s2016年9月4日礼拝メッセージ
『聖霊を欺くことの罪』
【使徒5:1~11】
はじめに
きょうから使徒の働き5章の学びに入ります。きょうの聖書箇所のアナニヤとサッピラが打たれて死んだ記事については、私は使徒の働き1章の学びを始めた時から、どうしようかと思い悩んで来た箇所でした。今の私たちに必要なことを、この箇所から語れないのであれば飛ばしてしまおうと思っていました。しかし、できれば飛ばしたくはありません。それで、どうしたものかと思い悩んで来たわけですが、先週、4章の後半を開きましたから、きょうはいよいよ5章に入らなければならないところまで来ました。
なぜアナニヤとサッピラは打たれたか
なぜ、この箇所からのメッセージが語りにくいのか。皆さんもおわかりと思いますが、もしアナニヤとサッピラが打たれた理由が、自分たちの財産のすべてを教会に捧げなかったことによるのであれば、この沼津教会の私たちも全員が打たれて死ななければならないでしょう。財産の額の多い少ないはあるかもしれませんが、私たちはその一部をそれぞれの家のために確保してあって、すべてを教会に捧げているわけではないでしょう。私もそうです。しかし、このことによって私たちは打たれたりはしていません。
では、どうしてアナニヤとサッピラは打たれてしまったのでしょうか。それは初代教会の本当の初めの頃だから、最初は特別だったのだろうという説教を私は聞いたことがありますが、最初がダメなら今もダメなのではないでしょうか。
教会では神様が「愛の神様」であることを説きます。愛の神様は憐れみ深いお方です。その憐れみ深い神様が、アナニヤとサッピラに対しては、どうして、こんなにも厳しかったのでしょうか。メッセージの中で私がこのことについて何か語ることができないのであれば、私はこのアナニヤとサッピラの箇所は飛ばしてしまおうと思っていました。自分でもよくわかっていないことをメッセージで語るわけにはいかないからです。でも、できれば何か語りたい。そう思いながら、ここ何週間かを過ごしていました。そうして、この使徒5章を読み直している時に、ふと3節に目がとまりました。
この5章3節を読む前に、復習のために4章の終わりのほうから読んで行きます。まず4章の32節、
4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
ここに、教会に集う者たちが自分たちの持ち物の「すべてを」持ち寄って共有にしていたことが書かれています。次に34節と35節をお読みします。
4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
そして後にパウロと伝道旅行を共にするバルナバが、ここで初めて登場します。36節と37節、
4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
バルナバはキプロス島の出身でしたが、やはり自分が持っていた畑を売り、その代金をすべて教会に捧げていました。
そうして5章に入ります。1節から3節までを今度は交代で読みましょう。
5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
このアナニヤとサッピラが行ったことは、私たちも普通に行っていることです。私たちは子どもの学費のためや、或いは自分の親や自分の老後のために財産の一部を自分たちのために残しておき、決してすべてを教会に捧げているわけではありません。しかし、当時はそうではなく、教会の人々はすべてを教会に捧げていました。そして、アナニヤとサッピラが行ったことは聖霊を欺く行為であるとペテロは言いました。
今回、私の目にとまったのは、この3節の「聖霊を欺いて」という言葉です。この、聖霊を欺いたことがアナニヤとサッピラが打たれた理由なんですね。教会の皆が聖霊に満たされて御霊の一致を保っていた時に、その御霊の一致を乱すことは聖霊を欺くことであり、重大な罪であったのでしょう。
私たちの霊的な交わりのレベルを引き上げる聖霊
きょうは、この「聖霊を欺く」ということについて、もう少し掘り下げてみたいと願っています。私は一年ほど前から、御霊の一致を保つことの重要性を繰り返し皆さんに説いて来ました。
ちょうど一年前の9月の第一聖日に私たちの教会は臨時教会総会を開いて、隣の土地を購入することを決めました。この少し前から私は御霊の一致を保つことの重要性を痛感するようになって、説教でも繰り返し説いて来ました。そして、このことによって私自身の聖霊への理解も段々と深まって来て、去年の今頃の私に比べたら今年の私のほうがずっと聖霊への理解が進んだことを私は感じています。聖霊について、どういう点で私の理解が進んだかと言うと、聖霊の神は私たちの一人一人に個人的な信仰の成長を促す働きを為さることはもちろんですが、もっと大切な働きとして、教会において私たちの霊的な交わりのレベルを引き上げる働きを為さる神様だということです。
週報のp.3に第二コリント13章13節のみことばを載せておきました。このパウロの祈りの言葉は、いつも礼拝の最後に読み上げるみことばです。
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
ここに「聖霊の交わり」とありますね。聖霊は、私個人と神様との交わりに関係しているだけでなく教会の中における私たち全体の霊的な交わりにも密接に関連しています。
或いはまた、私が好んで引用する第一ヨハネ1章3節と4節のみことばも週報のp.3に載せておきました。
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。
ここに「交わり」という言葉が何度も出て来ますね。この交わりは、私たちが聖霊を受けて初めてできるようになるものです。ヨハネはこの交わりの中に私たちを招き入れようとしています。教会における交わりは、人間同士の人間的な交わりももちろん含まれます。しかし、より重要なのは人間的な交わりを越えた、霊的な交わりであると言えるでしょう。この霊的な交わりがキリストの香りを放ち、周囲の人々を引き付ける要因になるのだと思います。私たちの交わりが単なる人間の交わりであるなら、周囲の人にとっては私たちの集まりは何の関係もない集まりになってしまいます。しかし私たちの集まりが霊的なキリストの香りを放つものであるなら、人々がそこに不思議な魅力を感じて引き付けられるものなのではないでしょうか。
このように聖霊の神は、私たち個人の信仰を引き上げるためにも働きますが、それ以上の大きな働きとして、私たちの霊的な交わりを豊かにするという重要な働きを持っていると言えるでしょう。このことを私はこの1年で学んだように思っています。
聖霊をけがす者とは?
そうして、このことを思い巡らしていたところ、私は長い間にわたって謎に思っていたことの謎がついに解けた気がしています。それはマルコの福音書3章にあるみことばに関する謎です。きょう、アナニヤとサッピラの箇所を飛ばすのではなく、語ることができそうだと思ったのは、このマルコ3章のことを示されたからです。
ご一緒にマルコの福音書の3章を見ましょう(新約聖書p.69)。3章の28節から30節までを交代で読みましょう。
3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
この箇所を、どう解釈したら良いのか私はずっと疑問に思っており、私の課題になっていました。「神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」とは、どういうことでしょうか。「神をけがすことを言う」ことと「聖霊をけがす」ことの違いが何なのか、私は注解書を読んでもなかなか納得できずにいて、ずっとモヤモヤとした感情を、これまで引きずって来ました。
しかし、今回、使徒5章3節にある、アナニヤとサッピラが聖霊を欺いたことについて思い巡らしているうちに、このマルコ3章のこともわかった気がしました。私はこのマルコ3章のことを、個人の信仰の問題として捉えているうちはわかりませんでしたが、聖霊の働きには、教会の霊的な交わりを促す働きがあるのだという視点から、このマルコ3章を読むなら理解できそうだとわかりました。
つまり、こういうことです。マルコ3章30節に、「このように言われたのは、彼らが、『イエスは、汚れた霊につかれている』と言っていたからである」とありますね。この「彼ら」というのはエルサレムから下って来た律法学者たちのことです。3章22節には次のようにあります。
3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。
律法学者たちは律法の専門家ですから、人々から一目おかれる存在でした。その専門家たちが「イエスは、汚れた霊につかれている」と言えば、多くの人々はその言葉を信用することでしょう。すると、イエスさまが汚れた霊に憑かれていると思い込んだ人からは、イエスさまと豊かな交わりを持つ機会が失われてしまいます。そうして救われるべき人が救われないことになってしまいます。
罪は、個人的な罪であれば悔い改めることで神様の赦しをいただくことができます。しかし、人が救われる機会を奪ってしまった律法学者は、たとえ自分の罪に気が付いて悔い改めたとしても、自分が人から奪ってしまった、その人がイエス様と交わる機会を回復させることは難しいでしょう。このようにして他人をイエス様から遠ざけてしまったことの罪は重大であり、決して赦されるものではありません。こういう意味が「聖霊を汚す」ということの中に含まれているのではないでしょうか。聖霊が人をイエス様との交わりの中に招いているのに、それを邪魔してしまうことは、重大な罪です。
私たちは個人の信仰を守るだけでなく、周囲の人々からイエスさまを遠ざけてしまうことがないように、気を付けなければなりません。アナニヤとサッピラはキリストの香りを放つのではなく、悪臭を放つことで人々をイエスさまから遠ざけてしまうところだった。それを阻止するために打たれた、そんな風に考えられると私は感じています。
おわりに
最後に、ヨハネ15章の5節と6節を交代で読みましょう。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
悪臭を放って、人々をイエスさまから遠ざける者は神様がその者を投げ捨てます。アナニヤとサッピラは、そのように投げ捨てられた者だと言えるでしょう。
ここからわかることは、人がイエスさまとの交わりに入ることは素晴らしい恵みであり、逆にこの交わりに入れないことは、とてつもなく大きな損失であるということです。私たちの周囲には、まだ、この素晴らしい恵みに与っていない方々がたくさんいます。私たちはイエスさまにとどまり、これらの方々を教会にお招きして、多くの実を結ぶ者たちでありたいと思います。
お祈りいたしましょう。
『聖霊を欺くことの罪』
【使徒5:1~11】
はじめに
きょうから使徒の働き5章の学びに入ります。きょうの聖書箇所のアナニヤとサッピラが打たれて死んだ記事については、私は使徒の働き1章の学びを始めた時から、どうしようかと思い悩んで来た箇所でした。今の私たちに必要なことを、この箇所から語れないのであれば飛ばしてしまおうと思っていました。しかし、できれば飛ばしたくはありません。それで、どうしたものかと思い悩んで来たわけですが、先週、4章の後半を開きましたから、きょうはいよいよ5章に入らなければならないところまで来ました。
なぜアナニヤとサッピラは打たれたか
なぜ、この箇所からのメッセージが語りにくいのか。皆さんもおわかりと思いますが、もしアナニヤとサッピラが打たれた理由が、自分たちの財産のすべてを教会に捧げなかったことによるのであれば、この沼津教会の私たちも全員が打たれて死ななければならないでしょう。財産の額の多い少ないはあるかもしれませんが、私たちはその一部をそれぞれの家のために確保してあって、すべてを教会に捧げているわけではないでしょう。私もそうです。しかし、このことによって私たちは打たれたりはしていません。
では、どうしてアナニヤとサッピラは打たれてしまったのでしょうか。それは初代教会の本当の初めの頃だから、最初は特別だったのだろうという説教を私は聞いたことがありますが、最初がダメなら今もダメなのではないでしょうか。
教会では神様が「愛の神様」であることを説きます。愛の神様は憐れみ深いお方です。その憐れみ深い神様が、アナニヤとサッピラに対しては、どうして、こんなにも厳しかったのでしょうか。メッセージの中で私がこのことについて何か語ることができないのであれば、私はこのアナニヤとサッピラの箇所は飛ばしてしまおうと思っていました。自分でもよくわかっていないことをメッセージで語るわけにはいかないからです。でも、できれば何か語りたい。そう思いながら、ここ何週間かを過ごしていました。そうして、この使徒5章を読み直している時に、ふと3節に目がとまりました。
この5章3節を読む前に、復習のために4章の終わりのほうから読んで行きます。まず4章の32節、
4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
ここに、教会に集う者たちが自分たちの持ち物の「すべてを」持ち寄って共有にしていたことが書かれています。次に34節と35節をお読みします。
4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
そして後にパウロと伝道旅行を共にするバルナバが、ここで初めて登場します。36節と37節、
4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
バルナバはキプロス島の出身でしたが、やはり自分が持っていた畑を売り、その代金をすべて教会に捧げていました。
そうして5章に入ります。1節から3節までを今度は交代で読みましょう。
5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
このアナニヤとサッピラが行ったことは、私たちも普通に行っていることです。私たちは子どもの学費のためや、或いは自分の親や自分の老後のために財産の一部を自分たちのために残しておき、決してすべてを教会に捧げているわけではありません。しかし、当時はそうではなく、教会の人々はすべてを教会に捧げていました。そして、アナニヤとサッピラが行ったことは聖霊を欺く行為であるとペテロは言いました。
今回、私の目にとまったのは、この3節の「聖霊を欺いて」という言葉です。この、聖霊を欺いたことがアナニヤとサッピラが打たれた理由なんですね。教会の皆が聖霊に満たされて御霊の一致を保っていた時に、その御霊の一致を乱すことは聖霊を欺くことであり、重大な罪であったのでしょう。
私たちの霊的な交わりのレベルを引き上げる聖霊
きょうは、この「聖霊を欺く」ということについて、もう少し掘り下げてみたいと願っています。私は一年ほど前から、御霊の一致を保つことの重要性を繰り返し皆さんに説いて来ました。
ちょうど一年前の9月の第一聖日に私たちの教会は臨時教会総会を開いて、隣の土地を購入することを決めました。この少し前から私は御霊の一致を保つことの重要性を痛感するようになって、説教でも繰り返し説いて来ました。そして、このことによって私自身の聖霊への理解も段々と深まって来て、去年の今頃の私に比べたら今年の私のほうがずっと聖霊への理解が進んだことを私は感じています。聖霊について、どういう点で私の理解が進んだかと言うと、聖霊の神は私たちの一人一人に個人的な信仰の成長を促す働きを為さることはもちろんですが、もっと大切な働きとして、教会において私たちの霊的な交わりのレベルを引き上げる働きを為さる神様だということです。
週報のp.3に第二コリント13章13節のみことばを載せておきました。このパウロの祈りの言葉は、いつも礼拝の最後に読み上げるみことばです。
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
ここに「聖霊の交わり」とありますね。聖霊は、私個人と神様との交わりに関係しているだけでなく教会の中における私たち全体の霊的な交わりにも密接に関連しています。
或いはまた、私が好んで引用する第一ヨハネ1章3節と4節のみことばも週報のp.3に載せておきました。
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。
ここに「交わり」という言葉が何度も出て来ますね。この交わりは、私たちが聖霊を受けて初めてできるようになるものです。ヨハネはこの交わりの中に私たちを招き入れようとしています。教会における交わりは、人間同士の人間的な交わりももちろん含まれます。しかし、より重要なのは人間的な交わりを越えた、霊的な交わりであると言えるでしょう。この霊的な交わりがキリストの香りを放ち、周囲の人々を引き付ける要因になるのだと思います。私たちの交わりが単なる人間の交わりであるなら、周囲の人にとっては私たちの集まりは何の関係もない集まりになってしまいます。しかし私たちの集まりが霊的なキリストの香りを放つものであるなら、人々がそこに不思議な魅力を感じて引き付けられるものなのではないでしょうか。
このように聖霊の神は、私たち個人の信仰を引き上げるためにも働きますが、それ以上の大きな働きとして、私たちの霊的な交わりを豊かにするという重要な働きを持っていると言えるでしょう。このことを私はこの1年で学んだように思っています。
聖霊をけがす者とは?
そうして、このことを思い巡らしていたところ、私は長い間にわたって謎に思っていたことの謎がついに解けた気がしています。それはマルコの福音書3章にあるみことばに関する謎です。きょう、アナニヤとサッピラの箇所を飛ばすのではなく、語ることができそうだと思ったのは、このマルコ3章のことを示されたからです。
ご一緒にマルコの福音書の3章を見ましょう(新約聖書p.69)。3章の28節から30節までを交代で読みましょう。
3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
この箇所を、どう解釈したら良いのか私はずっと疑問に思っており、私の課題になっていました。「神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」とは、どういうことでしょうか。「神をけがすことを言う」ことと「聖霊をけがす」ことの違いが何なのか、私は注解書を読んでもなかなか納得できずにいて、ずっとモヤモヤとした感情を、これまで引きずって来ました。
しかし、今回、使徒5章3節にある、アナニヤとサッピラが聖霊を欺いたことについて思い巡らしているうちに、このマルコ3章のこともわかった気がしました。私はこのマルコ3章のことを、個人の信仰の問題として捉えているうちはわかりませんでしたが、聖霊の働きには、教会の霊的な交わりを促す働きがあるのだという視点から、このマルコ3章を読むなら理解できそうだとわかりました。
つまり、こういうことです。マルコ3章30節に、「このように言われたのは、彼らが、『イエスは、汚れた霊につかれている』と言っていたからである」とありますね。この「彼ら」というのはエルサレムから下って来た律法学者たちのことです。3章22節には次のようにあります。
3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。
律法学者たちは律法の専門家ですから、人々から一目おかれる存在でした。その専門家たちが「イエスは、汚れた霊につかれている」と言えば、多くの人々はその言葉を信用することでしょう。すると、イエスさまが汚れた霊に憑かれていると思い込んだ人からは、イエスさまと豊かな交わりを持つ機会が失われてしまいます。そうして救われるべき人が救われないことになってしまいます。
罪は、個人的な罪であれば悔い改めることで神様の赦しをいただくことができます。しかし、人が救われる機会を奪ってしまった律法学者は、たとえ自分の罪に気が付いて悔い改めたとしても、自分が人から奪ってしまった、その人がイエス様と交わる機会を回復させることは難しいでしょう。このようにして他人をイエス様から遠ざけてしまったことの罪は重大であり、決して赦されるものではありません。こういう意味が「聖霊を汚す」ということの中に含まれているのではないでしょうか。聖霊が人をイエス様との交わりの中に招いているのに、それを邪魔してしまうことは、重大な罪です。
私たちは個人の信仰を守るだけでなく、周囲の人々からイエスさまを遠ざけてしまうことがないように、気を付けなければなりません。アナニヤとサッピラはキリストの香りを放つのではなく、悪臭を放つことで人々をイエスさまから遠ざけてしまうところだった。それを阻止するために打たれた、そんな風に考えられると私は感じています。
おわりに
最後に、ヨハネ15章の5節と6節を交代で読みましょう。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
悪臭を放って、人々をイエスさまから遠ざける者は神様がその者を投げ捨てます。アナニヤとサッピラは、そのように投げ捨てられた者だと言えるでしょう。
ここからわかることは、人がイエスさまとの交わりに入ることは素晴らしい恵みであり、逆にこの交わりに入れないことは、とてつもなく大きな損失であるということです。私たちの周囲には、まだ、この素晴らしい恵みに与っていない方々がたくさんいます。私たちはイエスさまにとどまり、これらの方々を教会にお招きして、多くの実を結ぶ者たちでありたいと思います。
お祈りいたしましょう。