<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

人は発光体。こころのうちに明るい灯火がある。

2021年11月11日 18時27分47秒 | Weblog

カガヤイテイルヨ あなたがいてくれる(から)    山鳩暮風

輝いているよわたしは、あなたがそこにいてくれているんだからね。   

互いがそういう組み合わせを楽しんでいてくれたらいいね。

この川柳も落選だった。わははは、だ。

輝いているのは客観的事実で、主観的ではない。あなたの傍にわたしがいる、それだけでわたしはおのずからに明るくなって輝けるのだ。

そういう1セットでありたいね。女と女でも、女と男でも、男と男でも。親と子でも。師弟間においても。

 

互いの明るさでもって、照らし合うっていうのかな。

 

気取らずに、自然体で。

 

意外とそうなっているのかもしれないよ。

人は発光体。こころのうちに灯火がある。

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弱気を起こしてメソメソ泣いている宇宙なんて、嫌だよ。

2021年11月11日 18時18分44秒 | Weblog

「これでよし」宇宙が宇宙肯定す     山鳩暮風

肯定してくれてなくちゃね。

わたしはわたしを肯定できないで鬱を病んでいるけれども、宇宙はそんなことはしない。してもらったら困る。

いついかなるときにも、「これでよし」の大号令を放っていてくれてなくちゃ、我々は安心ができぬ。

弱気を起こしてめそめそ泣いている宇宙なんて、嫌だよ。

事実、そんなふうにはしないでいる。一度だって否定をこぼしたことはない。肯定で通している。

ああ、よかったとわたしはそんなふうに思う。

書道家がこの宇宙偈を軸物にして書いてくれないかなあ、墨痕鮮やかに。

 

「これでよし」宇宙が宇宙肯定す

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ときにはそうするか。

2021年11月11日 18時11分20秒 | Weblog

青空は我が家 ヤンマの心意気        山鳩暮風

ヤンマはオニヤンマのこと。すいすいと夏空を飛んでいる。夏空を我が家にして飛んでいる。ヤンマの心意気があまりにも大きいので、ちょっとゼラシーを感じたのかも知れぬ。

 

心意気だから、どんなにでもできる。飛べない人間のわたしだって、ヤンマを気取って、青空を我が家にしていい気になって、気宇広大を装っていてもいいのである。ときにはそうするか。

 

これもわたしの落選の俳句。俳句のなんたるかを、分かっちゃいないようだ。

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事実とは相反するのだろうが、

2021年11月11日 17時57分50秒 | Weblog

しなやかなをんなのひとの上腕の電車の中にかなしかりける  

薬王華蔵

悲しいか悲しくないか、それは分からないのだが、作者のわたしには哀しそうに見えたのである。女の人の細くて白い上腕が、ひとり哀しそうに見えたのである。美しくしなやかだったのに、それが却って孤独に見えたのである。事実はまったくそうではなかったかもしれないが。

これも落選になった作品。

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仏陀は、平等主義に徹している。

2021年11月11日 16時40分13秒 | Weblog

畏るべし我と仏陀は同等で同価値だった 朝の日届く

薬王華蔵

わたしは仏陀ではない。しかし、仏陀がわたしたらんとする。完成者の仏陀は、完成を成し遂げているが、仏陀だけが特別だ、ということをしない。仏陀は、平等主義に徹している。

故に、両者は同等で同価値を共有しているのだ。朝の日がわたしにも届いて来ることで、それが知れる。畏るべし畏るべし、地上のすべてが、これに倣う。仏陀を礼拝するようにして、わたしを礼拝してかかる。風も光も水も空気も、わたしを礼拝してかかる。

わたしの再認識である。それほどのわたしであったか、という驚きである。

煩悩迷妄のわたしごときを朝の光は、仏陀と対等に扱って、輝かしにかかる。

県文学賞にこの作品を投稿した。落選だった。短歌の範疇に入らなかったのだろう、きっと。

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憂いの湖底に潜んでいる啄木の、青い額を柳の影が撫でる。

2021年11月11日 09時31分45秒 | Weblog

やわらかに青める柳 啄木の青き額をいくたび撫づる    薬王華蔵

県文学賞に応募した僕の短歌の作品。かろうじて佳作入選を果たしていた。

もちろん、憂いの湖の湖底を歩いている啄木の作品が背景にある。

そしてこの作品の啄木は、作者自らである。青い額の奥深くで苦悩する作者みずからである。

時は春。柳が芽吹いている。新緑のしなやかな長い枝を伸ばしている。その枝の下を啄木が歩いている。

人に慰められたらよかろうに、慰めを与えるような、励ましをくれるような、やさしい人はいない。そういうハタラキに出てくれているのは、かろうじて僅かに柳である。細くて青い慰撫の枝葉である。

 

 

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存在には、それ自体の内側に、力学がハタライている。

2021年11月11日 09時10分01秒 | Weblog

マイナスの1が0をば支えをりこの発見をふっとよろこぶ   薬王華蔵

僕の県文学賞応募の短歌の作品。落選だった。

マイナス1が0を支えている。それがないと、0が0になれない。0はまたプラス1を支えている。

 

縦に並んでいても横に並んでいてもこの力学が働いている。

 

そうやって互いが互いを、支え合って列んでいる。

 

支え合うという意志を鮮明に外には表していないけど、支え合っている。ここがいい。

 

これは数字の配列の話なんだけど、もう少し敷衍してもよさそう。

 

物体も人も、互いが互いの位置にいる。しかもそれが自然に、いとも自然に、支え合っていることになっている。

 

そうだとしたら、嬉しいじゃないか。

 

で、ふっとこの発見が嬉しくなってきたのである。

 

ああ、このわたしも、このままでも、何かの功績をあらわにしないで生きているとしても、存在の価値を有していると思ったのである。

 

 

でもこんなの、短歌じゃないかも知れない。叙景がない。

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畑が、さぶろうお爺さんの相手をしてくれる。

2021年11月11日 07時13分37秒 | Weblog

今日は何をしよう? 

「お」がつくほどのお年寄りのさぶろうは、何処にも行くところがない。

いつも1人でいる。

ぽつねんとしている。

畑がさぶろうの相手を買って出てくれる。

それで、寂しさがやわらげられる。

畑以外に、そういう善良な行為をして手を差し伸べてくれるものはないか?

ない。

そういう奇特な人もいない。優しく接してくれる人もいない。

探しているが出て来ない。

求めているが、その努力は報われたためしがない。

で、諦めるしかない。

畑がいてくれればいいじゃないか。そこへ落ち着く。

昨日は有機化学肥料の粒剤を撒いた。

雨が降って、地中に染み入っただろう。

今日は何をしようか。

玉葱苗を植え込む時期が来ている。

裏の薩摩芋を掘った跡地を耕してここに畝を盛り上げようか。

畝を盛って施肥をして土作りをしておけば、苗が植えられる準備が整う。

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ジョウビタキは尾羽をピクピクさせる。

2021年11月11日 07時01分18秒 | Weblog

11月11日、木曜日、午前7時。夜中の雨はどうやら上がっているようだ。気温は8・1℃。肌寒い。

 

さぶろうは炬燵に入って、暖を取っている。そして両足を伸ばして楽な姿勢で、YouTubeの音楽を聴いている。

雀たちが庭に来ている。夜明けを待ったようにしてやって来る。餌場のくず米を啄みに来る。朝ご飯にするのだろう。

 

ジョウビタキも来ているが、くず米を啄みはしない。野菜の虫を銜えているときもある。尾羽をピクピクさせる。なんの合図なんだろう?

ジョウビタキは集団を造らない。群れない。そういうところはさぶろうに似ている。群れるには努力を要する。

 

その努力をしない。しないでおいて、寂しがる。ぽっかり空いたエアポケットを満たすのに右往左往する。

 

 

 

 

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