大竹市のコンビナート脇に港がある。以前は工場の間にある狭い道を通っていた。
現在は港湾西部事業によりコンビナートの埋め立て面積が広がり、一帯は工場地に。
港への道は大きく迂回するが道は立派に。埋め立てによる工業港湾も立派である。
その港の脇は埋め立てられており、緑地が広がっている。釣りをする人も多い。
看板下部の文言のことは別として、家族連れやカップルが散策していた。
大竹市は戦後の戦争引揚者上陸地であり、旧日本海軍大竹海兵団があった。
昭和11年に海軍潜水学校が移設され、艦船スクリュー音を探知する訓練学校ができた。
施設の一つである探知講堂(正式名:電側水側講堂)が、前述の港の沖合い2・30mにあった。
建物はコンクリート箱と化して不気味な感じだったが、外壁の一部を残してモニュメントに。
前の画像の右側角部分が残されている。
現在は緑地なので埋め立てにより風景を一変させている。
以前を見慣れているので不思議な感じである。
現在は港湾西部事業によりコンビナートの埋め立て面積が広がり、一帯は工場地に。
港への道は大きく迂回するが道は立派に。埋め立てによる工業港湾も立派である。
その港の脇は埋め立てられており、緑地が広がっている。釣りをする人も多い。
看板下部の文言のことは別として、家族連れやカップルが散策していた。
大竹市は戦後の戦争引揚者上陸地であり、旧日本海軍大竹海兵団があった。
昭和11年に海軍潜水学校が移設され、艦船スクリュー音を探知する訓練学校ができた。
施設の一つである探知講堂(正式名:電側水側講堂)が、前述の港の沖合い2・30mにあった。
建物はコンクリート箱と化して不気味な感じだったが、外壁の一部を残してモニュメントに。
前の画像の右側角部分が残されている。
現在は緑地なので埋め立てにより風景を一変させている。
以前を見慣れているので不思議な感じである。
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