くどいようだが、田舎に来て初めて移り住んだのは、下府だった。
ウグイストリオで“思い出を訪ねて”と題して、本当に50年ぶりに足を踏み入れてみた。
両のまぶたを閉じると心にしっかり焼き付いている「おっかさーん!」じゃないけど、本当に心に焼き付いている幻の風景がある。
その住まいは、後ろに山を背負い、石垣の階段を7,8段上がったところにあった。
春
それは、見渡す限り、一面のレンゲ色。ずーっとずーっと先の山の裾野まで広かるレンゲ畑。子供の頃の印象だから定かでないが、多分東京ドーム2個くらいは入る広さの平野だったように思う。
タニシがいた。タニシを子供のバケツ一杯にした。祖母はとても喜んでくれてお煮しめにしてくれた。
4月3日のお節句には、お重にお寿司や、ご馳走を詰めて、レンゲ畑で日が暮れるまで遊んだ。その中でかくれんぼもした、キャラコの白のズロースのお尻をレンゲの草色に汚しておこられた。レンゲはその後田んぼの肥料に土と一緒に混ぜるので、潰したら刈り取るのが困難なのにもかかわらず、当時の大人はおおめに見てくれていたのだろう。
夏
それは 田植えがすんだ若草色の絨毯を敷き詰めたような平野に、蛍が乱舞して、夕ご飯のあと、家族で縁側で楽しんだ。
縁側の拭き掃除と雨戸閉めは私の毎日の仕事だったが、戸袋から雨戸を出すのが、一苦労だった。
縁側の端には東京から持ってきた福助ミシンが置いてあったなぁ。
戸袋の所は雨戸が壊れていて台風の時は雨が入り込んでいたので、その箇所だけは、板がささくれ立ってそっていたけど、縁側は何の板を使ってあるか知らないが、黒光りがしていた。
秋
それは 稲が黄金色にたわわに実り、稲刈りの済んだ田んぼは稲ハデがあちこちに出来て、草焼きの白い煙が何本も立っていた。
稲狩りに来ていた方たちにお昼ご飯の時 縁側を貸してあげて、お茶を出してあげたら、おにぎりとか、マキ芝に包まれた、餡子入りのお餅をたくさんくれた。
冬
それは 雪がチラチラ積ると、サギが田んぼにやってきて、餌をついばんでいた。
寒い朝は、田んぼに氷がはり、軒には、ツララが出来た。
田の字型の典型的な農家の家は、畳半畳ほどの大きな掘りごたつがあり、かまどの消し炭をジュウノで入れる母の、頭かくして尻隠さずの状態の大きなお尻が、やけに印象に残っている。
その場所に行ってみた。
浦島の太郎さんはは、多分このような思いだったんだろうと本気で思った。
してみると、浦島さんは、50年くらい飲めや歌へで大騒ぎをしたんだろうね。
目の前に広がっていた、広い田んぼは、家々が立ち並び、空き地は草ボウボウ、すぐ近くには新しい中学校が出来ていた。
勿論 思い出の家があるはずもなく、近代的な建物で、見違えるばかりの住宅団地になっていた。
小学校も校庭跡に市営住宅が建っていて、校門の片割れがぽつんと残っていた。誰かが 思い出に残したんだろうか?
全てが様変わりした中で 唯一変わってなかったのが、
下府駅だった。当時のままだった。
無人化されていたが、ホームも駅舎もそのままだった。
線路脇の桜の木が大きくなっていたなぁ。懐かしい。
(写真のホームは江津方面、クリックしたら浜田方面です。)
駅から、右に曲がり、線路のしたの隧道をくぐる。
この隧道を出た小川にシジミがたくさんいて、いつも学校の帰りにポケット一杯採って帰った。このシジミの殻を金槌で割って、縁側の下で飼っていた鶏の餌に混ぜるのだ。
この道は線路の土手と山で車一台がやっとの幅だったが、ここだけはそのままだった。
この道を暫く行くと、その幻の家に着く。
この幻の家で、たんすの上に置かれたラジオで落語を聞き、とんち教室を聞き、子供たちが、騒ぐと、「うるさい、聞こえんじゃないか!黙って聞きなさい。」と父親にしかられて、それが終わると、演目についての解説が始まる、「また始まった。どうして聞かなければならないの?」とその時は腹が立ったが、聞かないと怒られた。
そうそう寄席の中で、都々逸の三亀松も自分が好きだからと言ってよく聞かされたものだ。当時は何のことだかわからずに迷惑だったが、今にしてみればなんだか懐かしい。
父親の笑いに一緒になって笑わなければ成らない。そうすると「悦子はいい子だ。」と喜ぶのだ。
♪可哀そうだよズボンのおなら 右と左に泣きわかれ ・・トテチリシャン・・
変なのばかり覚えてる。
晴れ 27℃
ウグイストリオで“思い出を訪ねて”と題して、本当に50年ぶりに足を踏み入れてみた。
両のまぶたを閉じると心にしっかり焼き付いている「おっかさーん!」じゃないけど、本当に心に焼き付いている幻の風景がある。
その住まいは、後ろに山を背負い、石垣の階段を7,8段上がったところにあった。
春
それは、見渡す限り、一面のレンゲ色。ずーっとずーっと先の山の裾野まで広かるレンゲ畑。子供の頃の印象だから定かでないが、多分東京ドーム2個くらいは入る広さの平野だったように思う。
タニシがいた。タニシを子供のバケツ一杯にした。祖母はとても喜んでくれてお煮しめにしてくれた。
4月3日のお節句には、お重にお寿司や、ご馳走を詰めて、レンゲ畑で日が暮れるまで遊んだ。その中でかくれんぼもした、キャラコの白のズロースのお尻をレンゲの草色に汚しておこられた。レンゲはその後田んぼの肥料に土と一緒に混ぜるので、潰したら刈り取るのが困難なのにもかかわらず、当時の大人はおおめに見てくれていたのだろう。
夏
それは 田植えがすんだ若草色の絨毯を敷き詰めたような平野に、蛍が乱舞して、夕ご飯のあと、家族で縁側で楽しんだ。
縁側の拭き掃除と雨戸閉めは私の毎日の仕事だったが、戸袋から雨戸を出すのが、一苦労だった。
縁側の端には東京から持ってきた福助ミシンが置いてあったなぁ。
戸袋の所は雨戸が壊れていて台風の時は雨が入り込んでいたので、その箇所だけは、板がささくれ立ってそっていたけど、縁側は何の板を使ってあるか知らないが、黒光りがしていた。
秋
それは 稲が黄金色にたわわに実り、稲刈りの済んだ田んぼは稲ハデがあちこちに出来て、草焼きの白い煙が何本も立っていた。
稲狩りに来ていた方たちにお昼ご飯の時 縁側を貸してあげて、お茶を出してあげたら、おにぎりとか、マキ芝に包まれた、餡子入りのお餅をたくさんくれた。
冬
それは 雪がチラチラ積ると、サギが田んぼにやってきて、餌をついばんでいた。
寒い朝は、田んぼに氷がはり、軒には、ツララが出来た。
田の字型の典型的な農家の家は、畳半畳ほどの大きな掘りごたつがあり、かまどの消し炭をジュウノで入れる母の、頭かくして尻隠さずの状態の大きなお尻が、やけに印象に残っている。
その場所に行ってみた。
浦島の太郎さんはは、多分このような思いだったんだろうと本気で思った。
してみると、浦島さんは、50年くらい飲めや歌へで大騒ぎをしたんだろうね。
目の前に広がっていた、広い田んぼは、家々が立ち並び、空き地は草ボウボウ、すぐ近くには新しい中学校が出来ていた。
勿論 思い出の家があるはずもなく、近代的な建物で、見違えるばかりの住宅団地になっていた。
小学校も校庭跡に市営住宅が建っていて、校門の片割れがぽつんと残っていた。誰かが 思い出に残したんだろうか?
全てが様変わりした中で 唯一変わってなかったのが、
下府駅だった。当時のままだった。
無人化されていたが、ホームも駅舎もそのままだった。
線路脇の桜の木が大きくなっていたなぁ。懐かしい。
(写真のホームは江津方面、クリックしたら浜田方面です。)
駅から、右に曲がり、線路のしたの隧道をくぐる。
この隧道を出た小川にシジミがたくさんいて、いつも学校の帰りにポケット一杯採って帰った。このシジミの殻を金槌で割って、縁側の下で飼っていた鶏の餌に混ぜるのだ。
この道は線路の土手と山で車一台がやっとの幅だったが、ここだけはそのままだった。
この道を暫く行くと、その幻の家に着く。
この幻の家で、たんすの上に置かれたラジオで落語を聞き、とんち教室を聞き、子供たちが、騒ぐと、「うるさい、聞こえんじゃないか!黙って聞きなさい。」と父親にしかられて、それが終わると、演目についての解説が始まる、「また始まった。どうして聞かなければならないの?」とその時は腹が立ったが、聞かないと怒られた。
そうそう寄席の中で、都々逸の三亀松も自分が好きだからと言ってよく聞かされたものだ。当時は何のことだかわからずに迷惑だったが、今にしてみればなんだか懐かしい。
父親の笑いに一緒になって笑わなければ成らない。そうすると「悦子はいい子だ。」と喜ぶのだ。
♪可哀そうだよズボンのおなら 右と左に泣きわかれ ・・トテチリシャン・・
変なのばかり覚えてる。
晴れ 27℃