平和への道

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旧約と新約の重なりから感じる神の豊かな愛(2017.6.7 祈り会)

2017-06-09 11:05:20 | 祈り会メッセージ
2017年6月7日祈り会メッセージ
『旧約と新約の重なりから感じる神の豊かな愛』

【ヨハネ1:19、29、35、43】
はじめに
 先週の祈り会では、ペンテコステ礼拝の直前の学びとして、ヨハネ1章と2章に重ねられている「使徒の時代」について、ご一緒に学びました。
 今週は、先週の学びの記憶が鮮明に残っている間に、同じヨハネ1章と2章に重ねられている「旧約の時代」について、ご一緒に学びたいと思います。
 同じ箇所に「使徒の時代」だけでなく「旧約の時代」まで重ねられているヨハネの福音書が書かれたことは、このこと自体が神の奇跡の現れであると言えると思います。人間業では、このような書を書くことは絶対に無理なことです。まさにヨハネが神の霊感を受けて、書いた福音書であると言えるでしょう。そして私たちは、このヨハネの福音書の「イエスさまの時代」と「使徒の時代」と「旧約の時代」の重なりの中に入れていただくことで御父および御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただき、神様の豊かな愛に包まれることで魂の平安を得ることができます。この平安は、世が与えるのとは違う、イエスさまが与えて下さる平安です。
 きょうは、この神様の豊かな愛を感じながらヨハネ1章と2章の学びができれば感謝に思います。

アブラムに近づいた神
 ではヨハネ1章から見て行きましょう。先週見たように、ヨハネ1章には「その翌日」という言葉が3回使われています(29、35、43節)。そして「使徒の時代」の場合は、「その翌日」が10日間の区切りであって、イエス・キリストの復活からペンテコステの日までの50日間を表していることを説明しました。
 一方、「旧約の時代」においてはヨハネ1章は創世記の時代と重ねられていて、三つの「その翌日」によってアブラハムの時代、イサクの時代、ヤコブの時代へと切り替わって進んで行きます。
 まず19節に「ヨハネの証言は、こうである」とあります。このヨハネは、「旧約の時代」にあってはアブラハムです。より正確にはアブラハムとなる前のアブラムです。このアブラムがどこにいたかと言うと、28節に「ヨルダンの向こう岸」と書いてありますから、ヨルダン川の東側の地域であり、すなわちアブラムが父のテラと共にいたユーフラテス川の流域のウルの地であり、そしてウルを出て途中で宿営したハランの地です。この時はまだアブラムの時代にはなっておらず、父テラの時代であったと言えます。
 そして29節の「その翌日」で、父テラの時代からアブラムの時代に移ります。29節では、イエスさまがヨハネのほうに近づいて行きました。これはつまり、神がアブラムに近づいたことを示します。そして、神はアブラムに、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1-3)と仰せられました。創世記12章ですね。この神の言葉を受けてアブラムはハランの地を出発してカナンの地に入りました。

神に近づいたヤコブ
 そして、ヨハネ1章35節の「その翌日」でアブラムの時代からイサクの時代に切り替わり、43節の「その翌日」でイサクの時代からヤコブの時代に切り替わります。この43節以降ではナタナエルが登場しますが、このナタナエルはヤコブです。ナタナエルは47節でイエスさまのほうに近づいて行きました。これはヤコブが神の祝福を求めて、神のほうに近づいて行ったことを示します。
 創世記のこの箇所は、ご一緒に確認しておきたく思います。創世記32章の24節から28節までを交代で読みましょう。

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

 27節で「あなたの名は何というのか」と尋ねられたヤコブは、「ヤコブです」と偽らずに答えました。かつてヤコブは父イサクに対して自分を偽り、「エサウです」と言いました。しかし、神と格闘した時のヤコブは自分を偽らずに「ヤコブです」と答えました。すると神はヤコブに「イスラエル」という新しい名前を与えました。
 ヨハネ1章に戻りましょう。47節をお読みします。

1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

 ここには今説明した創世記32章の、ヤコブが神の祝福を求めて神に近づき、そして自分を偽らずに「ヤコブです」と答えたらイスラエルという新しい名前が与えられたことが重ねられていることを感じることができると思います。
 このように神であるイエスさまは、「旧約の時代」にも「使徒の時代」にも同時にいます。この神の「永遠」の時間を感じて、御父および御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただきたいと思います。

(賛美歌を挟む)

【ヨハネ2:1~11、23】
出エジプト記の神の十の災い
 続いて、ヨハネ2章を見て行きましょう。
 1章の終わりはヤコブの時代でした。そして2章1節の「それから三日目に」で、2つの時代がスキップされます。それはヤコブの息子のヨセフの時代、そしてヨセフが死んで以降の時代です。このヨセフが死んで以降の時代にイスラエル人たちがおびただしく増えました。これら二つの時代をスキップして、ヨハネ2章の深層部にある「旧約の時代」は、出エジプト記のモーセの時代へと入ります。
 4節でイエスさまは母に「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言いました。これは、モーセがエジプトの王女の息子として育てられたことと重ねられていると考えて良いと思います。
 そして、イエスさまが水をぶどう酒に変えた奇跡は、神がエジプトに与えた十の災いの最初の災いである、ナイル川の水を血に変えた災いです。カナの婚礼の奇跡が災いと重なっていると解釈することに違和感を覚える方もおられると思います。私も若干の違和感を覚えます。しかし、これが最初の災いと重ねられていることは間違いないと思います。と言うのは、13節には過越の祭りのことが書かれていますから、これは十番目の災いの初子の死と重ねられていますし、12節に「長い日数ではなかった」とあるのは、2番目から9番目までの災いが長い日数ではない期間のうちに行われたことが重ねられていると読み取ることができるからです。そして、ページをめくっていただいて、23節を見ると、

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

とあります。このヨハネ2章23節の「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた」に相当する出エジプト記の箇所をご一緒に読みたいと思います。出エジプト記14章の31節です(旧約聖書p.121)。

14:31 イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。

 そうして出エジプト記では、この後、主はモーセを通じてイスラエルの民に律法を授けました。このことをヨハネの福音書は3章で律法の専門家のニコデモを登場させて表しています。イエスさまはこのニコデモに対して聖霊によって新しく生まれることの恵みを説きます。

旧約と新約の重なりから感じる神の豊かな愛
 この3章については、来週以降にまた改めて話したいと思いますが、大切なことは、「旧約の時代」の恵みである律法の恵みと、「新約の時代」の恵みである聖霊の恵みとが重ねられていることです。この重なりから、私たちは神の分厚くて豊かな愛を感じることができます。このヨハネ3章の手前のヨハネ2章では、きょうご一緒に学んだように、出エジプトの恵みとペンテコステの日の恵みとが重ねられています。ここからも神様の豊かな愛が感じられます。そしてヨハネ1章では神がアブラムに近づいてカナンの地に向かうように言いました。ここからイスラエルの救いの歴史が始まりました。このヨハネ1章はまた、「新約の時代」を生きる私たちがイエスさまと出会い、信仰生活を歩み始めることとも重ねられています。
 今も生きていて私たちと共にいて下さるイエスさまは、アブラハムの時代やモーセの時代にもいて、アブラハムとモーセとも共にいます。アブラハムの時代やモーセの時代は人間の時間感覚では過ぎ去った昔の時代ですが、永遠の中におられるイエスさまにとっては昔のことではありません。ですから私たちも御父および御子イエス・キリストとの交わりに入れていただくなら、この「永遠」の恵みに与ることができます。これが永遠のいのちを得るとういことでしょう。このことを理解すると私たちは心の深い平安を得ることができます。

おわりに
 この素晴らしい恵みが与えられていることに感謝して、この恵みを地域の方々にも是非ともお伝えして行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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