今でもよく聴くのは、シューベルト『アルペジオーネ』とブリッジのソナタのカップリングと、
世界中の注目を浴びたあの1992年のバッハ『無伴奏チェロ』全曲である。
最新の「レコード芸術」で、彼のバッハ無伴奏の1955年ライブ音源が
初めて公に発売されたことを知り、昨日ようやく渋谷タワーで入手した。
それはロストロポーヴィチを絵に描いたような、予想通りの快演だった。
リスクを恐れない潔い弓のアタックから発せられる巨大なダイナミックレンジ。
とてつもなく息の長いフレージングから生まれる深くスリリングなドラマ性。
当時20代だった今はなき巨匠の、独特の演奏スタイルが映像のように視えてくる。
パコ・デ・ルシアに例えるならアルバム『魂』が一番近いかな。
さて、この名演が録音された1955年と云えば、私の生まれ年でもある。
よって、この世紀の名盤のことは今後はこう呼ぶことにしよう。
「私の生誕を記念して録音されたバッハ無伴奏の金字塔」
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2011年5月2日(月)/その678◇フラメンコの深遠
パセオ5月号「公演忘備録」の舞台写真(ⓒ北澤壯太)の、
瀕死の白鳥を舞うマリア・パヘスのあまりの凄艶美に、
ああっ! と思わず感嘆の声をもらした紀子は、
続くページのピリニャーカ婆さんの写真をじっくり見つめた後、
ため息とともにこうつぶやいた。
「ふうっ。マリア・パヘスでも、まだまだなのねえ」
そういうフラメンコの深遠について、
ガチンコ感想レギュラーのみゅしゃはこう書いている。
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by みゅしゃ
パセオフラメンコ5月号のガチンコ感想です。
今月号は、エンリケ・モレンテの追悼を始めとして、
カナーレスの再起、パヘスの『瀕死の白鳥』の舞台写真、
そして、濱田先生の懐かしい人々等の記事によって、
生きること、死ぬことの意味を深く考えさせられました。
どれもが鎮魂歌のように心に沁みて来たのです。
「心から泣けるフラメンコ」ピリニャーカ。
今回一番熱くフラメンコを感じた女性です。
真新しいパセオをパラパラとめくって目に入った時、
渋いカンタオールだなあと思い、
読み進むと「皺がれ婆さんの」という表現があり、
女性だということに気付きました。
失礼してしまったと内心で非礼を詫びつつ、
性別を超越した人間をしての深みを感じたのでした。
A30の写真に静かな感動を覚える一方で、
その面影にはフラメンコの数々の華やかなアルティスタたちとは
違う何かがあることが見てとれて、それを探そうとする自分がいました。
へレスの農夫の娘として生まれ、カンテ・ヒターノを身につけ、
若いころから地元でも指折りの実力歌手として活躍したピリニャーカ。
しかし、プロの歌い手ではなかったそうです。
レコード録音を残し、テレビにも出演するほど親しまれていて、
それでもノンプロとはどういうことだろう?
ここから私は「アフィシオナード(アフィシオナーダ)」の
意味を考えさせられました。
へレスの古いカンテを伝承するためには、
そこにしっかり根を下ろして生活していることが
大事だったのではないかと想像します。
地道な生活基盤が背景にあるからこそ、歌が深いものになると、
ピリニャーカはわきまえていたのだと思うのです。
本人はそうとは意識していなかったかも知れませんが、
そこに美学があるのではないか。
周りの人たちも、プロかそうでないかという単純な枠組みで判断することなく、
素朴の中にある本物を見抜く目を持っていて、敬意を払う。
へレスの文化への誇りが共有され絆となっているのがわかります。
ここに、日本におけるプロとアマチュアという経済的な価値基準にはない、
アフィシオナードという存在の豊かさがあるのではないでしょうか。
写真をみて感じた、他のアルティスタとの違いとは、
聴衆にアピールするためのケレン味が一切ないことでした。
その正直な佇まいがまっすぐに心を打ってきます。
私は、例えばパヘスには絶対になれないけれど、
ピリニャーカみたいな齢の重ね方に倣うのは許されるような気がするのです。
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2011年5月3日(火)/その679◇ずる休み
むしろ曇り空の落ち着きこそが、
百花園の情緒にはふさわしい。
やりたい仕事があったが、
パセオに向かう小田急に乗り込む寸前、ふと気が変わり、
えーい、今日は休んじまえと、線路向こうのメトロに乗り込む。
先日入手したロストロポーヴィチのバッハ無伴奏チェロ(1955年ライブ)を、
独り心ゆくまで味わい尽くしたいという目論見もある。
派手さのない、だからこそ飽きの来ない、
懐かしい江戸の面影を残す庭園。
この庭園を愛した人々の著作には共感を覚えることも多い。
独り歩きを好む私なのに、
その心は他者への共感に充ちているところが、毎度おもしろいと思う。
五十年前につまらんと感じた竹林が、懐かしく眼前にある。
雄渾なロストロのチェロが、第二番プレリュードに差し掛かる。
哀しみにくすんだ音色が、ふと見上げる曇り空にシンクロする。
マエストロは四年前に他界されたはずだが、
何故かいま、この空に生きていることを実感せざるを得ない。
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2011年5月4日(水)/その680◇佐藤佑子の真価
★カスコーロ・フラメンコライブ [2011年4月29日/東京・要町・スタジオ・カスコーロ]
【バイレ】佐藤佑子、小島慶子、遠藤太麻子、佐藤聖子
【カンテ】エンリケ坂井
【ギター】金田豊
【パルマ】岡野裕子
ライブ全体については小倉泉弥と井口由美子の的確かつ快い感想が前出しているので、
大トリ佐藤佑子についてのみ記そう。
すでにムイ・ヒターナのカリスマとして大活躍していた佐藤佑子の存在価値について、
パセオ創刊当時からわかっているつもりだったが、実は私は全然わかっちゃいなかった。
揺るがぬ純真な魂を貫く佐藤佑子という芸術家の真価を
心ゆくまで味わい尽くせるようになったのは、迂闊にもごく最近のことだ。
優れたアートは自分を映す鏡であるが、
そうしたリトマス行為の資格さえ持てない輩が若い私だった。
暗いわけでもないし、明るいわけでもない。
この日佑子さんの踊ったソレアは、どんな困難にも躊躇なく立ち向かう人間の
逞しい意志とエネルギーそのものだった。
静の舞いは、自らを信じ自らの魂に力をため尽くす祈りであり、
動の舞いは、人を殺傷する機関銃ではなく、人々に〝真〟を気づかせる大砲だ。
一見泥臭いようでいて、その原初な感覚は逞しくカラッと乾いている。
フォームは旧式だが、そのエンジンには時代を超越する神々しいまでの志が宿っている。
淡々としながらも、人の営みの優先順位をはっと気づかせるコラヘ。
一過性の流行ではなく、永遠なる流行を求め続ける真実一路。
その揺るぎない美しさに正確に感応しつつある自分の年齢が頼もしく思えた。
歳を取ることには様々なしんどさが付きまとうものだが、
おそらくはそれと同じくらいいいこともある。
ともすれば酸欠気味に陥るセッカチな私の心に、この日の佐藤佑子のソレアは、
そういう飛びきり新鮮な空気を力いっぱい吹き込んでくれたのだった。
彼女は迷わず我が道を歩み続け、変わったのは私の方だった。
マエストラの本誌〝しゃちょ対談〟への登場依頼を即座に決めた。
余談だが、音響・照明を担当した舞台裏のカリスマ、全国学生フラメンコ連盟の産みの親、
命知らずの同期の桜・間瀬弦彌との久々の再会がなんだかとてもうれしかった。
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2011年5月5日(木)/その681◇仏の教え
フラメンコギターのパコ・デ・ルシアは私の神だが、
哲学者の土屋賢二は私の仏である。
その土屋博士の変客万来・対談集『人間は考えても無駄である』(講談社文庫)に、
こんな感動的なシーンがある。
対談に登場するジャズ奏者が、健康診断で視力検査を受けた時のこと。
視力検査のマークが「E」みたいな文字の開いている所を、
「右」とか「左」とか「上」とか答えるアレね。
で、彼の順番の前の若い男が、看護婦さんの示すマークを見て、「E」と答える。
でも、ほんとは開いてる側の「右」って答えなきゃいけないわけね。
じゃあ、これは?って、看護婦さんが次を示すと、若い男は「ヨ」って答える。
ほんとは開いてる側の「左」が正解なわけね。
何度やっても、若い男が同じように答えるので、とうとう看護婦さんはキレて、
次の方どうぞって、ジャズ奏者の順番になる。
で、彼が示されたのは、「上」が開いてるマーク。
どこが開いてますか?と、看護婦さんに促される彼。
美を愛するジャズ奏者としては、流れからしても当然「山」と答えたい。
普通に「上」って正解を答えちゃったら、
せっかくの奇跡のやり取りが途絶えちゃうからね。
でも結局、怖い看護婦さんに彼は、「山」って答えることが出来なかった。
ここまで聞いた土屋博士は、そのジャズ奏者に猛然と突っ込み諭す。
何で「山」って云わないの?
プロとしてそれはだめでしょ。
歌心がない!
絶対「山」と答えるべきだ!
たとえ看護婦に怒られようが、笑いを追及しなきゃいけないよ。
追求すべきものは追及しなきゃいけないんだ。
いや、この話、わたし的にはホント感動した。
誰も笑わなくとも、誰にも理解されなくとも、
時には命がけで云うべきことはある。
端くれながらもフラメンコに携わる者として、
潔く「山」と答えられる人間に私はなりたいと思った。
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2011年5月6日(金)/その682◇哀しみのちゃぶ台
連休中のJR山の手線。
吊り輪片手で、さっき書いた原稿のチェックに没頭している。
まずい原稿のせいで、やたらと脚がズッこける。
と思ったら、犯人はどうやら電車の運転のせいのようだ。
その機能はようわからんのだけれど、
ブレーキのかけ方がチョーへたくそな模様である。
カクカクと前後に揺れるしょんべんブレーキで、
吊り輪なしでは、まともに立ってはいられない状況。
おゐおゐ、もっときちんと修業せんかいと、
心のちゃぶ台をひっくり返しそうになった刹那、
んっ、こりゃデジャ・ビュじゃないかと思った。
この悪酔いしそうなヘッポコ運転。
いや待て、こりゃあデジャ・ビュではない。
それは明らかに、27年前、パセオ創刊と同時にきっぱり止めた
私の自動車の運転技術と、まさしく酷似していたのである。
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