おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

毎度おなじみの自殺でございます。

2006-10-02 18:56:26 | 我思う、故に書くなりよ。
いじめ苦に自殺と遺書 小6女児、市教委公表せず(共同通信) - goo ニュース

いじめで自殺する場合、遺書を残すならしっかりと『いじめ』が原因で、いつ誰にどんないじめを受けたかしっかりと書き残しておかないと、うやむやにされるってコトらしいな…。

まぁ、公になった部分だけ読んでみても『いじめ』が原因でこれから死のう…と決意した事は、普通に判るのだが、北海道の滝川市の教育委員会ってのは読んでも判らない人間が教育委員を努めているコトが露見してしまったようだ。死に際して書いた手紙は普通『遺書』と称して何ら問題ないものの、この委員会ではあくまでも『手紙』と呼称し、さも、亡くなった人間と、その原因とは関係無いかの様な扱い。

まぁ、クラス全員で人間1人をいじめ殺しちゃったワケだから、さぞかし無かったコトにしたいんだろうけれども、そうは行かないよなぁ…。子供の世界ほどあからさまにいじめに繋がるような感情、奇異な物へのモノの見方、そうしたモノは格別に大きいしまた多い。知的障害とか身体障害なる者への接し方が判らないうちは、それはもう残酷とも思える見方や扱いが普通に見て取れる。

だけれども、ちゃんと理由なり説明すれば、それらは奇異でもなんでもなく受け入れられ、暖かいものへ変わっていくんである。そうであっても、汚いモノは汚い…って事はあったりするんだが、それすらも笑いに変えて、そうしたハンデを伴ってしまった人と仲良くやっていく、仲良くやっていける様な感情と視点を養っていくんであるよ。

そうした機会を与える場所が学校であり、教員であり、それらを監督するのが教育委員会だったりするハズなんだが、子供の『遺書』と言う手紙も満足に読めない人間がやってると、さもありなん…。そこから学びこそすれ、失うものは何も無いのに隠しちゃうのは大人の都合以外になんでもない。学校で児童が首をつらなければならなかった責任は、そうした大人にしっかりとあるべきで、それを『関わり無い』と考えてしまう教育委員会なんぞ、税金の無駄以外の何物でもないんだがなぁ…。

とりあえず、人口が一定以上あるもんだから、学校は作らなければならないし、それらを取りまとめる委員会も作らなきゃならない…って流れでやってるだけで、児童はおろか、教員の監督指導もままならない様なところが多過ぎている。本当の意味でのそうした活動をやろうとすると、組織ってモノが邪魔になりすぎて満足に活動出来ない…ってのが当たり前になりつつあったりもしている。

自分の住んでいる町や市の「教育委員会」ってのが何やってんだかサッパリ…なのは、本当はイケナイんだな。今時なら、どこの委員会でもそれらのメンツの顔と名前くらいはネットでも見られる時代。実際に見て、コイツらが本当に適任なのかどうかは、就学児童を抱える親ならば1度は勘ぐっておかないと。年に何回か顔合わせて「会合」と称し、お茶飲んでくっちゃべって「教育委員」なんてのは過去の遺物にしないといけない。

むしろ、こうした事件・事故が起きた時に、自ら動き回ってそれらの再発に身を挺する様じゃないとダメじゃん。いくら偉い肩書きが付いていても、動けない人間、考えられない人間を「教育委員」にしちゃダメなんである。

とはいえ、日本中でこんな調子だと思うので、やはりいじめを苦にして死ぬんだったら、ハッキリと、しっかりと『原因はいじめ』と、大きく誰にでも判る様に書かないと、読まれても『判らない』『しらない』『そうは思わない』で何も意味を残さないコトになってしまう。加えて、いつ誰にどんな…と、残された者が裏を取れる形にしておかないとイケナイのが、事実だって言うのが、何よりも悲しいじゃねぇか。

『いじめ』は必ずあるもの。だからこそ無くす努力を怠らない姿勢が無ければ、消えてなくならない。いじめられた者の逃げ場も考えてあげなきゃな…。いじめの無い学校なんか無い。必ずそこに人間が集う限り、有り得る。有るモノとして考えていかないとダメなのに、隠してどーすんだ…まったく…。


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