①「あたちも行くってばさ」(旅行の準備をじゃまするみーみー)
②前の日曜日は芸術の森のアートマーケットでした。お客さんは少なめだったけど、今回も楽しい一日でした。
③先日、友人達と久しぶりにビアガーデンに行ってきましたー。暑い日のビールは格別です。
初盆のSさんも帰ってきているかな。
じいちゃん、ばあちゃんも帰ってきているのかな。
などなど思いながらの盆の入りです。
先日は、道立近代美術館でやっている「聖地チベット」展を見に行って、チベットの仏像や仏具などを見てきましたが、私が日本で思うところの仏教とも、ちょっと前に行ったバリ・ヒンズー教とも違うその迫力に圧倒されてしまいました。
日本の仏像は穏やかな表情をしているものが多いけれど、チベットの仏像は怒っているものが多く、また、悪やエロスを感じさせる装飾も多くありました。
チベット仏教にもいろいろあるのでしょうが、仏像やタンカなどを見ていると、欲望とか悪の誘惑に持っていかれそうになりながら、怒って怒ってやっつけて乗り越えて善に達するという感がありました。
日本の仏像だと、いろんな悪の誘惑はあるけれども、平気な顔をしながら耐えて耐えて、中で葛藤して乗り越えるという感があります。鬼という存在もあるけれど、自分自身は鬼にはならない気がします。
それに対しバリ・ヒンズー教は、善もあれば悪もあるよ、でも、悪を憎んでやっつけるんじゃなくて、悪にも祈りを捧げてなんとか静まっていてもらおうという感じです。
どれがいいとか悪いとかはなくて、それぞれに生きていく知恵みたいなものがあると思います。
バリにすごく惹かれるのはそういう宗教の思想みたいなものに惹かれるからでもあるのですが、チベット仏教や日本の仏像もすばらしいなあとも思うのです。
ただ、バリやチベットでは人々にとって宗教がとても身近なものであるけれど、日本ではそうでもありません。
先日、バリで朝日新聞を読んでいた時、是枝監督がコラムの中で、「日本人には(キリスト教的な)神様が存在しないから、時々死者の目で僕たちの暮らしを外から批評してもらう必要があるんじゃないですか。」「死者は神様の代わりで、生者の罪をその存在によって裁くのだ。」としていて、なるほど!と思ったのですが、お盆は特にそんなときなのでしょう。
宗教をしっかり心の中心に持っている人たちもいますが、数は少ない日本において、お盆というのは自分の暮らしを亡くなってしまった親戚や友人たちに見てもらって、それでいいのかと振り返ることのできる時期なのでしょう。
Sさんや友だち、じいちゃんやばあちゃんに胸を張って「がんばってるよ」と言える自分であるかどうか・・・、う~ん、全然ダメだな、ちゃんとしなきゃと思いつつ盆入りの夜は更けていくのでした。