フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

オチはねーのか [190]

2007年05月27日 | アートな快感






     オチはねーのか



 

 彼のゆくところには必ずや新しいシーンが展開し、次の時代を予言する“熱風”が吹く。(つづく↓)

 http://www.paseo-flamenco.com/2007/05/post_96.html

  



 




             



 


 








 


東京北部の微笑み [189]

2007年05月25日 | 四季折々


 




        東京北部の微笑み
             




 






 東京北部は王子の「名主の滝」である。
 この春、桜のころにぶらりと寄ってみた。

 知る人ぞ知るのマイナー名所なのだが、丘陵のアップダウンをうまく利した深い趣きの日本庭園である。
 パセオから歩いても一時間ほどでありますって、誰がパセオから歩くかっつーの。はい、それは私です。


 






 私は江戸川区の小松川(←小松菜の原産地)という東京東部の生まれなのだが、山の手線の北側、つまり東京北部のたたずまいをこよなく愛すタイプの人間だ。

 かつてはそれなりに栄えた街々を数多く抱する東京の北部。
 そこは現代の都市開発から取り残された気配がむしろ濃厚に漂うエリアなのだが、その「気骨のある寂寥感」みたいな風情を、妙に私は好ましく感じてしまうのである。
 ま、しかし、ここ王子やら尾久、駒込あたりは、幼い私が毎週のように喜び勇んで泊りに行った母方の親類が集中していた懐かしい北部の土地でもあるし、あくまでこれは個人的感傷の域を出ない話だろう。


 さて、生活の中でガンガン前進したり、チャラチャラ浮かれるのはとても楽しいものだけど、しんみりとはかない気分にどっぷり浸るのも同じく人生の醍醐味だ。
 そんな時の方が、かえって物事がよく視えたりもする。
 アレグリアスだってシレンシオがなければ、あの深い味わいは出ないわな。
 私にとっての東京北部は“シレンシオの浪漫”なのかもしれない。






 「どーあれパセオを続ける」ことを念じ続けた結果としての現在の私。
 「こーゆー人になりたい」と、不安まじりに将来を夢見た少年時代の僕。

 そんな二人がふんわり会話をはじめる時、彼らがぼんやり眺める風景は、例えばこの「名主の滝」のような東京北部の景色であることが多い。
 そこでの会話の中身のほとんどは、他愛もないセンチメンタルな郷愁だ。ろくでもねえ想い出をほじくり出してきては、二人してだらしなく笑うのが常なのだ。
 だが、この日の少年にはいつもとは似ない、まるで滝のような激しさがあった。
 私の抱える屈託を見抜いたのかどうか、何の脈略もないツッコミで、彼は思いきり私の意表を突く。


 「ねえ、思い込みが強すぎんたんじゃないの?」
 「はりきりすぎて、いっぱい人を傷つけたんじゃないの?」
 「もう少し、うまいやり方があったんじゃないの?」
 「僕がなりたかったのは、もっとちゃんとした大人だよ」


 おいおい、トートツにいってえ何をぬかしやがるんでえ。
 たまの半休に、いきなり正しい生き方講座かよっ。
 そーゆーシチュエーションではなかろーがあああ!!!

 思わぬ展開に、ノスタルジックな感傷気分はイッキに吹っ飛ばされ、代わりに「シックスセンス」の例のシーンみてえなデジャ・ビュに全身を包まれる。
 当然私の方には確固たる云い分があるが、彼の指摘もまた、くやしいぐらいに正確である。
 成り行きに逆らわず、とりあえず私は腹を立てない覚悟を決め、ヘコまされるがままに、少年の声に耳を傾ける。








 すると、どーだ。
 彼のツッコミによって、私の中にある、無理やり背伸びしてきたことで生じた歪みの部分が、次第にクッキリと浮き彫りになってくるではないか。
 云われてみれば、そうした欠陥は、現在の私が抱える屈託の原因を成すものかもしれなかった。
 なにも彼は、私が過去に犯した膨大な数の失敗を責めているのではなかった。
 「基本に戻ろうよ」。
 彼の主張は、どうやらその一点のようである。

 少年にしては冷静な現状分析と新たなテーマの提示は、私が抱える数々の課題を解決するかもしれない可能性を感じさせた。
 そして予想どおり、その骨太なテーマは、間髪入れずいくつかの変奏曲に姿を整え、それぞれの解決策をシンプルなメロディで暗示しながら、私の脳裏を素早く走り抜けたのである。






 そーか。
 わからん場合は原点に戻れ、ってか。
 つまらんこだわりや勝手な思い込みなんぞはみんなエイヤと捨てちまえって、
 要はそーゆーことかい。

 それまで沈黙を守っていた私は、思いもかけぬ収穫に頬がゆるみそうになるのをこらえて、むしろ苦笑交じりを装いながら重くなった口を開く。

 「おめえの云い分ももっともだがな、元はと云やあ俺はおめえなんだから、おのずと限界つーもんがあらーな」

 「それもそーだね。ま、でも、前向きな原点回帰ならあんたにも出来そーだし」

 私の変化に気づいた少年は深追いをやめ、ケラケラ笑いながらこう云う。



 ――――――――――――――――――――――――



 やれやれ、生意気な小僧だ。
 云いたい放題ぬかしやがって、あとの始末は大人任せかよ。
 ま、しかし、いずれはお前がすることだ。
 そのことだけは忘れるなよ。
 だが、ま、今日のお前は、おめえにしては上出来だったかも
しれんしよ





 ふと見やれば、「名主の滝」の落ち水が、ほっとしたような微笑みをたたえている。


 

 




 





 


薔薇エティ [188]

2007年05月23日 | 四季折々




 


      薔薇エティ

 



 




 久方ぶりに、東京北区の旧古河庭園へとバラ見に出かけたのは、ある五月晴れの日曜日、昼下がりのことだ。
 元旦以来の休暇をとった連れ合いをお供に、めでたくも約半年ぶりに夫婦そろっての行楽である。
 ご近所代々木公園に近ごろできたドッグランで、朝方からくたくたになるまで遊ばせてあるので、わが家の守護犬ジェーはこの日は留守番担当だ。

 

                              

 




 

 名高いここ旧古河庭園の薔薇は、ヴァリエーションが実に豊かである。
 色や姿が好ましい上に味わいも繊細ときてるからまったく飽きがこない。
 どことなく私と正反対なところが、私を惹きつける真の理由なのだろうがそれがどーした。自覚症状があるだけマシである。

 

 







 さて、その華麗なる薔薇園の奥には、これまた美しい日本庭園がある。
 折りよく、うれしいくらいに新緑がまぶしい。
 ここから歩いて15分ほどのおなじみ駒込・六義園にはスケールの点で及ばぬものの、凛としたその風情はどこまでも細やかであり、しっとり深い陰影をおとす散策道にはノスタルジックな薫りがあふれている。
 心地よくも脳裏に響く幻聴は、アントニオ・マイレーナのティエントである。





 

 こうした情景をぶらついていると、それだけですっかり心が和んでしまうのは寄る年波の効用だ。

 ならば、歳を取るのもそれほど悪かねえ。


 そう、歳を喰えば喰ったなりに、新たな楽しみが生じるのだ。
 人生至るところ青山あり。
 諸君らのような、若く美しいお方には理解不能な世界かもしれない。
 ふ、若造どもめ(←50歳未満)、
 どーだ、うらやましーか?
 なんなら、そこの貴方(←できれば30歳未満)、
 特別に私(←52歳)と替わってやってもいーぞ。

 












 

 


幻の原稿料 [187]

2007年05月20日 | パセオ周辺


 




      幻の原稿料





 ワールドフォトプレス社が発行する『世界の腕時計』という雑誌から、フラメンコの単発エッセイの執筆依頼を受け、その高額な原稿料に目が眩んだ私が、密かにそれを引き受けたのが先月のことである。 







 
 すぐさま依頼の1600字を書き上げ、先方にメール送信したあと、すっかりそのことを忘れていたのは実にうかつであった。
 『世界の腕時計』の編集部から送信された、その校正ゲラのファックスが社員に見つかってしまい、私は事の次第を問い詰められたのだった。
 その結果、私の稼いだ原稿料が「社員呑み会経費」として全額没収されることが、その場で決定されたことは実に遺憾である。
 
 
 尚、私としては、いつものゆるゆるなヤツではなく、私本来の真摯かつ格調高い文章で勝負したことは云うまでもない。
 どーせ信じちゃもらえねえと思うので、証拠としてそのエッセイを以下に掲載することにした。 
 
 


  ――――――――――――――――――――――――
 5月25日発売『世界の腕時計』より
 
 

  フラメンコに魅せられて
 

                    小山 雄二
         (株式会社パセオ 代表取締役社長)
 
 

 『ハケンの品格』というテレビドラマが先ごろ人気を博したが、実はその第一回目の放送にわが月刊パセオフラメンコが特別出演している。
 ミラクル派遣社員の主人公(篠原涼子さん)はフラメンコの踊り手でもあるという設定で、その彼女が愛読する専門誌がパセオだったというわけだ。
 なるほど、パセオ読んでりゃ踊りもうめえはずだよって、いきなり自画自賛かよ、おいおい。
 
 
 
 
 
 
       …………(私の名誉のために以下カット)