平和への道

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恵みと真理の御霊に満ちていたイエス(2018.3.21 祈り会)

2018-03-22 20:28:12 | 祈り会メッセージ
2018年3月21日祈り会メッセージ
『恵みと真理の御霊に満ちていたイエス』
【ヨハネ1:14~18】

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

はじめに
 次の聖日はパーム・サンデー、棕櫚の聖日で、教会の暦は受難週へと入って行きます。いま一たびイエス・キリストに目を向けて行きたいと願っていますが、ヨハネの福音書の中で一つ新たに気づいたことがありますので、きょうはそれを分かち合いたいと思います。

「恵みとまこと」とは?
 今さっき、ご一緒に読んだ箇所はヨハネの福音書のプロローグの後半です。この中で2回、14節と17節に「恵みとまこと」という言葉が出て来ます。14節、

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 そして17節、

1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 この「恵みとまこと」はどういう意味で使われているのでしょうか。これまで私は何となく、雰囲気的にはわかるような気がしていましたが、今一つはっきりしないモヤモヤしたものを感じていました。しかし、最近になって新たな気づきが与えられて、よくわかるようになったと感じています。そのヒントとなった箇所が、ヨハネの福音書の最後の晩餐の記事です。このヨハネの福音書の最後の晩餐でイエスさまは聖霊について弟子たちに教えていますが、その中で三回、「真理の御霊」ということばを使っています。今度はそちらを見ることにしましょう。

真理の御霊
 まず14章17節ですが、16節から読みましょう。16節と17節を交代で読みます。

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

 ここでイエスさまは御霊のことをただの「御霊」ではなくて「真理の御霊」と言い表しています。次に15章26節、ここはご一緒に読みましょう。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

 ここでもイエスさまは御霊のことを「真理の御霊」と言い表しています。もう一箇所、16章の13節、

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

 「真理の御霊」は、私たちをすべての真理に導き入れます。この最後の晩餐での「真理の御霊」の記述を読んでいて私は、ヨハネの福音書で「真理」と書いてある箇所を「真理の御霊」と読み替えると、とても理解しやすくなることを示されました。きょう、お分かちしたいこととは、このことです。

「真理」の「真理の御霊」への読み替え
 たとえば有名な8章32節の場合で見てみましょう。8章の30節から32節までを交代で読みましょう。

8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 この32節の「真理」を「真理の御霊」に読み替えると、「あなたがたは真理の御霊を知り、真理の御霊はあなたがたを自由にします」となります。こうするとイエスさまが言っておられることが、とてもわかりやすくなるように感じると私は感じますが、皆さんもそのように感じないでしょうか。
 もう一箇所、18章の37節をご一緒に読みましょう。

18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

 ここも、「真理」を「真理の御霊」に読み替えると、「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理の御霊のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理の御霊に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

 イエスさまは神の王国の王です。王であるイエスさまは聖霊の証をするために、この世に生まれました。ヨハネの福音書のイエスさまは人々に対して、熱心に聖霊を説き明かしました。ニコデモやサマリアの女、そして弟子たちに熱心に聖霊の恵みを教えました。ですから、聖霊を証するために、この世に生まれたと言っても、決して言い過ぎではないと感じます。そしてイエスさまを信じて聖霊を受けた者は、イエスさまの声に聞き従います。
 その他にも、ヨハネの福音書では多くの箇所で「真理」ということばが使われています。それらの箇所も、検証してみていただけたらと思います。100%ピッタリ読み替えるのは難しいと感じる箇所もあるかもしれませんが、かなり良い線をいっていると感じられることと思います。

恵みと真理の御霊
 さてでは、きょうの聖書箇所の1章のプロローグの後半に戻りましょう。1章14節と17節には「恵みとまこと」とありますが、この「まこと」は原語のギリシャ語では「真理」と同じ「アレーセイア」が使われています。つまり「恵みとまこと」とは「恵みと真理」のことです。
 では、この「真理」を「真理の御霊」に読み替えてみましょう。すると14節は「この方は恵みと真理の御霊に満ちておられた」になります。これは、ものすごくピッタリあてはまると感じないでしょうか。例えばルカの福音書の4章1節には、「聖霊に満ちたイエスは」とありますから、ルカ4:1とヨハネ1:14とは良く合います。
 次に17節の、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」は、「律法はモーセによって与えられ、恵みと真理の御霊はイエス・キリストによって実現した」となります。この一つ前の16節には、「恵みの上にさらに恵みを受けた」とありますから、私たちは、律法の恵みの上にさらに聖霊の恵みを受けたということがわかります。
 律法のことばもまた恵みです。いま私たちの教会の礼拝の聖書交読では、ずっと詩篇119篇を交読しています。この詩篇119篇を読むなら、この詩の作者がいかに律法のことばを愛していたかがヒシヒシと伝わって来ます。このように律法のことばは旧約の時代の人々にとって素晴らしい恵みでした。その律法のことばの素晴らしい恵みの上にさらにイエスさまによって聖霊の恵みが増し加えられました。
 この聖霊の恵みは、イエスさまが十字架に掛かって死んだ後に復活し、四十日後に天に帰ったことで、もたらされるようになりました。イエスさまの恵みは、イエスさまが地上にいる間は、イエスさまの近くにいる、ごく限られた者たちにしかもたらされませんでした。しかし、イエスさまが天に帰ったことで、世界中の人々が聖霊を受けることができるようになりました。私たち日本人のクリスチャンも、その聖霊の恵みに与っています。
 1章18節に、「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とあるように、天の父のみもとにおられるイエスさまが私たちに聖霊を遣わせて下さり、神を説き明かして下さっています。

おわりに
 これから棕櫚の聖日、受難週、イースターへと向かって行きます。そしてイースターから7週間後にはペンテコステの日があります。イエスさまは、この恵みを私たちに与えて下さるために、この世に来て下さり、十字架に掛かって下さったことを覚えたいと思います。私たちが聖霊の恵みを受けるためには、まずは十字架による罪の贖いが必要でした。
 このことに思いを巡らしながら、受難週とイースターへと向かって行きたいと思います。最後に、ヨハネ1章の16節から18節までを交代で読んで、終わりましょう。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 お祈りいたしましょう。
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