平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

大きなスケールで聖書を読む(2018.5.13 礼拝)

2018-05-17 08:02:04 | 礼拝メッセージ
2018年5月13日礼拝メッセージ
『大きなスケールで聖書を読む』
【ルカ13:6~9】

はじめに
 きょうは母の日ですが、来週はペンテコステの日ですから、ここまで続けて来たルカの福音書の学びのシリーズを、引き続き行うことにします。このシリーズでは使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めるということを試みています。
 ご承知の通り、使徒の働きは聖霊の働きとも言えるほど、使徒たちが聖霊によって力を受けて力強い働きをしたことが豊かに記されています。この使徒の働きの視点からルカの福音書を眺めてみています。

先週までの学びの復習
 まず先週までの4回のメッセージを簡単に振り返ってみます。第1回目ではルカの福音書でイエスさまが中風で寝たきりの男が癒し、この男が起きて歩き始めた場面を、使徒の働きで聖霊を受けたペテロが足の不自由な人を癒した場面と重ねて見ることをしました。すると、使徒の働きで足の不自由な人を癒したのはペテロというよりは、聖霊を受けたペテロの中にいるイエスさまが足の不自由な人を癒している姿が見えてきます。
 第2回目は、ルカの福音書が神殿の場面で始まり、神殿の場面で終わるという話をしました。つまり、ルカの福音書のイエスさまの言動の全体が神殿という入れ物の中に納まっているという形になっています。そして、パウロの手紙によれば、聖霊を受けている私たちの体は神殿だということです。私たちの体は神殿で、その中に神である聖霊が住んで下さっています。それはつまり、神の霊としてのイエスさまが私たちの中に住んで下さっているということです。私たちの中にはルカの福音書のイエスさまが丸ごと入っていて、私たちに語り掛けて下さっているのだという話をしました。ルカの福音書のイエスさまは人間としてのイエスさまですが、そのイエスさまが今度は神の霊として私たちの中に入っていて下さり、語り掛けて下さっているのです。
 第3回目は、ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」の箇所を開きました。使徒の働きの視点から見ると、父の家を出た弟息子とは異邦人のことです。そして祝宴に加わらずに父の家に入ろうとしなかった兄息子とは、イエスさまが神の子キリストであることを信じようとしないユダヤ人たちのことです。この第3回目のメッセージの時には聖霊の話はあまりしませんでしたので、いま補足しておくと、父の家の外にいる状態では、聖霊はその人の中に入っていないでしょう。聖霊を受けるとは、父の家の中に迎え入れられて祝宴に加わることだと言えるでしょう。このことを、もう少し補足したいと思いますから、ルカ15章の20節をご一緒に読みましょう(週報p.3)。

ルカ15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 この箇所で私は以前から、弟息子の帰り道のことがどうして何も書かれていないのだろうと気になっていました。弟息子が我に返ったのは遠い外国でのことでしたから、父の家に帰り着くまでの旅は長い期間が掛かったはずです。それなのに、その帰り道のことが描かれていないのは何故だろうと思っていました。そうして気付いたことはイエスさまが神の子キリストと信じてから聖霊を受けるまでの間にはほとんど時間が掛からないということです。つまり自分の罪に気付いて悔い改めの方向転換をしたなら、時間を置くことなくイエスさまは神の子キリストであると信じて聖霊を受けるはずだから、ルカは帰り道のことを書かなかったのだろうと気付きました。自分の罪に気付いて悔い改めてから聖霊を受けるまでに時間が掛かるとしたら、イエスさまが神の子キリストであると信じていないことになりますから、本当に悔い改めたかどうか疑わしいということになってしまいます。
 ジョン・ウェスレーは聖職者になってからもなお、救いの確証を持つことができずに長い期間悩んでいました。それはきっと、兄息子のように、どこか父のことを心から信頼することができずにいたからでしょう。兄息子は、父の家の住人なら畑で真面目に働くべきだと考えていました。それゆえ働かないで遊んでばかりいた弟息子を父が喜んで迎え入れたことに納得できないでいました。ウェスレーも良い行いをすることを重視していました。学生時代からホーリークラブを作って仲間たちと良い行いに励んでいました。このように行いを重視する人は、自分が良いと思っている行いを自分と同じようにはしない人のことを批判的に見がちなような気がします。ウェスレーの場合もそれで祝宴に加わることができなかったのかもしれません。それゆえ、なかなか聖霊を受けることができなかったということなのかもしれません。
 聖霊を受けることは何にも増して、最も大切なことです。第4回目の先週は、このことを学びました。週報p,3に載せたように、先週はルカ11章の13節に注目しました。

ルカ11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 このように求めるべきものは聖霊であることを先週は話しました。

大きなスケールで聖書を読む
 さて、今週のメッセージのタイトルは、『大きなスケールで聖書を読む』です。「大きなスケールで聖書を読む」とは、例えば先ほど話した「放蕩息子の帰郷」で言えば、弟息子とは異邦人のことである、とするような読み方です。そうではなくて使徒の働きとの重なりを考えずにルカの福音書を単独で読むなら、放蕩息子が父の家を出てから戻って来るまでの期間は数年程度の短い間だと思って読むことでしょう。財産を湯水のように使ってしまうなら、お金はあっという間に無くなってしまうからです。しかし、使徒の働きでのパウロたちによる異邦人伝道のことを重ねて読んで、弟息子とは異邦人のことだと考えるなら、弟息子が父の家を出てから再び戻るまでには何千年もの歳月が流れています。イスラエル人と異邦人とが別々の道を歩み始めたのは創世記のアブラハムの時代のことですから、アブラハム以降、異邦人は旧約聖書の時代の間はずっと父の家の外にいました。そうして使徒たちの時代になってようやく父の家に戻って来たのでした。この何千年もの期間は人間にとっては長い時間ですが、神様にとっては短い時間だと言えるでしょう。
 以上のように聖霊の働きを考慮に入れて聖書を読むなら、神様の時間を共有することができます。そうして神様との親しい交わりの中に入れていただくなら、そうしない時の何倍、何十倍もの大きな恵みをいただくことができるでしょう。それが「大きなスケールで聖書を読む」ということです。
 では、きょうの聖書箇所はどんな風に読んだら良いでしょうか。もちろん正解があるわけではなく、人それぞれの読み方で良いのですが、この箇所でのスケールの大きな読み方をご一緒に味わってみたいと思います。ルカ13章の6節から9節までを交代で読みましょう。

13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
13:8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
13:9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」

 皆さんは、この箇所をどのように読むでしょうか。7節のぶどう園の番人というのはイエスさまのことですね。では、6節の「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた」は、どのように読むでしょうか。先ほども言いましたが正解があるわけではありませんから、人それぞれで良いのだと思いますが、私は、「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えたおいたこと」を、神様がヨシュアの時代にイスラエルの民をカナンの地に入植させたことと読みたいと思います。イスラエルの民はそのカナンの地で時に繁栄もしましたが、多くの場合は神様から離れていて信仰の実を結ぶことができないでいました。結局のところ、人は聖霊を受けなければ信仰の実を結ぶことができないのですね。ですから、イエスさまはおっしゃいました。8節と9節です。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』そうして、使徒の働きの時代になって漸く実を結ぶことができるようになりました。
  いかがでしょうか。7節にある三年間を、ヨシュアの時代からイエスさまの時代までという大きなスケールで読むと、スケールの大きな神様により近づくことができると感じないでしょうか。私の場合は、そのことの恵みをとても強く感じます。神様は宇宙スケールの大きなお方ですから、聖書も大きなスケールで読むと神様をより近くに感じる恵みをいただくことができます。私はこの素晴らしい恵みを、是非とももっと多くの方々と分かち合いたいと願っています。
 私がヨハネの福音書の話をよくするのも、まったく同じ理由からです。これまでヨハネの福音書は、紀元30年頃の数年間の出来事として読まれて来ました。それはそれで恵まれますが、いつも私が話しているようにヨハネの福音書の背後には旧約聖書の全体と使徒の働きが重ねられていますから、数千年間が背後に隠されています。この数千年というスケールは神様のスケールですから、このスケールの大きな背後に気付くなら、神様にグ~ンと近づくことができて、何十倍もの大きな恵みをいただくことができます。

(中略)

 聖霊を受けて信仰の実を結ぶ私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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