平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

渇いた魂が求める聖霊(2018.7.29 礼拝)

2018-07-30 07:56:32 | 礼拝メッセージ
2018年7月29日礼拝メッセージ
『渇いた魂が求める聖霊』
【詩篇42篇】

はじめに
 先週はシオン教会での合同礼拝でしたから間が空きましたが、先々週の詩篇22篇に続いて今週もまた詩篇を開くことにしました。きょうは42篇です。もう一度、1節から5節までを、今度は交代で読みましょう。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。
42:3 昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。
42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

魂を冷静に観察している詩人
 この詩人の置かれている状況は、どのようなものでしょうか。4節に、この詩人が祭りのために神殿があるエルサレムに上京した時の喜びを思い起こしていることが綴られています。4節、

42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。

 しかし、2節を見ると、今はそのことがなかなか適わない状況にあることがわかります。2節、

42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

 このように、神の御前に出られない状況が続いているので、魂が渇いているのですね。1節には、

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

とあります。
 私がこの詩篇42篇で最も感銘を受けるのは、この詩人が自分の魂の状態をかなり客観的に把握している点です。そして、このことから心と魂とは違うのだということを教えられました。
 この詩人は、自分の魂をやや突き放して、5節のように言います。

42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。

 この5節から、詩人の内で思い乱れているのは「心」ではなくて「魂」のほうであることがわかります。つまり精神的に乱れることがあった場合、それは必ずしも「心」が乱れているのではなく「魂」が乱れている場合も少なからずあるということです。この詩人は冷静沈着に自分の「魂」の状態を観察していますから、「心」は乱れていないと言えます。この詩人の内で乱れているのは「魂」であって、「心」のほうではありません。

魂を癒すことができるのは神だけ
 このように、「心」と「魂」を区別して観察することは、信仰についての理解を深める上でとても重要だと思います。心を制御することは、ある程度は可能でしょう。簡単ではありませんが、心が動揺している時にどうしたら良いかなど、いろいろと試してみることは可能です。そして上手くすれば動揺を静めることも可能でしょう。しかし、魂の領域には神様に入っていただかないことには、どうしようもありません。魂の領域を人が制御することは不可能です。私たちの魂を癒すことができるのは、神様だけです。きょうは、このことの理解をご一緒に深めることができたら幸いだと願っています。
 次に取り上げる人生相談は少し前の祈祷会のメッセージでも引用したものですが、最近、朝日新聞の人生相談欄に次のような相談が載っていました。
https://digital.asahi.com/articles/ASL6P6FQWL6PUCFI00B.html?iref=pc_ss_date

お読みします。

●相談者 女性 40代

 40代後半の独身女性です。東証一部上場企業に正社員として働いています。
 今まで結婚願望、出産願望があった時期があり、ありがたいことにプロポーズして頂いたことも何度かありましたが、結婚は決断できませんでした。現在は、結婚願望、出産願望は全くありません。
 仕事は心身ともにハードで辞めたいと思うことは多々ありますが、独りで生きていくためにはと腹をくくり、なんとか続けています。信頼できて、心を許せる女友達や食事に誘ってくれる男性がいて、生涯を通して楽しめる趣味を持ち、そこそこ資産もあります。
 ある程度の年齢になったら老人ホームに入ろうと考えています。自分で全て選択してきた人生に納得していますし、将来の不安もあまりありません。
 それなのに、なぜかいつも心が満たされず、ポッカリと穴が開いているような、もの悲しく、寂しい気持ちになります。自分でも理由が分かりません。
 どうしたら心が満たされるのでしょうか。
 また、私のような独身女性が充実して生きていくためのアドバイスをお願いいたします。上野千鶴子先生にご回答頂けたらありがたく存じます。
 上野先生の著書『おひとりさまの老後』は読ませて頂いたので、その他のアドバイスを頂けたらありがたく存じます。

 この相談に対する回答者の上野千鶴子氏の回答は以下のようなものでした。

 ○回答者 社会学者・上野千鶴子 「独身」が原因と思い込んでるのでは

 あなたのご相談を少々立場を変えてつくりかえてみましょう。
 「40代の専業主婦。夫は一部上場企業勤務で、順調に出世しています。子どもにも恵まれ、趣味や旅行を共にする女友達や、サークル仲間で男性の友人もいます。不本意なパート勤めに出ずにすみ、好きな稽古事にもうちこめる余裕のある暮らしを夫に感謝しています。老後を子どもたちに頼る気はないので、ふたりで有料老人ホームに入ろうねと夫とは話し合い、そのための蓄えもしています。自分で納得して選んだ人生、つつがなく過ぎたことを感謝していますし、将来の不安もあまりありません。それなのになぜか、いつも心が満たされておらず、ポッカリと穴が開いているような、もの悲しく、寂しい気持ちになります」
 ここまでくれば明敏なあなたにはとっくに察しがついているでしょう。性別を入れ替えても、職業や立場を変えても、同じ相談が成り立つと。
 あなたのご相談の問題は、前段が原因、後段がその結果という因果関係をもとに成り立っていること。空虚な気持ちに「自分でも理由がわからない」というあなたの落とし穴は、「もし独身でなければきっと人生は充実していただろう」と思い込んでいるところにあります。
 とりあえず、前段と後段の因果関係を断ち切ってください。そうすればあなたが向き合うべきは、いまこの時の空しさ、さみしさになります。
 40代後半。人生の盛りは過ぎ、とりかえしのつかない思いややりなおしのきかないことで過去はいっぱい。自分の人生が下り坂に入ったと痛切に思わざるをえないのが、この年齢です。女性なら閉経というカラダの変化が伴いますし、男性なら組織内の自分のポジションに見極めがついているころです。「自分で納得して選んだ人生」、後悔はなくとも、何か大事な宿題を忘れたような索漠とした思いを味わっていることでしょう。
 とはいえ、人生100年時代。まだまだ後半生は続きます。あなたの「ポッカリと穴が開いているような」気持ちは子どもの頃からつづいているわけではなさそうですし、「腹をくくって」つらい仕事を続けてきたときにも、そんな気持ちを味わう余裕はなかったでしょう。
 過去をふりかえってどんなときなら充実感を感じられたかを思い出してください。思い患うことのない今は、人生の踊り場。空虚さはその代償です。
(引用終わり)

 回答者の上野氏は、この相談者は「もし独身でなければきっと人生は充実していただろう」と思い込んでいると指摘しています。確かにそうなのでしょう。独身の上野氏に相談していることからも、そのことは伺えます。しかし、いずれにしても、この回答は私の目には物足りないものに映ります。なぜなら、この相談からは、相談者の魂が満たされていない様子が見てとれるからです。この相談者は、「どうしたら心が満たされるのでしょうか」と聞いていますが、実は満たされていないのは心ではなくて魂のほうだと思います。彼女は「生涯を通して楽しめる趣味」を持っているということですから、心を満たす術を知っています。熱心に仕事に取り組み、空いた時間には趣味に没頭すれば心の空しさを忘れることも可能でしょう。それなのに彼女は満たされないものを感じています。つまり自分の努力では埋めることができない空虚感を自分の内に感じているということです。ですから彼女の内で満たされていない場所は「心」ではなくて「魂」のほうです。しかし、相談者の彼女はそのことに気づいていません。回答者の上野氏もまた気づいていません。

神と出会あうことの大切さ
 それに対して詩篇42篇の詩人は自分の魂が満たされていないことを強く感じています。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

 では、この新聞の人生相談欄の相談者の女性は、どうしたら自分の「魂」が空虚であることに気づくことができるのでしょうか。それにはやはり、神様との出会いを経験するしかないのだろうなと思います。詩篇42篇の詩人は、かつて祭りでエルサレムに上京して神殿で神との出会いを経験しました。それゆえに今の自分の魂の中には神がいないことを自覚しています。では、どうしたら神との出会いを経験することができるのか、私の経験に照らすと、それは至難の業のような気がします。しかし、それを追求して、少しでも神様との出会いを経験する手助けをすることが私たちのすべきことである筈です。それゆえ、もう少しこのことを掘り下げてみたいと思います。
 まず言えることは、出会うべき神は、書物などから知識として得た神ではなく、これまでずっと自分のそばにいて自分を守り導いてくれていた神であるということです。この相談者に限らず多くの人は、過去に自分が人生の分岐点に立たされた時に選んだ道は自分で選んだと思っていることでしょう。しかし、実は背後に神がいて、どちらかに導いています。そして、その導きにはっきりとは気づかなくても、何となく導かれるものを感じて道を選択する場合がほとんどではないかと思います。そういう何かを感じるから、人は神社でおみくじを引いたり、占いを気にしたりするのではないでしょうか。
 ただし、人を正しい方向に導くことができるのは、その人に霊を吹き込んだ万物の創造主しか有り得ません。この万物の創造主である神とどうしたら出会うことができるのか。聖書が浸透していない日本においては極めて難しいとしか言いようがありません。だから私たちは、もっと多くの方々に聖書の神様のことをお伝えして行かなければならないと改めて思わされます。

あなたがたは何を求めているのですか
 一時期、礼拝でよく開いた箇所を、きょうはまた改めて開きたいと思います。ヨハネの福音書1章35節から39節までを交代で読みましょう。

1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 38節でイエスさまは二人の弟子たちに「あなたがたは何を求めているのですか」と聞きました。そして「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃいました。こうして二人の弟子たちはイエスさまと出会うことができました。
 イエスさまは同じ質問を私たちに対してもして下さいました。そうして私たちはイエスさまの「来なさい」に応えて教会に来て、私たちが求めているのは魂が神様の霊で満たされることであることが分かるようになりました。
 新聞の人生相談の女性は、心が満たされることを求めています。しかし、実は満たされるべきは心ではなくて魂のほうです。この相談者の女性も、イエスさまの「来なさい」の声に聞き従うのなら、それがわかるようになるでしょう。
 イエスさまを信じる私たちでも、時には自分の内に満たされないものを感じることもあるでしょう。その時には、詩篇42篇の詩人のように冷静に自分の魂を観察したいと思います。そして満たされていないのは心のほうなのか、魂のほうなのかを理解したいと思います。そして、もし魂が満たされていないのであれば、神様に入っていただかなければなりません。つまり聖霊に満たされるということです。詩篇42篇の詩人の時代には、誰でも聖霊に満たされるとうわけではありませんでした。聖霊に満たされたのは限られた預言者たちだけでした。しかし、イエスさまを信じる私たちには聖霊が与えられ、聖霊に満たされることができますから、改めてこのことを感謝したいと思います。

おわりに
 最後にもう一度詩篇42篇の5節をご一緒に読んで、終わることにします。

42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

 お祈りいたしましょう。
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