「最後はすべてうまく収まる」
死んだお婆の話Ⅱ。お婆とは我が父の母、つまり祖母だ。毎朝昇って来るお天道様に手を合わせた。このお婆は孫たちの語り部だった。「この世の中のすべてが最後はうまく収まっていく」「案じることはない、すべての現在がみな川に流れて海に着いて、よい最後、よい結果を迎える」「よい最後を迎えれる者は、だから、いつもよい途中にいることになる」 孫たちが日々叱られるような悪いことをして来ても、それでも「案じることはない」「お天道様のようににこにこして暮らせ」と。お婆は身の回りに起こる数多の不幸を川に流して、けろりとしていた。現代社会、何処を見ても案じることだらけじゃないか。新聞を見たら分かるじゃないか。それがそう見えていなかったお婆は、ただの世間知らずだけだったのかもしれない。夏。時折城原川に鮠釣りに行く。増水時には雑多な物が流れて来る。芥もゴミも。流れて流れる力になる。ゴールは海。結果の集積所だ。善悪どんな原因が流れ込んでも、流し去ってその大きな安堵の海に成る。にっこりしたお婆の顔が浮かんだ。
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これは今朝の西日本新聞オピニオン欄に掲載された。わたしの投稿作品だ。読んだ家内は「え、よくこんなものを取り上げてくれたわね」と訝しがった。もう一度読み直してみて、そう言われればそうだと思った。余りにも楽観過ぎていて、とんちんかんだったかもしれない。チューブと車輪がはずれて走っているような自転車を思わせるかもしれない。シビアーな現代の生き方とはズレがあるのかもしれない、と反省した。しかし、お婆(ばあ)の生きていたころはこのようにして生き抜けて来たのだろうと思う。スケールが一回り大きかったように思う。