フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

疾走するオラシオン連歌 [219]

2008年08月20日 | アートな快感





 

         疾走するオラシオン連歌

 




                      



 シンプルだが厳格なルール。
 それさえ守ればあとは何でもあり。

 そういうタイプのものが昔から好きだった。
 ビー玉やらメンコやら将棋やらハムラビ法典(←な、なんで?)やら。
 最小ルールでのびのび表現できるものが性に合ってるのかもしれない。
 おそらくフラメンコに惹かれたのも同じ理由である、ってほんとかよ。

 現在mixiのコミュニティ「フラメンコはライフワーク」を突っ走る"オラシオン連歌"への書き込みは、各種ブログの方は手を抜く近ごろの私のルーティンワークとなっている。
 読んだり書いたりで1日平均10分くらい。
 仕事の合間を縫って潤す、最高のリフレッシュタイムだ。
 オラシオン連歌は実にシンプルな二行詩の形式(うち1行は直前コメントのコピペなので、書き込みは実質1行のみ)を採るが、前後の詠み人同士の信頼に充ちた大らかな連携と自由奔放なインスピレーションが重視される、実にフラメンコ的なアート形式である、と云ったら明らかに過言である。
 よーするに、ウェブ上に自然増殖するアホたれ仲間によるボケ防止システム(て、手遅れか?)なのだ。

 この6月にスタートしてわずか2ヶ月。
 本日さきほどメデたくも、コメント数はシステムの限界である1000件を超え、現在はそのパート2が疾走中である。
 もつろんフラメンコ関連では初の出来事であるし、mixi全体でも極めて珍しいケースらしい。
 常時参加するメンバー(=レンジャー)は数名なのだが、
トピ主オラシオン(おそらくトップ写真中央の人物/年齢性別不肖のチョー美女)の大胆不敵すぎるカリスマ姐御性と、私を含む手下どもの傍若無人なコメント連携がミョーな具合に噛み合ってるようだ。
 ふだんはのどかにチンタラ展開するのだが、時おり何の前触れもなく、うねるようなコンパス&アイレが発生して、スリリングにしておマヌケな大爆笑を巻き起こす。
 個人芸が光ることもあるが、それら異文化同士が連続しながら連携スパークする時の相乗効果的パッションは、そりゃもー強烈にアホらしい。
 人と人とがふれあう“連携それ自体”に宿る美しさ、あるいは懐かしさ。
 それが書き込む者と読む者に、ある種の癒し感を共有させるのではないかとも思う。

ありゃ、おもしろいよ」。
 mixiウォッチャーのフラメンコ関係者は昨今、まずこんな風な感想をもらす。
実はオラシオン連歌にハマっています」。
 こう直接メッセしてくるマイミクさんも増える一方だ。
このシステムはウェブ上の社会現象に発展する可能性がある」。
 地元呑み仲間の売れっ子コピーライターは、まぢ顔で私にそう予言する。
 テーマの程よい細分化がポイントだと彼は指摘するが、ほ、ほんまかいな。
「ありゃ観るもんじゃなくて、やるもんだから」と、参入したいらしい素振りを見せる彼らを気軽に私は誘うのだが、どうも皆してビビってしまうらしい。

 一方で、ツラの皮の厚さで鳴らす常連レンジャーのイメージはおそらく一致している。
 そのイメージとは、畏れ多くもフィン・デ・フィエスタのブレリアだ。
 ギターでもカンテでも踊りでもパルマでもハレオでも何でもいい。
 前の人からの流れに留意しながら、自らサクッとひと振り入れる。
 後に続く人へ、ほんの少しだけ配慮できればさらに上等だという了解はある。
 ダレたゆるゆる局面と、スリリングなブレリア的局面とが、まったく不規則に訪れる。
 ウマいヘタよりも生命感・躍動感のあるコンパス・アイレが場を楽しく盛り上げる。
 にしては、その即興的な書き込み作業(数十秒)はあきれるほどにエー加減である。

 では、「入りたいけど入れない」潜在レンジャーがためらう要因は何なのか?
 よく似ているのは、大勢で順番に飛んでゆくナワ飛び(お入んなさい)だ。
 要領をつかめば簡単なのだが、それまでは確かに難しかったな、ありゃ。
 くやしさをバネに何度もしくじる内に、偶然・自然とコツをつかんだことを思い出す。
 もうひとつは“ひと振り”の中身。
 持続力のないイッパツ狙いがミョーに浮いてしまうことは、自ら存分に経験済みだ。
 詰め込みすぎちまったり、あまりに一人よがりだったりするとコンパスはうねってくれない。
 かと云って、あまりにおとなしすぎてもコンパスは固まっちゃうしな。
 これも何度もしくじる内に、自然と頃合いみたいなのがわかってくるようだ。
 うまくやろうと意識しすぎると、逆にしくじっちまうところなんかはまるでフラメンコそっくりだよ。

 こう分析すると、入りたくともためらっちまう気分もわかってくる。
 しかし他方で、トピ主や私ら手下どもが、フィン・デ・フィエスタのような高度な芸当をこなせる深~い配慮に充ちた人間でないことは明らかなのである、きっぱり。
 チンタラ遊んでるうちに自然とゆーか偶然とゆーか、まるでフラメンコと同じように、そのコンパス&アイレの感触がほんの少しづつわかって来るというのが実情なのだろう。
 ただひとつ注目すべきは、この単純明快なシステム自体が、他者同士の大らかな連携を糧に、多彩にしてインパクトのある表現システムを次々と生み出し続ける現象である。
 そう、笑ってやってくだせえ。
 私はそこに、馴れ合いではなく他文化(=他メンバーの長所)を貪欲に吸収しながら、自発的に拡大発展を続ける“フラメンコ”の擬似形成プロセスを観るのだ。
 ちなみに、“オラシオン”とはスペイン語の“祈り”を意味する。

 さてもつろん、連携するレンジャーが多いほど、もたらされる実りは豊かにして楽しい。
 ま、実際のところは、下ネタやわかめネタ満載のあきれる程にくだらねえお笑いトピックスに過ぎねえわけだがそれがどーした!
 つーことで、皆さま方のオラシオン連歌へのご参入は大歓迎なんであります。
 年イチでも月イチでも週イチでも、平日だけでも土日だけでも、いつでもお出入り自由の明るく開かれた“虎の穴”なんであります。
 虎穴に入らずんば虎子を得ず。
 宝くじも買わなきゃ当たらん。(←さ、最近知った)
 しかも、もし貴方がやりそこなってどんだけスベっても、お仲間レンジャーが即座に駆けつけ息の根を止めてやっからしんぱいゴム用!という空前絶後のサービスが今ならもれなく付いてくるんであります。


 さっ、このよーに、どーでもいーことに真剣かつ見当つがいに踏み込むのが私の本質だ。
 そんなこんなで今回、疾走するオラシオン連歌についての現時点における見解を、とりあえず以下にまとめておきたい。

 それはズバリ!、主にコミュニケ不足で殺伐とするばかりの現代ニッポンにあって、「他者とのふれあい」「自己表現」「新たな相互発見」を、わずか2行の書き込みで実現するフラメンコ的実践ではないかって、乏しすぎる根拠を元にここまで強気で云い放つ私に、どーか深いお慈悲と大らかな愛の手(またはオレオレ現金書留も可)をどーぞよろすく!

 

 

 

 

           

 

 

 

 

                

          


パセオ社員に告ぐ [218]

2008年08月17日 | フラメンコ





 

          パセオ社員に告ぐ


 

 パセオ9月号特集の埋め草に載っけた拙稿「あいにく国境は見えない」が、ギョーカイで意外な好評を呼んでいる。
 すでに十名以上の方々からいろんなタイプの賛辞をいただいた。





 

「空いたページをとにかく埋めたことに大きな意義がある」
「あれはよかったぞ。読んでねーけど」
「ヨランダさんのイラストがよかった。イラストだけならもっとよかった」
「他の執筆先生方のありがたみがよーくわかった」

「気にするな。どーせ三行以上読めたヤツはひとりもおらん」
「むしろあのページだけを白紙で出すという潔い選択肢はなかったのか?」

 

 そう、絶賛の嵐なのである。

 それもそのはず、チョー多忙を極める私が、各種外渉・各種会議・各種プロデュース・各種営業・各種ウェブ書き込み・三度のバッハ・散歩・ドンチャン騒ぎ・ゴミ出し・爆睡などの激務の合間を縫って書き上げた渾身のチョー大作なのである。
 前にブログに書いたものを三つばかりコピペで切り貼りして、テキトーな接続詞でつないで締め言葉を盗作でつぁんつぁんと結んだだけの原稿のよーにも見えるが、実際には構想から仕上げまでに、少なくともトータル約30分という膨大な時間を注ぎ込んだ涙の労作なのだ。







 あいにく私はチョー多忙なので、印刷された私の原稿に目を通しているヒマはないが、眠れない夜のために枕元に常備しておけば、三行読むだけで爆睡できる自信はある。
 月刊パセオフラメンコを鍋敷き以外の目的で使用したことのな方々にとっても、これは驚愕の朗報となるはずである。
 たいした副作用もなく(少しだけアホになるが)、これほど効果の高い睡眠薬は他にあろうはずもない。
 書店ではなく薬局・露店などにおける販売を視野に入れつつ、パセオ社員は一刻も早い再商品化を検討すべきであろう。