平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

神様はどんな罪を悲しむか(2019.3.17 礼拝)

2019-03-18 09:53:24 | 礼拝メッセージ
2019年3月17日礼拝メッセージ
『神様はどんな罪を悲しむか』
【ヨハネ8:1~11】

はじめに
 この会堂で捧げる礼拝も、残すところあと3回となりました。その大切な3回の中の1回を使って、きょうは「罪」について語るように示されました。考えてみると、私はこれまでの礼拝説教や祈り会の説教の中で「罪」そのものをテーマにした説教はほとんどして来なかったような気がします。もちろん、「罪」については色々な機会に触れて来ました。しかし、それは「罪」がメインテーマではなくて、他のことがテーマの時に補足する形で罪について触れていた場合がほとんどであったような気がします。

逮捕者が出ると作品がお蔵入りになることへの疑問
 罪について皆さんとご一緒に考えてみたいと思わされたきっかけは、数日前に逮捕されたピエール瀧さんが出演した映画やドラマの作品が軒並みお蔵入りになってしまったからです。私はこのことを大変に憂慮しています。朝ドラで人気があった「あまちゃん」も、津波被害で不通になっていた三陸鉄道の全線開通に合わせて総集編の前編と後編が放送されることになっていましたが、何と前編だけが放送されることになって後編は放送されないことになってしまいました。後編にはピエール瀧さんが重要な役割で出演しているからなのでしょう。「あまちゃん」は前編と後編とで一つの作品なのに、ピエール瀧さんが出演していない前編だけを放送するというところに何とも言えない気持ちの悪さを感じます。
 この種の、逮捕者が出た作品がお蔵入りになることについては、私は約10年前に大変に苦く悲しい思いをしたことがあります。12年ほど前、私は酒井法子さん主演の『審理』という映画にエキストラで出演したことがありました。この映画は最高裁判所が企画・制作した裁判員制度をPRするための広報映画でした。酒井法子さんは裁判員に指名された主婦の役を演じていて、戸惑いながらも裁判員として裁判に参加して役割を果たし終えるまでを描いたフィクションです。映画では裁判官のアドバイスを受けながら複数の裁判員が議論する様子も描かれていて、この映画を観ることで裁判員制度について学べるようになっていて、裁判所では、この映画のDVDを無料で配布していました。しかし、10年前に酒井法子さんが覚醒剤使用の罪で逮捕されたことにより、DVDは回収されてお蔵入りになってしまいました。
 この映画を撮った原田昌樹監督は、この作品を完成させた後で癌のために亡くなりました。つまり、この『審理』という映画は原田昌樹監督の遺作でした。原田監督は癌に侵されていながら、そのことを周囲に隠してこの作品の完成のために全身全霊を傾けて、そうして完成後に間もなくして亡くなりました。それほどの渾身の作品なのに、酒井法子さんが逮捕されたことで、この作品のDVDはお蔵入りになってしまいましたから、私はとてもやり切れない気持ちになりました。ただ、この作品は酒井法子さんが主演でしたし、裁判員制度のPR映画という性質上から仕方がない面もあったかもしれません。
 しかし、今回お蔵入りになったピエール瀧さん出演の作品群は、ピエールさんが脇役のものばかりですし、官公庁によるPR映画でもありません。多くの人々の汗と涙で出来上がった作品を、脇役の一人の罪のために無にするようなことがあって良いものでしょうか?私はそのことの罪の方がよほど大きいのではないかと感じます。

人は誰もが罪人である
 私には理解不能ですが、逮捕者が出演した作品がお蔵入りになる理由の一つに、「犯罪者が出演していることで、それを観た人が不快に感じるから」というのがあるのだそうです。であるなら、不快に感じる人が観なければ良いだけの話です。そういう意見がSNS上で多く見られます。私もそう思います。ただし今日は視点を変えて、「犯罪者が出演している作品を観ると不快になる」という指摘には、人は誰もが罪人であるという意識の欠如が見え隠れしているように感じますから、そこをもう少し掘り下げてみたいと思います。
 その足掛かりとして、まず今日の聖書箇所を、ご一緒に読みたいと思います。有名な箇所ですから、ほとんどの皆さんの頭の中に入っていることと思いますが、改めて交代で読みたいと思います。

8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

 下の7章53節の脚注にあるように、この部分は古い写本には含まれていないということなので、私はヨハネの福音書を読む時、ここを飛ばして読むことが多いのですが、今回改めてこの箇所を読んでみて、この姦淫の女に石を投げずに去って行ったパリサイ人たちは偉かったなあ(褒め過ぎかもしれませんが)という感想を持ちました。現代の日本にいるような罪人を叩く人たちであれば、ここを去らずにいて女に石を投げたのではないか、そんな風に思うからです。少なくとも、この場にいた律法学者やパリサイ人たちは自分の中にある罪を自覚していました。作家の三浦綾子さんは『光あるうちに』の中で、「罪を罪と思わないことが最大の罪なのだ」と書いています。私もそう思います。自分の中にある罪に気付かず、人を罪人扱いすることは、とても大きな罪だと思います。

罪が赦されている私たち
 では仮に逮捕された俳優が出演している作品がお蔵入りにならずに放送されたなら、(私はそうなることを望みますが)、私たちは心の中でどう思ったら良いでしょうか。私なら、こう思うだろうと思います。「罪の種類は違っても、私も同じ罪人なのだから、その罪が赦されていることを感謝しよう。」
 私たちは罪人ですが、その罪はイエスさまの十字架によって赦されています。その赦されていることを忘れて人の罪を断罪することは、一万タラントの負債を免除してもらった家来がしたことと同じです。今度は以前にも開いたことがあるマタイの福音書18章の21節から35節までを少し長いですが交代で読みましょう。一万タラントの負債は、とても大きな負債です。王はその負債を免除しました。それは私たちが神様に背いていた大きな罪を赦していただいたのと同じことです。そのように大きな罪を赦していただいているのにも関わらず他人の罪を赦さないとしたら、それはさらに大きな莫大な罪と言えます。

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

 自分が罪人であり、自分が罪赦されている存在であることを覚えておくことは、とても大切なことです。そうでなければ今読んだ32節のように、「悪い家来だ」ということになってしまいます。

証し ~韓国人への差別意識を持っていた私
 人は、自分が育った環境によって、気付かないうちに罪人になっていて、自分でそのことに気付いていないことがあります。例えば差別の問題です。私が生まれ育った静岡市では、私の子供の頃には大人たちが普通に韓国人・朝鮮人を差別していました。そのことを思い出す出来事が最近ありましたから、次に証をさせていただきます。これから読むのは、最近私がFacebookに投稿した記事です。それを引用します。

(ここから引用)
 きのうJR清水駅前の清水マリナートで開催された映画『チルソクの夏』のチャリティー上映会と佐々部清監督のトークショー(主催:清水法人会)に参加して来ました。この映画は2003年に下関で先行上映された後、2004年に全国公開されました。2004年の春に新宿でこの映画を観て心をグサッと刺された私は上映最終日にもう一度新宿の映画館を訪れて、その時に野球帽をかぶった方が観客席の最後列にいるのを見て監督さんだと直感したので、声を掛けてパンフレットにサインをしていただきました。その後、自分の職場でこの映画の上映会と佐々部監督の講演会を企画・実施し、このことを通じて多くの映画ファンの仲間と知り合いになって交流が始まり、今に至っています。



 この映画は1977~1978年の下関と釜山が舞台で、両市の親善陸上競技大会で知り合った日韓の男女の高校生の交流を描いた純愛物語です。私が心を刺されたのは、ヒロインの下関の高校生の周囲の大人たちが韓国人・朝鮮人を差別している様子が自分の子供時代と重なったからでした。
 静岡の大人たちも普通に韓国人・朝鮮人を差別していました。その中で育った私はそれを特におかしいとは思わずにいて、差別意識が刷り込まれていました。そのことを示されたのが30代の後半に大学の留学生センターで働き始めてからでした。多くの留学生たちと接する中で自分の心の奥底には韓国人への差別意識があると気付き、何とかする必要を感じました。そんな時、当時所属していた日本野鳥の会が韓国バードウォッチング・ツアーを企画しているのを知って約1週間のツアーに参加しました。ツアーでは韓国南部の豊かな自然の中で野鳥観察や韓国料理を堪能するとともに地元の韓国人の方々とも交流することができました。そして、このツアーによって自分の中に根強くあった韓国人への差別意識はきれいに無くなり、かつて自分が親の差別意識を無批判に受け入れていたことを深く恥じ入りました。1999年頃の出来事です。
 そんなことがありましたから、映画『チルソクの夏』を初めて観た時、ヒロインの高校生が韓国人を差別する親に激しく反発するシーンに私は衝撃を受けました。自分は親たちの差別意識を当然のように受け継いでいたのに、このヒロインたちは違いました。自分の心の中に気付かないうちに存在する汚れについて、映画の高校生たちを通して改めて考える良い機会となりました。私にとって『チルソクの夏』はそういう大切な映画ですから、初めて観てから15年が経った今でも、少しも色褪せることがありません。
(引用おわり)

 自分とは違う環境で生まれ育った人々に根拠のない差別意識を持つ罪は、神様が最も悲しむではないかと思います。つい最近も白人至上主義者がニュージーランドのモスクで銃を乱射して多くの方々が亡くなるという痛ましい事件がありました。この事件があった町の名がクライストチャーチ(キリスト教会)という名であったことをイエスさまは本当に悲しんでおられることと思います。
 私の場合は幸いにもイエスさまと出会う前に職場の留学生センターで留学生たちと接することを通して、差別意識を持つことの罪に気付くことができました。そうして韓国バードウォッチング・ツアーに参加することで、このことの罪から離れることができました。このことで、やがて韓国人によって教会に導かれることになりましたから、イエスさまが導いていて下さったのだろうと思います。罪にどっぷりと浸かっている間はイエスさまが、そのことを悲しんでいることには気付くことができません。罪に気付くこととイエスさまの存在に気付くことは同じことと言えるのかもしれませんね。

他の人々を見下す罪は大きい
 ルカの福音書には、この差別の罪にどっぷりと浸かっているパリサイ人が登場しますね。次にルカ18章9節から14節を交代で読みましょう。

ルカ 18:9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

 どのような人たちにイエスさまは、この例え話をしたのか9節に書いてあります。それは「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」でした。これらの人々は、11節にあるようにこれらの人々心の中では自分が「奪い取る者、不正な者、姦淫する者」でないと思い込んでいました。このように自分の罪深さに気付かない人々が多くいることをイエスさまは悲しんでおられます。

おわりに
 最後にもう一度ピエール瀧さんが逮捕された事件に戻りたいと思います。犯罪者が出演している作品群はお蔵入りにすべきと考える人々からは、どこかこのパリサイ人たちが犯している罪の臭いが漂ってくるように感じます。
 ニュージーランドのクライストチャーチの事件、ピエール瀧さん出演の作品群をお蔵入りにした件など、世界も日本も神様からどんどん離れて行っているように感じます。神様はこのことをとても悲しんでおられることと思います。この神様の悲しみを感じることは信仰において、とても大切なことです。ですから来週も引き続き、神様が悲しむ罪について共に考えてみたいと思います。
 最後にヨハネ8章の7節から9節までを交代で読んで終わることにします。この現場を去って行ったパリサイ人たちは自分の中の罪を自覚することができましたから、少しホッとするのを感じます。

8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。

 お祈りいたしましょう。
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