平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

再び来られる主イエス(2016.7.3 礼拝)

2016-07-04 10:35:42 | 礼拝メッセージ
2016年7月3日礼拝メッセージ
『再び来られる主イエス』
【使徒1:8~14】

はじめに
 礼拝メッセージでは、これから1年半ぐらい掛けて、新約聖書の使徒の働きをじっくりと学びたいと願っています。この使徒の働きから、イエスさまの弟子たちが「霊に燃えて主に仕えた」ことを学び、私たちの新しい礼拝堂での働きに備えたいと思います。使徒の働きの最後の章の28章を学ぶ頃には新しい礼拝堂が完成していて、この新しい礼拝堂で礼拝を捧げることができるようになっていることを願っています。

私たちはイエス・キリストの証人
 先週はその第1回目として使徒1章の1節から8節までを、ご一緒に読みました。使徒1章8節は、とても有名な聖句ですから、きょうもまた聖書箇所に含めました。1章8節、

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 教会の働きのほとんどは、この使徒1章8節で言い尽くされていると言っても過言ではないほど、この節は重要だと思います。イエス・キリストを信じて聖霊を受けると私たちは霊的なイエスさまと出会うことができます。これは素晴らしい恵みです。この霊的なイエスさまと出会って素晴らしい恵みを受けたことを私たちは証ししますから、私たちはイエスさまの証人です。2000年前のイエスさまの弟子たちもまた、イエスさまについて証しをしました。この弟子たちの中には、人間として人々に教えを説いていた時のイエスさまに会ったことがない者たちも多くいました。使徒パウロは、その代表です。或いはまた、パウロを助けたプリスカとアクラの夫妻も人間のイエスさまには会ったことがありませんでした。しかし、パウロも、そしてプリスカもアクラもイエスさまの証人です。それは霊的なイエスさまと出会っているからです。
 21世紀の現代の私たちもまた人間のイエスさまには会っていませんが、聖霊を受けたことで霊的なイエスさまには出会って恵みをいただいていますから、私たちはそのことを証しするイエスさまの証人です。

イエスが天に上ったことで遣わされた聖霊
 続いて9節、

1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

 こうしてイエスさまは天に上げられました。このことはイエスさまが十字架に付けられる前の最後の晩餐の段階で、既に弟子たちに対して予告されていました。ヨハネの福音書16章の5節から7節までを、交代で読みましょう(新約聖書p.213)。

16:5 しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。
16:6 かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。
16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 5節の「わたしを遣わした方のもとに行こうとしている」とは、イエスさまが天に上げられて天の父のみもとに行くこと、すなわち使徒1章9節のことです。そして16章7節でイエスさまは、イエスさまが去って行くことは弟子たちにとって有益なのだとおっしゃいました。それは、イエスさまが去って天に行かなければ、助け主の聖霊を遣わすことができないからです。聖霊はイエスさまが天の御父の御もとに上ることで初めて、遣わすことができるようになります。
 これは本当に益であり、素晴らしいことです。なぜならイエスさまと出会う恵みは、イエスさまが人間として地上にいた時は、1世紀の初めにパレスチナの地にいた人々しか受けることができなかったからです。しかし霊的なイエスさまと出会う恵みは、パレスチナの地に限らず全世界の人々が受けることができますし、1世紀に限らず、2世紀でも3世紀でも、そして21世紀の現代の私たちも、その恵みを受けることができます。

再び来られる主イエス
 続いて10節と11節、

1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 11節の「またおいでになります」とは、終末のイエスさまの再臨のことですね。きょうは、このイエスさまの再臨について、少しおさらいをしておきたいと思います。私はこれまで礼拝の説教では、皆さんが一定の聖書知識を持っておられるものとして説教する傾向がありました。語学で言えば中級レベルぐらいで説教していました。伝道説教の場合は初級にしますが、礼拝説教では中級ぐらいにしていました。しかし、これからは初級と中級の間ぐらいを目指そうかなと思います。そして、もし皆さんのほうから、次の礼拝には新しい方をお連れしますという情報をいただければ、その時には、なるべく初級レベルで話をするように心がけたいと思います。実際、どれだけ話をわかりやすくできるかはわかりませんが、心がけとしては、そうありたいと思います。
 では、イエスさまの再臨について、初級と中級の間ぐらいの話を、これから少しすることにしたいと思います。
 この11節の最後の、「またおいでになります」という所に3)という注が付いていて、下の11節の脚注の③を見ると、参考としてマタイ16章27節、28節という引照が付いています。この箇所は、週報のp.3に記しておきました。これから、いくつか再臨に関係する箇所を開きます。あちこち開くのは大変ですから、週報のp.3に記しておきました。まずマタイ16章27節、

16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。

 ここでイエスさまは再臨のことに言及しています。そして再臨の時には、おのおのその行いに応じて報いをするとおっしゃっています。それは、一人一人について、永遠の命の中に入れるか、永遠の滅びの中に入れるかの審判を下すということですね。次に28節、

16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」

 この28節は、普通に読めば、弟子たちがまだ生きている間、すなわち1世紀の中頃か、遅くとも1世紀の末には再臨があるとイエスさまが予告したと受け取ることができるかもしれません。しかし実際には、2000年が経った21世紀の今でも、まだ再臨はありません。これは、どう解釈したら良いでしょうか・・・・・・。私はヨハネの福音書に基づいて解釈すれば良いと思います。すなわち、イエス・キリストを信じて聖霊が与えられ、永遠の命を得るなら、決して死を味わわないということです。

現代に至るまでない再臨
 1世紀の時点では、イエスさまの弟子たちは皆、再臨がすぐにでもあると信じていました。パウロも自分が生きている間に再臨があると思っていました。パウロは第一テサロニケ4章15節から17節で次のように書いています(週報p.3)。

4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 ここでパウロは自分たちのことを「生き残っている私たち」と書いていますから、自分が生きている間に再臨があると思っていました。しかし、パウロが生きている間に、再臨はありませんでした。では、再臨はいつあるのでしょうか。それは天の御父だけがご存知のことです。マタイの福音書の中でイエスさまは、このように言っています(マタイ24:36)。

24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、誰も知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

 ですから、すぐにでもあると思っていた再臨がなかなかなくても、おかしいことはないのですが、再臨がなかなかないことを気にしている人々もいました。ペテロの手紙第二の3章9節でペテロは次のように書いています(週報p.3)。

3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 私も、ここにペテロが書いている通り、まだまだイエスさまが再び来る状況が整っていないから、再臨がないのだろうと思っています。

再臨できる状況にない?
 たとえば、21世紀の現代でも聖書の存在を知らない人々がかなり存在します。国家がキリスト教を禁止しているために、国民が聖書を知る状況にない国もあります。或いはまた、聖書は多くの言語に翻訳されているとは言え、まだまだすべての言語に翻訳されているわけではありませんから、翻訳されていない言語を使っている民族には、まだ届いていません。日本ウィクリフ聖書翻訳協会のホームページを見ると、聖書翻訳の現状分析として、次のような説明があります。

「この世界にある、約6900の言語のうち、聖書全巻(創世記~黙示録)の翻訳が終わっているのは、たった550言語あまりです。日本語は、そのうちの一つです。日本語を母語とする私たちは、その意味で大変恵まれています。
 約4650言語では、新約聖書もしくは聖書の部分訳があるか、出版されている聖書は未だ無くても聖書翻訳プロジェクトが既に始まっています。約1800語で聖書翻訳が必要ですが、未だ聖書翻訳プロジェクトが始まっていません。この約1800の言語を話す人口の合計は約2億人です。
 いつ世界のすべての人々は母語で聖書を持つようになるでしょうか。 これまでのペースで行くと、残り約1800の言語に聖書を翻訳する働きが終了するまでに後150年はかかります。どんなに速いペースで頑張っても、100年はかかるでしょう。」

 この説明文から、世界にはイエスさまの福音を知らない人々がまだまだいることがわかります。しかも、聖書はそんなにわかりやすい書物ではありませんから、たとえ自分の民族の言葉で書かれた聖書があっても、すぐには理解できないという問題もあります。
 私は個人的には、ヨハネの福音書の理解の問題が大きいと思っています。ヨハネの福音書には人間のイエスさまだけでなく霊的なイエスさまもいるのに、今のところ人間のイエスさましか認識されていません。人間のイエスさまは紀元1世紀にしか存在しませんでした。それゆえイエス・キリストと言えば1世紀の人と思われていて、多くの人々は聖書とは古くさい書物だと思っています。ですから、この認識が改められる必要があります。聖書は古くさい書物ではなく、霊的なイエスさまが現代の私たちにも語り掛けて来る、瑞々しい書物です。この瑞々しさを感じるためには霊的な目が開かれ、霊的に成長する必要があります。イエスさまの再臨が予告されてから2000年が経った今でも再臨がないのは、多くの人々の霊的な成長がまだまだであるために、イエスさまが再臨する状況にはないのかもしれません。
 聖書は古くさい書物ではありませんから、使徒の働きもまた古くさい書物ではなく、瑞々しい書物です。使徒の働きに記されているイエスさまの弟子たちが聖霊を受けた出来事は2000年前の出来事でしたが、この聖霊の注ぎは21世紀の現代も続いています。私自身もまた21世紀になってから聖霊を受けた者です。
 使徒の働き1章に戻ります。12節から14節までを交代で読みましょう。

1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

 このようにイエスさまの弟子たちは祈りに専念して、これから起きることに備えていました。この時から間もなくして、イエスさまの弟子たちには聖霊が注がれました。この使徒の働きに記されている聖霊を受ける恵みを私たちもまた、いただいています。聖書に書かれていることと同じ恵みを私たちはいただいていますから、聖書は古びることなく、いつも私たちに霊的な活力を与えてくれます。それゆえ私たちもまたイエスさまの弟子たちのように、霊に燃えて主に仕えることができます。

おわりに
 この沼津の地域の人々も、世界の人々も、多くの方々はまだ霊的な目が開かれていません。あるいは霊的な目は開かれていても霊的な成長ができていません。ですから私たちは多くの方々が霊的に成長して、聖霊の恵みをたっぷりと感じることができるようになるよう、霊に燃えて主に仕えたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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