平和への道

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上善は水のごとし(2017.9.13 祈り会)

2017-09-15 09:52:27 | 祈り会メッセージ
2017年9月13日祈り会メッセージ
「上善は水のごとし」
【マタイ6:25~28】

25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。


はじめに
 きょうのメッセージのタイトルは「上善は水のごとし」です。これは中国の老子の有名な言葉ですが、日本人にとっては日本酒の銘柄の名前としてのほうが知られているかもしれません。
 老子が紀元前何世紀ぐらいの人物かは、はっきりしていないようです。『史記』を書いた司馬遷は老子を紀元前6世紀の人物であると書いているそうですが、他にも紀元前4世紀頃の荘子と同じ時代の人物であるとか、老子は実在しなかったなどという説まであるそうです。いずれにしても『史記』の司馬遷が紀元前100年前後の人物ですから、『老子』は紀元前2世紀以前に書かれた書であることは間違いありません。

上善は水のごとし
 さて、「上善は水のごとし」の「じょうぜん」は「上の善」と書き、「最高の善」という意味です。最高の善の生き方は、水が上から下に向かって流れるごとく、自然に逆らわない生き方だということです。
 私たちは、ワンランク上の生活を目指すように常に強いられています。最近私の車は車検を済ませましたが、最初の登録から15年を経た車ですから、車検をするごとに重量税が上がります。それは10年以上の車のユーザーは早く新しい車に買い替えなさいという国からのメッセージです。電気製品が故障したら、部品交換して古い製品を使い続けるよりも新しい製品を買うことが推奨されます。パソコンのOSもどんどんバージョンアップして行き、古いバージョンのサポートが打ち切られて行きますから、ユーザーはバージョンアップを強いられます。そしてパソコンも高性能のものに買い替えなければならなくなります。企業は新しい製品を開発して売らなければ経営が成り立たず、国も国民が新しい物を次々に買って消費しなければ経済が回って行かないのかもしれませんが、そういう生活は「上善は水のごとし」とは逆行しています。エネルギーを使って水を一生懸命に上に揚げる生活を続ける中で私たちは疲弊し、私たちの魂も蝕まれて行きます。
 ここで、『老子』の「上善は水のごとし」の口語訳の後の文を、もう少し紹介します(金谷治訳、講談社学術文庫)。

「最高のまことの善とは、たとえば水のはたらきのようなものである。水は万物の生長をりっぱに助けて、しかも競い争うことがなく、多くの人がさげすむ低い場所にとどまっている。そこで、「道」のはたらきにも近いのだ。・・・・・・すべて、水を模範として争わないでいるのが、善いのだ。そもそも、競い争うようなことをしないからこそ、まちがいもないのだ。」




 このように老子は、「すべて、水を模範として争わないでいるのが、善いのだ。そもそも、競い争うようなことをしないからこそ、まちがいもないのだ。」と説いています。

水に逆らう生活で疲弊する心
 争いや競い合いの中で生きて行くことは非常に疲れることで、このような生活の中では心の平安を得ることはできません。
 9年前までの私は大学の教員をしていました。大学では様々なことで様々な相手と競い合うことを強いられましたから、いま思い返すと心が休まらない生活でした。9年前に大学を辞めた時、もうこれからはこういう競争社会の中で生きなくても良いのだということに気付いて、心の底から安堵感を覚えました。私は大学での競争に疲れを感じたから辞めたわけではなく、神学校入学へ導かれる中で辞めましたから、いよいよ大学を辞めるという時までは自分が競争社会の中にどっぷりと浸かっていたことに気付いていませんでした。それほど競争社会の中に浸りきっていました。しかし退職の日に、たくさんの先生方や事務方の方々への挨拶回りを終えて大学の門を出た後で心の底から解放感を感じ、その時に初めて自分が競争社会の中にいて疲弊していたのだということに気付かされました。
 ですから、私たちが心の平安を得るためには「上善は水のごとし」の生活をすれば良いのですね。ただし社会全体が上を目指すことを強いる中で「水を模範とする」こともまた、難しいと言えるでしょう。しかしイエス・キリストを信じて聖霊を受けるなら、聖霊が最善の方向へと導いて下さいます。

天の父がすべてを養う
 きょう最初にご一緒に読んだマタイ6章の箇所は、このような聖霊に導かれる生き方のことだと言ってよいでしょう。25節、

25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。


 人間的な知恵であれこれ考えることをせず、聖霊の語り掛けに耳を澄ませて導きに従うなら、様々な心配事から解放されます。26節、

26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

 鳥たちは人間のような知恵を働かせることなく自然のままに暮らしています。天の父が養って下さいますから、ただ委ねていれば良いのです。27節、

27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

 私たちの命に関することは神様の領域のことです。神様の領域のことを人間が心配しても仕方のないことです。28節、

28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

 今沢の海岸では8月の後半にたくさんのユリの花が咲いていました。この季節になると決まって咲いて、海岸沿いを散歩したりジョギングしたりする私たちの目を楽しませてくれます。そのユリたちは知恵を働かせて一生懸命に咲いているのではありません。神様が養って下さっていて、ユリたちはあるがままにしているだけで、自然ときれいな花が咲きます。

相性が良い聖書と老荘思想
 私たちも余計な知恵を働かせなくても、ただ自然のままにして聖霊に導かれていれば、天の父が私たちを養って下さいます。ただし自然のままにすると言っても、どうしたら良いか戸惑う面もあるでしょう。そんな時に老子の「上善は水のごとし」がとても参考になると思います。
 老子と荘子の老荘思想は、聖書の教えととても相性が良いと感じます。紀元前に書かれた『老子』と『荘子』は、まるでペンテコステ以降の聖霊の時代への準備を整えるために書かれたのではないかと思ってしまうほどに相性が良く、相互補完的な関係にあるとすら思います。老荘思想だけでは心の平安は得られません。なぜなら、実際に「上善は水のごとし」のような生活をすることは至難の業だからです。しかし聖霊の助けがあるなら可能になります。或いはまた、聖霊を受けてもイエスの教えはわかりにくい面がありますから、どんな風に生きたら良いか戸惑うこともしばしばです。そんな時に『老子』と『荘子』に聖霊を補って考えるなら、だいぶわかりやすくなります。たとえば「上善は水のごとし」の「水」を「聖霊の導き」に置き換えるとイエスの教えが理解しやすくなります。

東洋の心の初心に帰ろう
 キリスト教は欧米の宣教師によって日本にもたらされましたから、日本のキリスト教には西洋風の味付けがされています。しかし老荘思想との相性の良さを見るなら、キリスト教はアジアで生まれたものだと改めて感じます。
 明治の日本では武家で育ったクリスチャンたちが儒教とキリスト教との間に共通点を見出す傾向があったと思います。しかし私は堅苦しさがある儒教よりも心の自由を追求する老荘思想の方が、キリスト教との相性が遥かに良いと考えます。スケールの大きさ、逆説的なものの見方、作為を排して無為であることを善とする点、永遠の中での心の自由を尊ぶ点などにおいて相性は抜群です。心の自由は聖霊を受けることで獲得できます。
 いま東アジアは、北朝鮮の核兵器の開発を巡って、緊張状態の中にあります。北朝鮮は「上善は水のごとし」とは逆行する方向の動きを強めていますから、緊張はどんどん高まっています。各国は、最高の善は低い方へ流れる水を模範として争わないことであると説いた老子と、聖霊に導かれて神に委ねた生活をすることを説いた聖書を生んだ東洋の心の初心に帰り、東アジアの緊張を和らげてほしいと思います。
 平和を願い、祈りつつ、これからも祈り会では老荘思想と聖書との相性の良さについて学んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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