おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

首切り映像は何を伝えたか?

2004-11-05 22:16:19 | 我思う、故に書くなりよ。
そもそも、報道目的の映像では無いので、伝えるとしたら「残虐」って事なんだろうと思う。

私も、法務省がやっきになってあちこちの画像掲示板に削除要請している画像を見た。まぁ、海外のサイトだから画像と言うよりテロリストの公開した動画であるが、見た動機は「興味本位」に尽きる。

興味本位以外にこんな物を見ても、私は捜査官でも司法執行官でも無いので何かに役立つなんて事は無い。米国人、英国人、韓国人となんら変わらないスナッフ・ムービーって事だ。

強いて考えるならば「テロリストは日本人だからと言って遠慮も配慮もしない」って事が改めて確認できたと言う事くらいであろう。殺されて気の毒だとか、可哀想だとか、怒りを覚えると言う感情を持って見たワケでも無い。

なぜなら、こうなる事は事前に充分予見出来たからである。今まで、同様に殺害された人質の事は、日本に居ながらにしても知っていた。報道もそうだが、テロリストの公開した映像も観て知っている。これ以外、イラク以外にも、イスラエルで乗客が満員であったバスでの自爆テロの映像も見て知っている。

その惨状がどうであったかは、見たい人が見て知ればいい。それっきりの単発な出来事ではなく、当地では幾度と無く繰り返されている事である。日本でも、そのように報じられている。

ただ、通常のテレビや新聞の報道だけだと、「どうであったか?」はわからない。書かないし、見せない。書けないし、見せられないとも言う。それは一定の規制があるからだ。単に「残虐」「悲惨」と言う事では無いと思うが、実際そういう詳しい状況をひと目見て納得させるだけの写真とか、それを克明に伝える文章は目に出来ない。

そういう事件があった…って事だけ知っていれば良いと言う人ならば、それで充分だろうと思う。だが、私は自分の好奇心から「それ以上の事を知りたい」と思ったのでいろいろ見ている。それは何故か?
惨状を知っておかないと、テロリストがどういう事をする連中なのか判らないからだ。詳しく判らないとも言えるし、正しく知らないとも言えると思うので、知り得る限りで知りたいと思っている。

そうでなければ、テロに対する認識は薄れてしまうとも思う。3年前のWTCの悲劇を、すでに忘れかけている人も多いと思う。日本に住んでいれば、ああいう事は起きないし、起きないと思っている人も多いと思う。果たして、そういう状況なのだろうか? 今回の斬首映像を見て、テロリストと言う存在に今まで以上に危機感と緊張感を持って認識した人も多いのでは無いだろうか? 

残念ながら、日本の報道の中で知り得る事は、事件事故の微々たる部分でしかない。たとえ書かれたり映し出されている事が事実であっても、ほんの一部分だけでしかないと言う事だ。そう言う見えない部分を見せるために、フリーランスのジャーナリストやらフォトグラファーが危険を冒して退避勧告の出ている地域に出掛けている。戦争の現場は戦車や逃げ惑う市民だけではない。道端に無造作に落ちている空薬莢の山も、頭を撃ち抜かれて命を絶たれた人間の亡骸も含めて「戦争」である。

重ねがさね残念な事だが、新聞やテレビで扱わない「報道写真」は、日本では陽の目を浴びる事も無いまま、過去に埋もれていく。雑誌や書籍に載せても、売れないからだ。どこぞのねえちゃんの陰毛写真の方が遥かに売れるわけだから。これを、事実を知る機会の損失と捉えるか、無駄な物と捉えるかは、読者に任せられている。

ところがネットと言う新しいメディアは、時として陽の目を浴びない映像を陽の下に晒す。そしてそれは、瞬く間に世界に広がり、特殊な規制を受けない限り、ネットに繋がる端末さえあれば見て保存出来る。そして、どんな媒体にも適わない圧倒的な暴露量を誇るワケ。

殺害される様子を映した映像を見る事は、受け手の「自己責任」だ。それを他に広める行為も「自己責任」である。故人である個人が特定出来る映像となると、これは法律で規制を受けても致し方ない。ただ、日本の法律の及ばない地域からの配信を見る事が可能な世界が既に出来上がっている。人々がそれを「禁忌」と捉えて、そもそも配信しないとか、ネットに載せないと言う事が無い限り、覆い隠す事は困難である。

今回の斬首映像は「事実」を写した物とされている。遺体の発見とその様子が映像のそれと合致しているからで、この点に異議を唱える人は少ない。が、もし虚構の映像をテロリストが流した場合どうなるだろうか? 見るだけの我々にはその真贋は判別できないとなると、これも問題と成り得る。それが、斬首映像でなくても、人間の信用の根拠など薄っぺらな物でしかないからだ。

どうやら、事実を知るのも難しい世界となってしまうのかもしれない。与えられた物だけを見て読んで判断するか、それ以上の物を探して判断するか、便利な世の中にあって、実は難解な事かも知れない。また、与えられた物、探し当てた物が「事実」なのかどうか? 漠然と受け入れて騒ぐだけなら誰でも出来るが、そこから何をどう読み取るのか? 受け入れるだけで飽和しちゃってる人間でいいのかどうかも含めて、考える必要はあると思う。

そういう意味では、きっかけになった映像の1つではあると思う。

Comments (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 到着を待ちわびる。 | TOP | アラファト議長はどこへ行く…。 »
最新の画像もっと見る

2 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
三馬鹿には見せるべき! (ホーチミン)
2004-11-05 23:40:36
平和ボケしている日本人には本当にショックな映像だったと思います。

映画と違うリアリティを受け止めることも

時には必要なのかもしれません。

ただ言いたいのは、以前つかまってにやにや

帰ってきた3馬鹿に、あの映像を絶対に見せてやりたいという気持ちが抑えられないことです。運がいいやつと悪い奴、いつまでも

運がいいとは限らないぞって言いたいですね。
返信する
見ちゃいました。 (一二三)
2004-11-06 23:48:40
結局見ちゃいました。

見る自由を今回は放棄すべきだったって

後悔しちゃいました。(吐)
返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。