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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

常住と非常住と 常住の雲と非常住の己と

2017年09月21日 18時54分02秒 | Weblog

斉藤茂吉著「万葉秀歌」を読んでいると気持ちが和んでくる。それでまたもや弓削皇子の歌を一首。

滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思(も)はなくに   弓削皇子(ゆげのみこ)

 常にあるということは? 死なないということではないのか。常住と非常住。死なないでいられるということと死なねばならないということ。雲はいつも三船の山の上に掛かっているから常住である。翻って己はどうか。己はいつここを立ち去っていかねばならないか。わたしが常住とは思えない。この悲しさやるせなさ。上の575までは序詞のようにすらおもえるが。実景だろう。そこにたしかに滝が落ちているのであろう。固有名詞がそこに挟まれていればいるほど己の非常住の確かさが動かしがたくなってくるようだ。弓削皇子は天武天皇の皇子。政変に巻き込まれる不安定な時代を過ごされていたのだろう。

常にありたいと人は思う。この世に長くいたいと思う。雲が流れていく。消えたかと思うとまた湧き上がって全体としては常住を呈している。

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私が怠け者だったばっかりに

2017年09月21日 18時33分56秒 | Weblog

少々遅くなってしまいましたが、畑にジャガ芋を一列植え付けました。ジャガ芋さん鼻毛が延びていました。あいすみませんと謝りました。わたしが怠け者だったばっかりに。それからブロッコリー苗を7株植えました。買って来てから1週間は経ってしまっていました。へにょへにょになっていました。同じくぺこりです。客人があったので途中中断しました。夕方、暗くなるまで秋野菜の種蒔きをしました。これはプランターに。まだ種が袋に一杯残っています。もう手先が見えなくなったので、作業終わりにしました。

 

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落日には輝きがある 人生の落日はどうか

2017年09月21日 12時44分39秒 | Weblog

十郎太はこのごろ赤い色を好む。着る服のことではない。赤い鳥居の赤である。鳥居でなくてもいい。神宮の宮殿の赤ならもっといい。吸い寄せられてしまう。赤には磁力が潜んでいるのやもしれぬ。夕焼けの赤、蔦紅葉、櫨紅葉の赤でもいい。古代、朱の色を「そほ」と呼んだらしい。染料にする赤土のことをも指すのかもしれない。「そほ」は小舟の外壁を染める染料でもあったらしい。

旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖に榜(こ)ぐ見ゆ      高市黒人

「山下の」は「赤」に掛かる枕詞。紅葉の美しい山が語源か。「そほ船」はそほで塗った赤い船。沖へ向かって漕いでいく赤い船が見えている。沖へ出てそれから都に向かうのであろう。「わたしも乗せて行ってはくれぬか」の思いがひょいと湧く。何故か。都を離れて久しく旅をしているからである。寂しいところを旅しているからである。都はすなわち赤い都である。あかあかとして賑わっている都である。

そうか、十郎太が赤を好むようになったのも、そうなのか。人生の賑わいを遠く離れたせいなのか。それで賑わいの赤を慕うようになったのか。いや、落日の赤さを我が事に重ね合わせるようになったからかもしれない。落日は一瞬の輝きを遺す。十郎太の落日も間近だ。残り香のような老いの輝きを求めているのかもしれない。

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空気が冷えて来て 酒がおいしい頃となった

2017年09月21日 11時23分05秒 | Weblog

この代にし楽しくあらば来む世には虫にも鳥にも吾はなりなむ    大伴旅人

「酒を讃むる歌」13首のうちの1首。生きているわたしのこの一代が酒を飲んで楽しく過ごせるというのであれば、次の世でたとい虫となっても鳥となってもよかろう、というのである。どんなに高い代価を払ってでも、いま手にしている盃の酒のおいしさを第一としよう、というのである。それほどの酒のおいしさだったのか。万葉歌人たちのころにはいったいどんな銘酒を飲んでいたのだろう。

9月後半に入る。酒がおいしい季節の秋になった。夜長、ひとり月を仰ぎつつ酒を飲んでこの世の憂いとやらを消し去ろうではないか。

大伴旅人の13首の中にこういうのもあった。

生者(いけるもの)遂には死ぬるものにあれば今世(このよ)なる間(ま)は楽しくをあらな

その通り。人は遂には死んでしまうのである。旅人もそうなった。楽しいことが出来るのは生きている間のことである。その短い間のことである。その通り、憂い悲しんでいるよりは酒を飲んでほのぼの楽しくしているべきである。

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仏になるのは死後か 生きているうちか 自問する

2017年09月21日 08時54分48秒 | Weblog

死んだ後に仏になる道を選ぶのか、生きている内に仏になる道を歩み出す道を選ぶのか。仏教各派はどう説いているのだろう。生きている間は、仏の教えを聞きながら、人として生きていてもいいようにも思うし、死んで仏と成るという安心が得られればそれで十分であるようにも思う。「仏になる」のを楽しみにしながら人としてこの世を生き通すのは、消極すぎるという考え方もある。この世に有る内に早く仏と成って積極的に人を利益せしめて行く方向に意義を見いだして行く考え方もある。教えではそうであっても現実はなかなか仏としての暮らしを通すのは難しいだろう。禅宗の人たちは座禅をしている姿は仏の姿だと説いている。しばらくでもいいから、仏を学んで姿をまねてみるだけなら十郎太にだって出来そうにも思われる。

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秋晴れの好日 薄日が差し込んでいる

2017年09月21日 08時45分53秒 | Weblog

秋晴れの好日。薄日が畑に射している。やや肌寒い。長袖シャツを着込む。地上1m弱に伸びたアスパラガスの細やかな緑葉が、微風にさやさやさやと戦いでいる。庭先には姫林檎が無数に落下している。サクランボほどの大きさの。僕はショパンのピアノ曲をうっとりと聴いている。

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夜中のトイレ通い回数1回を達成

2017年09月21日 07時18分33秒 | Weblog

夜中のトイレ通い回数1回を達成した。あとは眠っていたということになる。でかしたぞ、十郞太! お主やるじゃないか。まだまだ捨てたもんじゃない。僅かな希望の光が差し込んだ。今朝は、じゃによって、上機嫌。珍し。痛快マンでいるのはいい気持ちだ、兎に角。

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