斉藤茂吉著「万葉秀歌」を読んでいると気持ちが和んでくる。それでまたもや弓削皇子の歌を一首。
滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思(も)はなくに 弓削皇子(ゆげのみこ)
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常にあるということは? 死なないということではないのか。常住と非常住。死なないでいられるということと死なねばならないということ。雲はいつも三船の山の上に掛かっているから常住である。翻って己はどうか。己はいつここを立ち去っていかねばならないか。わたしが常住とは思えない。この悲しさやるせなさ。上の575までは序詞のようにすらおもえるが。実景だろう。そこにたしかに滝が落ちているのであろう。固有名詞がそこに挟まれていればいるほど己の非常住の確かさが動かしがたくなってくるようだ。弓削皇子は天武天皇の皇子。政変に巻き込まれる不安定な時代を過ごされていたのだろう。
常にありたいと人は思う。この世に長くいたいと思う。雲が流れていく。消えたかと思うとまた湧き上がって全体としては常住を呈している。