われても末に
瀬を早み岩にせかるる滝川の
われても末に逢はむとぞ思ふ
崇徳院
その昔、ビンボーな小山家では百人一首のカルタ取りが盛んだったので、中学に上がる頃には自然と百首をそらんじるようにはなっていた。優勝賞品だった不二家のパイ(三つ)のおかげである。
もちろん私のことだ、肝心の歌の意味などわかりゃしない。
そんなんでほとんど忘れちまったが、それでも時々思い出すのが冒頭のダイナミックな恋歌だ。
この和歌ばかりは、人気落語「崇徳院」のテーマになってることもあって、大の落伍者である私とは切っても切れない縁にあるのだ。
[桂枝雀 落語大全(3)/崇徳院、ほか]
東芝EMI/2000年
この烈しい名歌の生まれた歴史的背景から考えると、権力争いに敗れた崇徳院の強烈な“怨念”とみる方が妥当なのかもしれないが、あえて“恋歌”として評価した後世の見識を、私などは好ましく思う。
テキトーに現代語に訳せばこんな感じか。
「速い流れの川の瀬。岩にせき止められた急流が二つに割れる。
今は別れるが、きっといつか、再びひとつに結ばれよう!」
上の句「瀬を早み岩にせかるる滝川の」におけるスリリングな情景描写。下の句では一転して「われても末に逢はむとぞ思ふ」と決意表明する鮮やかなパッションには思わずのけぞる。
割れても末に逢わんとぞ思う。
それにしても、なんて潔いロマンティシズムだろう!
まるでフラメンコじゃねーかよ。
……ところで。
実は今日、まさしくそんな感じなものを観に行くのだ。
そう、大当たり、『FLAMENCO曽根崎心中』である。
もう何回観たかわからんが、毎度ググっとやられちまう。
折りしも、今日のお江戸は涙雨。
絶好の曽根崎日和かもしれない。