アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

子どもたちに聞かせたいはなし

2016年01月09日 | Weblog
 …小森玄佑さん(仮名)のことなんですがね。どこの誰だって?箱根駅伝に出場した順天堂大学陸上部4年生なんですがね。何区を走ったかって?…7区を走ったんですがね…30メートルほど…。あっ!その人たしかぁ…給水係だったんだろうって?選手であろうと、給水係だろうと箱根駅伝を走ったことには変わりがない。

 子どもたちにどんな話をするか…
 みなさん、お正月にテレビで「箱根駅伝」観ましたかぁ。今日は、箱根駅伝で30メートル走った、小森玄佑さんのお話しをします。
 小森さんは、広島県に生まれました。中1から陸上競技を始め、広島の駅伝の名門校、世羅高校へ進み、全国高校駅伝優勝メンバーとなりました。高校卒業後は、「箱根駅伝」を走りたかったのですが、経済的な理由で進学をあきらめました。「いつか箱根駅伝を走りたい」という思いは持ち続けました。製鉄の会社に就職し、陸上長距離を続けました。
 世羅高校の1年後輩の鎧坂哲哉さん(明大、現旭化成)たちが箱根駅伝で活躍する姿を見て、その思いは強くなった。
 「箱根駅伝を走りたい」という一心で5年間、走り、働き、学費をためました。5年間に500万円貯金することが出来ました。毎月8万円貯金した計算。すばらしいですよねぇ!おそらく、全ての無駄を省いたことでしょう。
 以上までが、一番に子どもたちに伝えたいこと。努力を積み重ねて、着実に目標の達成へ近づいていく。

 そして、23歳になった小森さんは、順天堂大学を受験。見事合格(スポーツ推薦入試)。ここで子どもたちに話したいのは、23歳という年齢は多くの大学生が卒業している年齢。しかし、大学生になるのは、30歳からでも50歳からでも何の問題が無い。箱根駅伝出場に、年齢制限はありませんし。

 さて、順天堂大学陸上部員になった小森さんに、現実は厳しかった。1年生の秋に右大腿骨を疲労骨折。本人は、「1年目から箱根駅伝を走るつもりでしたが、出ばなをくじかれました」と。故障が長引き、治った後も調子は上がらず、駅伝に一度も出場しないまま最終学年を迎えた。そして、最後のチャンスの箱根駅伝…メンバーから外れた…。
 箱根駅伝で走るために5年間働いて、辛抱に辛抱を重ねて学費を貯め、ようやく入学した大学で4年間がんばって…結果、箱根駅伝を走ることが出来ない…。どれだけ悔しかったことか・・・このあたりの小森さんの心情を子どもたちに考えさせたいです。

 7区を走る4年生の選手が小森さんに、「給水係」を頼んだ。小森さんは快諾。ここで、給水係について説明(各大学の給水員が、各区間の決められた地点でペットボトルの水やスポーツドリンクを走っている選手に手渡す。30メートルほど伴走する形になる。10区間のうち、給水なしが1区と6区。5区のみ3回。そのほかの区は2回)。

 7区の選手は、9位で襷を受け取った。11キロメートル走ったところで6位へ順位を押し上げた。さらに前を追う!そして、15キロメートル地点で給水係の小森さんが待っていたぁ!襷ではなく両手にペットボトルを持っていたものの、最初で最後の箱根駅伝を走ることに変わりはなかった。
 水を渡しながら小森さんは選手に言った。
 「4年間の全てをぶつけろ。力まず楽しめ」
 この言葉、自分自身の箱根駅伝30メートルに対しての言葉でもあったと思います。7区の選手は、この小森さんの言葉に奮起しさらに順位を上げた…。9位から5位へ順位を上げて8区の選手へ襷をつないだ。
 昭和生まれ最後のランナーの箱根駅伝が終わった。小森さんは体育教師を目指している…。

 素晴らしい話です。語りだけでなくスライドショーにしようかなぁ…。