<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

夕方2時間足らず外に出た

2017年09月13日 23時26分29秒 | Weblog

夕方2時間足らず外に出た。胡瓜、茄子の畑に出た。胡瓜ははや立ち枯れて藁屑のようになって、実態はなかった。茄子は秋茄子というように、まだ幾つも実をつけていた。形は小さかったが。茄子を根株ごと抜き取り、周辺の草藪を掘り起こして捨てた。ここにブロッコリーを植えるためである。朝も昼もまるで食べていなかったので、力が入らなかった。そのくせ、お腹は空腹の虫を鳴かせた。暗くなって切り上げた。夕食もあまり箸が動かなかった。喰おうという気がわき上がって来なかった。その代わり水分は喉を通りやすかった。これぐらいの食事量でよく働けるなあと思った。

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生きられるだけでいいなあ

2017年09月13日 19時46分54秒 | Weblog

生きられるだけでいいなあ。ゴムのように長く引っ張ることはないなあ。ここまで生きられたという幸運で十分だなあ。だから、この先どう展開したとしても、文句を言わないようにしたいなあ。生きられるだけでいいなあ。十分だなあ。現代最新医療にお願いすることはないなあ。延命治療はお断りだなあ。満足が不満に変わるだけだものなあ。

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生と死は向かい合っているのだから、無理もない

2017年09月13日 15時09分53秒 | Weblog

しぐるるや死なないでいる          種田山頭火

わずか13文字だ。この中に自分の現在を埋め込んでいる。そしてそれが電流を持っている。熱を持っている。外へ向かって光る。読者の胸がこれに反応する。並々の芸ではない。たいした人だ、山頭火という人は。

時雨ている。この語は「過ぎる」から出ている。「通り雨」のことだ。秋の末から冬の初めの頃に降ったり止んだりする雨をいう。因みに「時雨忌」というのは陰暦10月12日に没した芭蕉の忌日をいうらしい。

人はいつも死と向き合って暮らしている。それより方法がない。生と死が向き合っているのだから、生きている者はそうなるのが当然である。山頭火もひょいひょい体調を崩す。でれでれに酔った後なんか特に。そして結果的には生き延びる。「死なないでいる」というのは安堵だ。最高の安堵だ。そこへざあざあと秋雨が降ってきた。それさえも嬉しくなるのである。時雨れるまではそうではなかった。いつ死んでしまうかと不安を覚えながら暮らしていた。そして今日朝から時雨れている。秋雨だから冷たいのだけれど、山頭火はそれに濡れてみた。生きている自分というのをそうすることで確かめていた。雨がぱっと止んだ。眼前の空が明るくなった。山頭火は芒の道へ歩き出した。

 

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もう大丈夫だ パワーが満ちた

2017年09月13日 04時30分52秒 | Weblog

静かな心を取り戻した。もう大丈夫だ。宇宙の健康パワーをインプットした。心身ともパワフルになった。これでよし。瞑想をした。心地いい。

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