震災後1週間、ようやく母の消息が分かり、母の声が聞けました。 ご心配をおかけした皆様、励ましの声を届けていただいたみなさま、ありがとうございました。
きのう妹のところへ見知らぬ方から電話がかかってきて、専修大学の避難所で無事にいるとの電話が入ったそうです。
きのうまでの情報ではどこかの病院にいるのではないかということで、さがしてたのですが行き当たらず、病院に直接いってさがさなければと思っていた矢先でした。
妹の話では
震災直後、首まで水につかり、必死で2階に避難。着替えて、あるものをとにかくみにまとい布団のなかでじっとしていた。
3日目、自衛隊の人が外でさがしていたので、手を振って救助をもとめ、救出され、病院へ。
ペースメーカーを入れており、薬も常に飲んでいる状態だったが、救急を要する病気やけががない人は、専修大学の避難所へ移動。そこで、避難所生活を続けていた。
そこで、一緒に避難していたあべさんというかたが、親切にお世話をしてくださり、避難所の電話が通じてからも何度も電話をしてくさり、ようやくきのうの朝、通じたようです。
ペースメーカーなので携帯を所持できず、もちろん何も持ってでていないので、なんとか覚えていたのが妹の電話番号だったらしく、それが通じました。妹のところもようやく電気が通じて電話が使えるようになったところでした。
妹がなんとか残ったガソリン出迎えに行き、仙台の病院に運んで、きのうたまたま通院の予約日に当たっていたので薬ももらうことができ、仙台の弟のところへ、落ち着くことができました。
そこから、電話をもらい、母の声をきくことができました。思ったより元気でしたが、耳が聞こえにくいらしく、直接はあまり話ができませんでした。
しかし、笑い声も聞こえてきましたので、本当に安心しました。
震災が起きたとき、一人暮らしの母は、「このまま死んでいられるか」と思ったそうです。そして、とりあえずじっとしていて助けを待っていたそうです。真っ暗な、余震の続く中で、一人で3日ももちこたえたのは、母の冷静な判断力と、生きることへの強い意志だったと思います。
そして避難所ではバナナと水しか口にしていなかったそうですが、救出してくださった皆様、病院や避難所の皆様のおかげで、なんとか生き延びることができました。
本当にありがとうございました。
また、今回は子どもたちや甥たち、母にとっては孫たちが、東京、滋賀、愛知と遠く離れているにもかかわらず、ネットなどで実に精力的に情報を集めてくれました。「おばあちゃんを救え!」と仕事の合間で、さがして情報を流してくれました。家にいるのではないかというのも、病院も、そして最後の避難所の場所も、きのうなんとか探し当てたところでした。
この1週間、何をしたらいいのか分からず、うろうろしていましたが、無事を確認しましたのでようやく、普通の生活に戻れます。
仙台もまだガスは通じずガソリン不足も解消されていませんし、塩釜は水道もまだ、石巻に至っては、部分的に電気や電話が通じたところです。まだまだ安否確認をしている大勢の方がいます。回復には長い時間がかかると思います。今は、こちらからでかけていく手段もありません。
しばらくは現地にいる弟や妹に世話をお願いしながら、今後のことを考えたいと思います。